東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 『東京大学史料編纂所報』第14号(1979年)

妙法院史料調査

 昭和五十三年九月四日より十一日までの八日間、前年に引続き京都市東山区の妙法院門跡の史料調査を行ない、併せて撮影した。なお林・石上の両名は京都大学の調査を行なったが、それについては便宜五十四年三月の両名の調査の項で記す。今回の調査・撮影は第三十九箱から第四十四箱下段之十二までについて行なった。詳細は本所架蔵の『妙法院所蔵重書目録』(四一〇〇/六五/一—一〇)についてみられたい。
 なお今回は、三崎義泉師の御教示により、昭和五十年度調査の際に不明であった左記の史料の追加撮影をした。

一、第二十二箱第十二括
 イ 普賢延命御修法次第    一帖
 ロ 普賢薩〓行法口決記    一帖
 ハ 普賢延命御修法      一冊
 ニ 普賢延命法        一帖
 ホ 曼供行用         一冊
 ※本書ハ『目録』不載ノ分ニシテ、奥書ニ「元禄十二己卯天/建卯月吉日」トアリ。
一、第三十三箱第六括ノ六
胎蔵界供養法
 (貼紙、朱書)「文化六年八月十一日 台嶺護法金剛真超記」
         文化七年孟春 権僧正遍照金剛真應記写」

 また『目録』第十、十干目録「庚」ノ部第六十二、狩野内膳孝信写「豊国大明神臨時祭礼図」模本一部、吉田家蔵同模本一部を別途に撮影したので、これについて付言する。
 当院所蔵の「豊国大明神祭礼図」模本の所在については既に知られるところである。
 当院所蔵の模本は二本あり、包紙二通に(イ)「豊国祭礼図屏風写孝信筆天明三年写之 二通之内」/(ロ)「豊国祭礼図屏風写吉田家蔵 天明三年写之 二通之内」と墨書があり、二通ともに天明三年に模写されたものである。各々六曲一双の屏風を一扇一枚に透写した、いわゆる「まくり」のかたちで保存されている。(ロ)は十二枚揃っているが、(イ)は右集の第一扇と左集の第六扇の、それぞれ最外部の一枚ずつが失なわれて十枚である。各紙は多少の差異はあるが概ね同じ大きさの等質の透写用の紙で、その模写は専問家の手になる精巧なものであり、部分的に淡彩がほどこされ、一部は色名が記入されている。描線の質からみて原画の面影は伝えられているかにみえる。とすれば、(イ)(ロ)は異なる作家の筆になったものらしく、(ロ)の「吉田家蔵」は社務吉田兼見の後裔の家蔵にかかることを示すのであろうが、原筆者の名は不明である。
 (イ)の「孝信」については、狩野永徳の子、光信の弟孝信といわれ、その画風からも包紙の「孝信筆」を信じてよいのではないかと思われる(宮島新一「豊国臨時祭礼図について」芸能史研究四九号参照)。
 臨時祭についてはすでに『大日本史料』第十二編之二、慶長九年八月十四日条・十五日条に立項されている。『梵舜日記』『義演准后日記』『言経卿記』『時慶卿記』『鹿苑日録』『豊国大明神臨時祭日記』『慶長日件録』などの記事によって祭礼の具体的な進行の様子がうかがえる。この祭礼図屏風は、これらの文献史料を補助するのに恰好の材料である。
 豊国神社臨時祭を描いたものに、上の二本のほかに(ハ)狩野内膳の落款がある豊国神社本と(ニ)伝岩佐又兵衛筆の徳川黎明会本が知られている。これらの諸本は構成と主題の設定にいくつかの相違点があり、とくに注目すべきなのは、慶長九年には既に焼亡していた大仏殿の扱い方と、さきの諸記録が記述している熱狂的な群衆像の処理の仕方についてである。
 とくに後者に関して(ハ)(ニ)が躍動的な群衆を構図に組み込んで、祭りの熱気を伝えようとしているのに比して(イ)(ロ)はむしろそれを抹消して整然とした犠式としての祭りを描こうとしている点が注目される。この違いについては画家、制作年時、注文主の意向など絵画以前の諸条件が考慮されねばならないであろうが、群衆の熱狂ぶりを故意にはずした屏風図の存在は、家康による民衆操作の作為性が強かったと評されるこの臨時祭のかくされた意図をかえって鮮明に語っているのかもしれない。その意味でも興味深い模本である。
 なお撮影は、(イ)の場合、右集から一枚のまくりを「右�—1」「右�—2」のように四等分して、各部分を一コマ宛、上から順番に撮り、一枚のまくりを終えた時点で「右�」「右�」とを並べて二枚が接続したかたちで上→下へ撮り、つぎにふたたび「右�—1」→「右�—2」の順で撮る。この順序で右�から右�まで撮った。左集についても同様である。(ロ)についても同じ手順で撮影し、各部分を表示する紙序を各葉の上隅にいれてある。焼付写真帖を閲覧するときは、この表示に従って全体における各葉の位置が復原される筈である。
(林 幹彌・今泉淑夫・石上英一・永村 眞)


『東京大学史料編纂所報』第14号p.100