東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 市中取締類集十四

 本巻には、前巻のあとをうけ旧幕府引継書類の一環をなす市中取締類集河岸地調之部(全八冊)のうち、その八(上・中・下)及び地所河岸之部一(一〜四)・二(一〜四)を収めた。前者は弘化三年より嘉永元年まで2の一件書類で、件数でいえば第八七件「弘化三午年十一月 鍛冶橋御門外御堀端松平土佐守物揚場之儀ニ代調」より第九六件「嘉永元申年十二月 瀬戸物町裏地先河岸地内土蔵壹ケ所補理町内鎮守稲荷勧請致度旨ニ付調」までの十件(文書番号四二四〜四八七、付帯文書二通)、後者は嘉永二年より同六年までの一件書類で、第九七件「嘉永二酉年二月 表坊主吉田長佐拝領町屋鋪間数改地尻会所地拝借願之儀ニ付調」より第一二二件「嘉永六丑年十二月 武州〓飾郡海辺新田百姓松五郎所持地面町家作出来之儀ニ付屋敷改より掛合調」までの二十六件(文書番号四八八〜六二二、付帯文書七通)である。後者の原題は「地所河岸之部」とあるが、河岸地調之部の「追加」であり、従来よりの方式を踏襲して本巻でも正篇の河岸地調之部につづいて「追加」を収めることとし、柱には「地所河岸地之部」の原題を留め、一件番号及び文書番号は正篇に続けた。これにて「市中取締類集十一」以来引続いた河岸地調之部を完結した。
 本巻の一件書類に出てくる河岸地は、鍛冶橋門外堀端、神田川端稲荷河岸、柳原新シ橋際明地、箱崎橋際河岸、大工町河岸、本湊町河岸、南本所横網町大川端河岸、江戸橋広小路河岸、瀬戸物町裏地先河岸、神田佐久間町河岸、本船町河岸、深川松村町河岸などであり、また河岸地に隣接する拝領町屋敷等に関する書類もみられる。
 内容は多岐にわたるが、とくに二、三の事柄について紹介しておく。幕府は天保改革において綱紀粛正・江戸市中取締強化の一環として河岸地の再点検を実施し、橋々火除等のため橋台際の家作を撤去し、また物揚場・物置場に用いることを禁じたが、物揚場所等の取究めもたいままの実施であったこともあって、これは必ずしも徹底しなかった如くで、依然として橋際の明地が物揚場に利用されていたり、橋台際の概念規定も充分周知徹底せず、今更の如く橋台五間の内とは如何に心得べきかということが問題になっているのは、その一斑を示すものとして注目されるし、一方では紀伊家より神田川端稲荷河岸の蜜柑揚場について再三再四に亘って当該期間の貸渡し出願がなされているにもかかわらず、幕府は頑としてこれを許可していないのは、河岸地の物揚場・物置場としての重要性と幕府の河岸地統制の基本的な姿勢を窺う上で重要であろう。
 いま一つ注目すべきことは、町会所貸付金未済のまま返却が行われるなどして種々問題となっていることである。町会所の設立は寛政の改革の備荒貯穀策の一環でもあったが、度重なる臨時救済入用と米価高騰時における囲籾等の入用により町会所有金は減少の一途をたどり、天保の改革の中で町会所金の貸付制限策もとられたが、沽券地貸付に対し拝領地には地所不相応の貸付も行われた如くである。例えば、弘化四年十二月に宝生座役者大蔵弥太夫が拝領した小田原町二町目の九十七坪余の地は売買の沽券高に見合せば百十二両程度で、前拝領主の御用部屋坊主内田由宜の町会所貸付金は四百三十九両余に及ぶものであった。しかも由宜は返済不能にて他所に替地を拝領し、一方、莫大なる借財あることを知らずに拝領した弥太夫は、借用残金の返済を迫られ慌てているのである。町会所貸付金は沽券地の場合は土地が担保とされるのに対し、拝領主への貸付は地代・店賃上り高が担保とされたのであるが、由宜の場合はあまりにも不相応な貸付を受けていたといわなければならないし、また町会所貸付金未済のまま屋敷返納が行われることは他にも実例があることであり、これらは町会所金の拝領地貸付の性格にも関るものとして注目されよう。
 なお、本文中の図板は、便宜巻末にまとめて収めたことは前巻と同様である。
(例言一頁、目次二頁、本文三九七頁、巻末図版六四頁)
担当者 阿部善雄・橋本政宣


『東京大学史料編纂所報』第15号p.60