大日本史料第十二編之四十八

本冊は後水尾天皇元和八年八月廿三日から九月是月に至る史料を収める。
 この期間の主要な事件は、前冊の最上義俊改易後の出羽山形への鳥居忠政の転封をはじめとする諸大名の転封である。これらのうち酒井忠勝(信濃松代→出羽庄内)、真田信之(信濃上田→同松代)などの転封については、城地の受け渡しの際に新旧受封者および幕府上使の間で授受される文書の若干を収めることができた。
 次にこの期間では、徳川義直、同頼宣、島津家久など諸大名の参府が目立つ。ただし頼宣の参府は九月是月の条に収めたように病気のため実現しなかったのであるが、その病気は島津家久家士同久元によって「不紛御不例」と報じられている。また島津家久の参府についても、それを不審とする風説を細川忠利がその書状に記している。次冊以降に収める予定の本多正純および松平忠直の改易との関連で注目すべきと考えられる。(なお、立花宗茂の参府に係る同夫人「ねね」書状で、差出しの「ねね」に「葉室氏ヵ」と傍註したが、「矢嶋氏」と訂正したい。)
 朝廷に関しては、花山院忠長の子犬丸が別に一家を興して野宮を称し、禁色・昇殿を聴された事件がある。忠長は、後陽成天皇慶長十四年に所謂禁中風紀事件で勅勘を受けて家康によって蝦夷に配流された人物であり、その子の犬丸が後水尾天皇に近侍してこの処遇を得たのであった。
 死歿では、立入宗継と山口直友がある。宗継については、ひところ喧伝されたわりには良質の伝記史料は尠く、歿年月日についても客観的史料を欠いているが、姑く家伝によって九月二十六日に係けた。直友に関しては、本所々蔵の島津家文書に多数の関連史料があるが、本冊に於いては慶長八年江戸幕府の成立以降(第十二編に属する期間)に係かるものは、体例の許す範囲で可能なかぎり採録する方針をとった。
 巻末の補遺は、「江戸幕府朱黒印内書留」(京大国史学科所蔵)を中心として作成した。この「留」は、秀忠の右筆曽我尚祐および建部伝内(昌興)の控の写本であり、脱丁、錯簡はあるがその史料的価値は極めて高いといえよう。また、この補遺と第十二編既刊の補入されるべき条を比較すれば、「東武実録」がこの「留」(ないしは「留」の原本に源流する写本)を一つの典拠としていることが判明する。これは「東武実録」の史料的価値にも関わることと言えよう。
担当者 高木昭作・黒田日出男・藤田覚
(目次四頁、本文五五八頁、補遺目次六頁、補遺本文六三頁)

『東京大学史料編纂所報』第14号 p.35*-36