日本関係海外史料「イギリス商館長日記原文編之中」

本冊は『日本関係海外史料』第二の収載史料であるイギリス商館長日記原文編三分冊中の第二冊で、原文編之中(自元和二年十二月、至元和四年十二月)Original Texts. Selection II. Volume II (January 1. 1617-January 14, 1619)として商館長リチャード・コックス在職期間中の公務日記 Diary of Richard Cocks, 1615-1622 の内、大英図書館所蔵原本AM第三一三〇〇号の後半一六一七年一月一日より一六一七年七月五日まで及び第三一三〇一号の前半一六一七年七月六日より一六一九年一月十四日に至る二年余りの記事を収める。(第三一三〇一号の前半と後半の間には一六一九年一月十五日から一六二〇年十二月四日に至る約二年間の闕損部分があるので、本冊と第三冊目との間は本文が続かず、その空白部分の補充のために第三冊目の末尾にその期間中の史実にかかわるコックス発信書翰の入手できるもの一三通(一六一九年二月二十一日より一六二〇年十二月十六日まで)を附載する予定である。)当時イギリス人はまだ旧暦(ジュリアン暦)を用いているので、前記の本冊の収載年代は一六一七年一月十一日より一六一九年一月二十四日、邦暦では元和二年十二月四日より同年十二月九日までに相当する。
 本冊所収の時期は、かつてルードウィヒ・リースによって「屈辱の時期」(Three Years of Humiliation)と呼ばれた三年間の大半に相当する。これより先徳川家康亡きあと秀忠政権はイギリス・オランダ両商館に平戸長崎以外の地での貿易活動を厳禁した。商館長コックスは、家康時代の特権の復活を請願しつづけるが、たまたま一六一七年七月再来したアドヴァイス号のもたらした英国王ジェイムズ一世の家康宛ての国書を携えて伏見で秀忠に謁見しても、その目的を達することができない。一方、オランダ東インド会社はバタヴィア総督クーンの指揮下に海上勢力を増大し、その麾下のオランダ船が捕獲したイギリス船アテンダンス号を伴って平戸に入港するなど、平戸における両国商館の間にはしだいに感情的対立が深まり、コックスはオランダ船の掠奪行為を幕府に訴え続けもする。そしてこの日記では闕損しているが、当初八人だった商館員のうち、ニールソンが五人目の死者で、コックスの同僚はイートンとセイヤーズの二人となり、永年の友三浦按針がこの世を去ったほか、コックスが中国貿易の確立のため期待し投資してきた中国人李旦の弟華宇も死去して、イギリス商館の前途は、英蘭両会社の防衛同盟(一六一九年六月二日締結)の報が一六二〇年七月二十三日平戸に来るまで、暗澹たるものがあったのである。
 日記は大部分平戸で記されているが、本冊では一六一七年七月二十七日より同年十一月十六日に及ぶ伏見往復、一六一八年八月二十三日より翌一九年一月八日に及ぶ江戸往復の二回の参府旅行を含んでいる。その旅行の途次に見聞する朝鮮信使呉允謙一行の来聘、後陽成院葬礼の準備、小田原や江戸の火災をはじめ天変地異(地震・彗星)のこと、さらにはコックス自身の病気や船火事の経験が記されるが、平戸では、オランダ商館の拡張工事の進行、幕命による松浦氏領内惣検地の施行、三浦按針の三年一か月(一六一三年十一月より一六一六年十二月まで)に亘る商館勤務の決算とジャンク船ギフト・オヴ・ゴッド号による交趾渡航(一六一七年三月十九日より八月十一日まで)、イートンによるスィー・アドヴェンチュア号の交趾渡航計画の失敗、細川忠興のキリシタン処刑を始め諸大名・諸商人の動静、さらには長崎でのペーロンの行事の由来など多彩な記事がある。
 本冊の翻字は三−六四、二二八−三八○頁を非常勤職員吉川裕子が、六五−二二七、三八一−四一五頁を金井が担当し、校正は右のほか非常勤職員高木尚子も分担した。
(目次一頁、例言二頁、本文四一五頁、第一冊の正誤表六頁、他に第二冊の正誤表投込一頁)
担当者 金井 圓

『東京大学史料編纂所報』第14号 p.41*-42