日本関係海外史料「イギリス商館長日記訳文編之上」

日本関係海外史料の刊行の趣旨については『所報』第九号の九七頁に、その第二の収載史料である『イギリス商館長日記』については同第十三号の三六頁に記したので重複を避ける。この『イギリス商館長日記』、では唯一の著者であるリチャード・コックスの略伝については、本書例言及び前記『所報』のそれに委ねるが、その後コックス自身の遺言状の写が見出されたので「一五六八年ごろイングランド中部のスタフォード郡のストールブロック(Stalbrock, within the county of Stafford, Staffordshire)に生まれた」と訂正する。
 本冊はその訳文編本文二分冊の第一冊(自元和元年五月、至元和三年六月)として商館長リチャード・コックスの在職期間中の公務日記(Diary of Richard Cocks, 1615-1622)の大英博物館所蔵原本二冊の内第一冊(AM第三一三〇〇号)の全文、すなわち、原文編之上所収の旧暦(ジュリアン暦)一六一五年六月一日(元和元年五月十五日)より一六一六年十二月三十一日(元和三年十二月四日)までの全部と、原文編之中の前半、一六一七年一月一日(元和二年十二月五日)より同年七月五日(元和三年六月十三日)までの部分、合せて闕損なく二年間の記事の翻訳を収める。但し、例言にも指摘してある通り、原文の欄外註は重要なものを割註に引用する以外総べて省略し、かつ原本の体裁の如何に拘らず暦年の変り目では頁を改め、月の変り目では行間を空けた。
 連合オランダ東インド会社の設立に先立ち一六〇〇年旧暦十二月二十一日イギリス東インド会社がエリザベス一世の特許により設立され、一六〇一年から一六一二年にかけて一二回の個別航海を通じて東インド各地に商館が設けられ、平戸商館もそのひとつであった。これより先一六〇〇年旧暦四月十九日、オランダ船リーフデ号(別名チャリテイ号)が豊後佐志生に漂着したとき舵手として来日し、その後徳川家康の外交顧間となったウィリアム・アダムズ(三浦按針)が、平戸イギリス商館設置に関って力があったことは周知の通りである。東インド会社の第八航海の司令官ジョン・セイリス John Saris は、一六一三年旧暦六月十二日平戸に来航、アダムズの仲介で九月八日には駿府にある家康にジェイムズ一世の親書を提出、江戸で秀忠に謁し、帰路貿易開始の許可を得て平戸に帰り、十一月二十六日に舶船会議を開いて、平戸イギリス商館の開設を決議し、コックス以下八人の館員を任命して十二月五日に日本を去った。
 コックスは当初平戸僑居シナ甲必丹李旦の屋敷を商館に充て、一六一四年には長崎・江戸(及び駿府)、大坂(及び堺・京都)に代理店を置くほか、対馬にも代理店の設置を計画し、一方ピーコック等を派遣して交趾シナ貿易に当らせたが対馬の計画は実現せず、交趾への航海は完全な損失で、しかもアダムズを船長とするジャンク船スィー・アドヴェンチュア号の第一回暹羅航海も失敗であった。しかし、一六一六年九月二十日(元和二年八月二十日)の江戸幕府による貿易地平戸限定令の発令とその制限緩和運動のころまでの三年間は、商館の建物や活動の拡張、本国からの来航船の受入れ、オランダ商館との相対的友好の保持など、活気のある時期であった。
 コックスには、セイリスの駿府、江戸旅行中の一六一三年八月七日より十一月六日までの平戸留守日記(Purchase, His Pilgrimes, I. pp. 395-405 ハクルート叢書、第三巻五一九〜五四八頁)と、後のイギリス商館閉鎖時の一六二二年十二月二十日から二十四日までの日記抄録(英国連邦及外務省内インド省文書シナ資料)があるが、現存する自筆日記は、前記の通り一六一五年六月一日、商館の新築工事進行中に、前年末暹羅へ向かい暴風雨のため航海を全うせず琉球に五か月滞泊したスィー・アドヴェンチュア号が五島に帰着し、その再艤装の地を五島にすべきか平戸にすべきかを考慮しているところから始まる。その翌日には、大坂落城の第一報が平戸に到る。
 一六一五年八月三十一日、商館開設以来初めて英本国から到着したホゼアンダー号を迎えると、九月十一日から十一月二十九日までに亘り同号艦長ラルフ・コピンドール(Ralph Copindall)がアダムズを伴ない参府、京都を経て駿府に家康を訪問して、表敬の上、薩摩琉球貿易の許可を願った。アダムズは幕命によって浦賀来着のスペイン使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリナ一行の応接に当る。
 浦賀より帰ったアダムズは一六一五年十二月七日より翌一六年七月二十二日に至るスィー・アドヴェンチュア号による第二回暹羅航海に成功、その帰帆に先立ち、英本国からの第二船トマス号と第三船アドヴァイス号が平戸を賑わす。この三船を平戸に残してコックスはアダムズとともに一六一六年七月三十日より十二月三日まで江戸参府旅行を続ける。家康没後の秀忠政権による貿易許可の更新を願ったものであるが、前記の貿易地制限の朱印状を受け、コックスはその朱印状の内容を知らずに江戸を去ったが、大坂よりの急報により再度江戸でその緩和運動を行わなくてはならない。この旅行中に商館員セイヤーは会社の買った魏官のジャンク船で長崎より南海に出航するが、漂流して薩摩に至り、その船体を、アダムズは、今は三年一か月の会社の勤務を離れて買取り、自ら船長として商館員セイヤーを伴なって一六一七年三月二十三日交趾に向かい、一方、艤装を終えたスィー・アドヴェンチュア号は、これより先日本人船長助太夫を雇い、商館員イートンを乗せて一六一六年十二月二十一日に第三回暹羅航海の途につく。
 以上、コックスとアダムズを中心に本冊の内容の大筋を辿ったが、記主の平戸、長崎及び参府途上の大坂・堺・京都・江戸その他で見聞する大坂落城後の幕府の大名統制、とりわけ豊臣残党に対する強い関心、そこから生ずる秀頼生存説や松平忠輝の改易処分、しだいに強まるキリシタン迫害と、それにもかかわらずポルトガル貿易の保護など幕政史上の事件、江戸城、長谷大仏、方広寺、三十三間堂、豊国廟のたたずまい、平戸商館での琉球産の藷の植附、平戸における風俗、とりわけペーロンの行事、商館員をめぐる人的関係、コックスの読書歴など多くの異味ある記事が、鎖国以前の日欧交渉、商業上の対人関係、貨幣や物資の流通事情とともに本書の内容を豊富にしている。なお、この期間における平戸藩主松浦肥前守隆信の動静を、平戸を基準にしていえば、一六一五年九月六日京都より下国、一六一六年二月十四日江戸へ出発、同年六月十六日平戸へ下国、一六一七年五月五日江戸へ出発となる。総じてトムソン版コックス日記(下記)が抄本であって前後関係や数量的記載を不明確にしているのに対して、史料価値が高いのである。
 本冊には、例言に本叢書の趣旨、イギリス商館長日記の略解題、訳文編の編述、編纂の体制を含めたが、原文編の英文の緒言、序説、及び凡例は訳出しなかった。
 本冊の翻訳は金井が行い、村上直次郎編、エドワード・モーンド・トムソン原編のコックス日記複刻本 Diary of Richard Cocks, Cape-Merchant in the English Factory in Japan, 1615-1622. With Correspondence [originally edited by Edward Maunde Thompson]. Japanese Edition. Withe Additional Notes by N. MURAKAMI, Bungakushi. (Tokyo MDCCCXCIX, 2 vols)、それに依拠した東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十二編之十八〜二十八(大正四〜昭和三年刊)、長崎県著『長崎県史』史料編(岡田章雄・沼田次郎訳編、昭和四十一年刊)、武田万里子・森睦彦「リチャード・コックス日記試訳」(『法政史学』第二十一〜二十四号、昭和四十四〜四十七年刊及び『長崎市立博物館報』第十三・十四号、昭和四十八−四十九年刊)、皆川三郎著『平戸英国商館日記』(昭和二十二年刊)を参照した。なお校正は非常勤職員設楽和子も分担した。
担当者 金井圓・五野井隆史
(例言七頁、目次三頁、本文八〇〇頁、図版一葉)

『東京大学史料編纂所報』第14号 p.39**-41