東京大学史料編纂所

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明治大学刑事博物館所蔵内藤家文書調査

 内藤家文書については、明治大学図書館が一九六五年に発行した『明治大学所蔵内藤家文書目録』がある。維新史料部は、一九七六年六月十五日、七七年十月二十七日、同十一月二十五日の三回にわたり、右の『目録』において、まとまった史料群として存在している覚書、日記、案詞、状留などについて、幕末維新期のものに限定して、各史料の性格をつかむ作業をおこなった。以下に、調査概要を記す。なお、各史料名の頭に付してある数字は、『目録』第一部の中の分類番号である。
六 万覚書
 次の二種類がある。
○「目録」の万覚書の項の前半に記載されている一九五冊
  延岡の御用部屋日記。江戸藩邸よりの達を留めているほか、家中の任免・進退・水害など領内の諸事件、農民からの訴状なども留められている。一部を次に例示する。
 「(嘉永六年七月)三日
   一江戸去月九日仕立之使昨夜着左之通申来候
    一大御目付中様〓御廻状を以今度相州浦賀表江異国船渡来ニ付万々一内海江乗入候儀も難計候間若右様之節は芝辺〓品川最寄屋敷有之万石以上之 面々は銘々屋敷相固候心得ニ而可罷在旨御触有之由(中略)
     右之通申来候付各江も申談委細之儀は江戸状留ニ有之候ニ付爰ニ略ス」
 「(安政七年)三月十七日晴
   一江府去ル四日仕廻之便昨昼時過相達左之通申来候
    一去ル三日夜井伊掃部頭様衆〓以奉札掃部頭様三日御登城掛於御途中御不慮之儀御座候段格別之御間柄ニ付御内々為御知被仰進候段申参候旨
    一右ニ付早速御留守居を以御見廻被仰進候之旨
    一右ニ付為御見廻去ル四日留守居御使者を以御肴被進候筈之由
 (中略)
   右之通申来候間各江も申談早速達御聴候事            」
○「目録」の万覚書の項の後半に記載されている一三五冊
  後筆で表紙に「江戸万覚書」と記してあるように、江戸藩邸で記されたもの。日々留めてあり、特に幕府からの達は必ず記している。一部を次に例示する。
 「(嘉永元年)八月六日晴
   一酒井雅楽頭様江昨日御縁女様江御結納被進即日御婚姻御整被成候御悦平兵衛相勤之(下略)
   一駿州富士浅間社堂修復ニ付武蔵一国御府内勧化
    御免ニ付御寄附物金弐百疋包拵御留守居江相廻         」
七 万覚帳
 江戸藩邸御用部屋の日記。江戸における対幕府関係の記事を多く留めている。
 また国元からの便による藩内の動向も記述されている。一部を次に例示する。
「(嘉永六年)六月十二日
  一今朝五時御供揃ニ而大中寺江御参詣四時御帰
  一去ル九日之場ニ有之通異国船万一内海江乗入非常之場合有之候ハ、相図次第御曲輪内出火之節之通相心得登城又は持場々々相固可申旨御触有之候ニ付猶又御心得方等御窺被差出候処御附札を以御差図有之候依之若異国人防禦之御達有之候ハ、
   御公務出役御番頭表方之面々非常之節之役割等左之通被仰付置可然旨遂相談達御聴伺も相済候付一紙廻状ニ而申渡候
    (下略)                         」
八 覚帳
 江戸藩邸大目付所の覚帳。家臣への申渡、藩主の動静、江戸市中・藩邸の警備などの記事を記している。一部を次に例示する。
「(嘉永六年)六月九日
  一左之御書付御用番相渡候間御番頭始諸向江申談候
     大目付江
 異国船万一内海へ乗入(中略)右之趣可被相触候          」
一〇 延岡覚帳
 差出した書状と到着した書状の日付と発信者名とを、延岡藩邸の用人が留めたもの。書状の内容は別帳に譲ってある。一部を次に例示する。
 「(嘉永六年二月)廿二日廿三日廿四日廿五日
  一江府江弐番之御用状差出左之通
   一殿様旧臘廿七日御鷹之鴈拝領右同日出火之節御防大手組被為蒙仰候恐悦
   一日田之郡代池田様〓達書之御返書写差上
   一踏絵御借用御返答書差上
   一高木作右衛門暮中御見廻之御書写差上
   一右御同所様〓年始之御書写差上                」
「(文久三年)四月十三日
 一今般英国軍艦渡来不容易儀申立応接之模様ニ寄開兵端茂難計旨御沙汰ニ付而は当時御在府御留守中旁別而心配之儀ニ付細川越中守様中川修理太夫様秋月長門守様伊東右京太夫様江御使者を以御頼被仰進候之間御口上書取調候様御用番被申聞候ニ付則認出来中川様伊東様江之御口上書今日御用番江差出候事(毛利伊勢守)(毛利)          」一一 日記
 いくつかの種類の日記がある。閲覧したものは左の通り。
○千歳役所日記(一〜一五)
 大庄屋からの願書、触書、年貢割付などの記事が日々記してあり、代官所の地方支配の様相がわかる。一部を例示する。
 「 覚
  一囚人弐人 但手錠腰繩付
   右者豊後千歳〓延岡江差越候ニ付、足軽四人警固差添差遣候間、旅宿等無滞様頼入存候以上
   (安政三年)九月四日           磯貝谷右衛門
                         右途中
                          村役人中        」
○延岡の大目付所日記(一六〜二三)
  家中の進退・任免・処罰、家中からの諸届、白洲への呼出、用番への上申、大目付への達等である。一部を例示する。
 「(文久元年)八月一日
  佐々登之助江 仰渡
  其方儀兼而内意之筋茂有之候ニ付鎗術稽古引立中籾五俵被差止候
  右今夕七ツ時御用番松田銀右衛門於宅当役惣太夫立会被仰渡相済申候 」
一三 御案詞
 江戸藩邸から幕府や諸大名へ差出した書状の控である。
一四 案詞
 表紙に「江戸状案詞」とあり、江戸藩邸へ送った書状の延岡藩邸御用部屋における控である。在国の時の藩主の動静や在府中の領内の風水害の被害状況報告などが、この史料によってわかる。次に一部を例示する。
「追啓寺院之梵鐘大炮小銃鋳換之儀従
 公儀御触之趣去年中被仰聞候付御領内撞鐘取調方寺社方江申渡置候処此節取調出来差出候付則別紙壱通ト壱緘為差登申候尤末寺有之寺院〓本寺ニ可準心得ニ而取調候由  公儀御触面ニ〓大中小本寺之儀有之候得共前段本寺ニ可準寺院之本寺御他領故先々〓之本寺穿鑿いたし候得〓急速ニ調出来兼候付別冊之通相調候段町奉行申達候右之趣長門殿初各江茂被仰渡被達 御聴尚又其筋御問合之上御届向御取計可被成候以上
  八月廿六日                五人殿   三人」((安政三年))「一筆令啓上候然者井伊掃部頭様御病気之処御養生不被成御叶去月晦日御卒去被成候段奉絶言語候乍憚
 充真院様御愁傷之御儀奉恐察候右為可奉伺御機嫌如斯御座候(中略)可然様御沙汰可被下候頼入存候恐惶謹言
  四月廿一日                        」((万延元年))「一筆啓上候然者寺院之梵鐘大炮小銃御鋳換之儀従公儀御触有之候時直ニ御領主ニ而御鋳換被成苦ケ間敷哉其筋江御問合之儀去年中申進候間御留守居江御談去ル辰年為差登候寺社方調書御渡被成寺社御奉行松平摂津守江御留守居罷出寺社役江面会問合候処右辰年為差登候調書ニ而〓巨細之儀不相訳差図難致候間調直差出候様申聞候由ニ而御留守居〓差出候御書面御差下被成候時其向江申談置候得共未調直出来不申候間出来次第為差登候様可致候恐惶謹言(安政三)
 三月廿六日
                               松田銀右衛門
長坂平左衛門殿                        」((元治元年))「追啓百目以上之筒御鋳立被成候節〓
 公儀江御届可被成旨先年御触有之候処当時〓諸家様ニ而茂多分御届無之由此表ニ而茂追々大炮御鋳立相成候得共右之御振合故此節挺数等不相進候追而御届被成候御並合相成候ハ、其節可被仰越候取調相進候様可致候以上
  六月廿六日                    五人
     五人殿                       」((慶応二年))一五 大坂状案詞
 大坂藩邸へ送った書状の延岡藩邸御用部屋における控である。延岡にいる家臣が上府の途次、大坂へ立寄ることを告げた書状が多いが、中で興味深い箇所について一部を例示する。なお、この系統の史料中に京都御用部屋の大坂状案詞(慶応四年 二冊)が混入している。
「追啓先便被申達候其表役人村北ノ町大和屋又兵衛より豊後大分郡新貝村穢多忠兵衛同村庄屋弥五郎江牛馬皮為登方相滞候趣を以及訴訟候段被仰聞候付早速其向江申渡置候処此節受書取之差出候ニ付則弐通為差登申候右受書之趣を以御取計可有之候以上
  十一月十一日               貳人殿   三人」((安政四年))
「一筆令啓上候然は当
 御参府西洋流御筒弐挺御持登相成候ニ付ヒス管別紙之当りを以御買上之上其表御着船次第御差出可有之候恐惶謹言
  四月廿七日                      三松幾右衛門
     小林祐蔵殿                          」
「四拾五番
 一筆令啓上候然〓防長御征伐ニ付
 御進発御旗本御後備被蒙
 仰候ニ付夫役之者六拾五人早船仕出申付今日為差登候間其表逗留中居所御賄等之儀前々之通御取計可有之候恐惶謹言
  九月廿二日               小林祐蔵殿
                    山名十右衛門殿 四人
                    織笠昌右衛門殿    」((元治元年))「壱番
 一筆致啓上候然〓防長御征伐付御進発御延引ニ茂相成此表〓罷登居候御供之面々御差下相成候ハ、船都合も有之事ニ付追々之乗船ニ可相成左様相成候ハ、役方之面々席之差支申達も御座候間成丈右面々〓御差下被成候様奉存候(下略)
  正月十三日 (元治二年)              内藤四郎兵衛殿 五人」
○京都御用部屋大坂状案詞 慶応四年
 延岡・大坂・京都・江戸間の書状の着到を記す記事が多いが、ところどころに京都の様子・政情を伝えるものがある。その例を一部、左に記す。
「追啓去月晦日大御目付中様〓之御廻状御同席触を以此度従京都〓御軍勢被差向候付而〓弥謹慎罷在決而安動致間敷且上様御退隠御相続之儀紀伊中納言殿江被仰出候儀 朝廷江御願被遊候処御願之趣ハ御奏聞ニ不相成由之儀ニ付委細御触有之候付此旨御家中江即日為相達候                                     」一六 江戸来状留
 江戸藩邸よりの来状を延岡藩邸の御用部屋で留めたもの。藩主在府中は藩主の動静、幕府大目付からの達・触、諸大名との音信贈答、江戸諸家臣の進退等について記してある。一部を例示する。
「追啓去ル十五日安藤対馬守様御登城坂下御門辺ニ而狼籍者鉄砲打掛七八人程抜刀を以御駕籠左右〓切掛候ニ付(中略)右之趣各江茂被仰談被達御聴候様存候則別紙貳通差下申候  正月十九日                三人殿   四人
 再啓本文之儀ニ付風説書茂有之候得共此儀は当使平兵衛〓上書致し候筈ニ御座候以上                                」((文久二年))「   覚
 去亥年収納米之内
 一米壱万六百三拾弐石余
 右者備後守領分日向国延岡〓大坂表江書面之廻米仕候尤同所町御奉行所江も御届申上候ニ付此段申上候以上
  子九月晦日                内藤備後守家来
                        成瀬老之進 」((元治元年))
「今度備後守儀御進発之節御旗本御後備被仰付候ニ付兼而伺済之通追々大坂表江家来之者呼寄置候処永々多人数逗留為致候而〓兼々不如意之勝手向御座候処無益之雑費而已相嵩弥勝手向差向難渋仕候間滞坂為致置候家来一ト先在所表江差戻申度尤御進発被仰出候得〓猶早々為呼登候様仕度此段厚御汲取御賢察之上何卒御差図被成下候様各様〓御内慮奉伺候様被申付候以上
  十二月十三日              内藤備後守家来
                         渡辺平兵衛 」((慶応元年))一七 地方案詞
 延岡藩の飛地である大分・国東・速見の三郡の領分村々を支配する千歳役所(国東郡)の役人から郡奉行に充てた用状の案文留。村々の事件、年貢米金取立、江戸・大坂・延岡への廻漕、日田・別府からの借財等についての克明な報告である。一部を例示する。
「辰壱番(安政三年)
      (中略)
  一国東郡唐櫃村穢多金蔵并家内出奔帳外郡之通被御聞届候間村方江可申談旨致承知候  一去卯石代米壱石ニ付八拾七匁大豆八拾八匁ニ御極被成候之旨致承知候
  一三郡大豆代米願被御聞届之旨致承知候
      (下略)                        」
  (安政四年二月二日)
「一日田拝借金歎願書御差出ニ付佐藤斎治へ同所出役御申達被仰付候ニ付則当人江之御別封御遣候間可相届旨承知早速相渡候処御受状差出申候(下略)     」
  (同年二月廿一日)
「一日田拝借金証文類出来申遣御目録之通致落手候(下略) 」
「二月五日  
  一踏絵之義高松へ得と問合之上可申達旨致承知候
  一臼杵様ニ而は踏絵相止郡中へ御触書別紙写差出候間御承知可被下候 」((万延元   年))
「番外
 以急飛致啓上候各様弥御堅勝被成(中略)然〓昨夜半�崎有田弥一郎〓京摂大変之風聞書差越候間尚又今早壮之進儀同所番宅江罷出問合候処別書之振合ニ相違無御座様申聞候(中略)
 一只今高松御陣屋詰〓一昨十四日夜半豊前四日市御陣屋を始御防所江何方之者共不相分多人数及乱妨焼払候段為知越大変成事ニ御座候書類差出懸御目申候右ニ付而〓国東郡御領分村々茂甚気遣敷御座候得共迚茂少々之人数出張仕候而茂却而害心茂可相成歟乍恐捨置候筋不相成郡中取締出張可仕候尤銀数差配方茂有之御勘定方弐役手配罷在候間是亦急速出役之積ニ御座候
 一前条不容易時勢ニ茂差及候得〓掛離居候村方も有之候間各様之内御壱人急速御出役万事御差図相成候様仕度奉存候
 一鈴木弟蔵追々御承知被下候通用事未当地不仕候処此砌ニ付而〓農兵共別而引立不仕候而ハ不相成当役所茂御用多追々御勘定方茂取々出役等仕候得〓無人ニ相成右弟蔵儀大炮方掛之仁ニ茂御座候得〓幸ひ之儀旁暫当所逗留為仕度表向当人江茂御沙汰相成候得〓大ニ都合宜敷御座候間是亦急速可然御申達可被下候
  右之趣為可申達早々如此御座候恐惶謹言
   正月十六日               安藤四良右衛門
                        (連名略) 」((慶応四年))
一八 諸案詞
 諸役所での書状の留。長州征伐・戊辰戦争の時期の留を多く含む。多様なので、主なものについて記す。
 28 慶応元丑年従七月寅七月迄 江戸御勝手状案詞
   征長の時期に、在坂の軍政方が江戸の御勝手方へ送った書状の大坂での留。延岡藩の財政の窮乏、征長の時期の大坂市中の様子などが記されている。一部を例示する。
 (慶応元年十月十八日)
 「延岡表も当境此節之変動此後如何之事ニ相成候哉更ニ見留も無之御軍用高役金も追々繰上ニ相成惣高六万両余之内最早僅ニ壱万両余之御残金仮令此儘無事ニ御滞坂ニ而も漸く来三月迄位之支へ丈ケニ而其後之見込は更ニ無之」
 (慶応二年五月十八日)
 「一筆致啓上候然者別紙之通御蔵元〓御留守居迄申出候処全は此度市中江大造成御用金被仰出既ニ辰巳屋拾万両之由是迄之御帳合と〓厳重之御達ニ而心配罷在候趣を以御館入之諸侯江は都而歎願致候由」
 (慶応二年六月八日)
 「米之方ハ昨今石八百七拾八十目金壱両ニ百五匁位実ニ稀成相場既ニ松本様始御在所〓之運送不便利之諸侯食料御買入出来兼極々御難渋之趣且又市中貧民動すれは打寄候模様も有之村方之儀も鴫野之事ニ而御察可被成候夫々御扱当時施行或ハ粥被下等少々之凌居候よしに候処是も新穀取扱候迄間合も有之如何成変事何方江相発し候も難計御時勢当方ニおゐて術計も無御坐」
25 慶応元丑年十月ヨリ十二月迄 御滞陣中延岡御用状返進留
  江戸・国元からの手紙を大坂において留めたもの。征長関係の史料を多く記してあり、一部を例示する。
 「夫役之者給銀等之儀別紙写之通り郡奉行申達候ニ付申達之通被御聞届可然と各遂相談其段申渡候付其向江御沙汰之儀御取計可被成候則別紙為差登申候
 以上
   九月廿六日           五名
  三名宛
   手控
 御軍用ニ付大坂表江為御差登人足百弐拾人御領分中高割仕御城附中ニ而正人差出豊後宮崎高千穂之儀ハ御収納高ニ相当人高壱人ニ付一日銀壱匁弐分ツツ一ヶ年分夫銀為相納(下略)
   八月             郡 方                 」
 なお十一月十二日の国許への手紙には、増人夫三十八人派遣要請の記事があり、十二月 四日付国許からの手紙には、人吉藩内騒動の報告がある。
40 甲府御用状進返留 慶応四辰年五月ヨリ
 慶応四年正月鳥羽伏見の戦の時、延岡藩は大坂野田口警衛の兵を出したため朝敵となるが、のち許され甲府城番応援の出兵を命ぜられた。その際の京都御用部屋と家老の間の用状の留。「老若打交り不揃」の兵約百三十名が甲府に着くとまもなく谷村へ分隊出兵を命ぜられ、三日後に飯能に分隊出兵させられ、暑さの折から病人が多くて苦しんだ模様や、さらに奥羽表出張を仰付けられたので、縁家である三条実美に周旋を頼み奥羽出兵は免れるなどの事情がわかり興味深い。
一九 他所文通留
 各地から千歳役所に到来した書状の留。日田県とのものは往復書状を留めている。
「慶応四年 他所文通往返留」の中から、同年正月、長崎奉行河津祐邦の長崎逃亡を記した箇所を次に例示する。
 二月二日 田口甲太郎書状 駒木根瀬平・猪持壮之進宛
 「然る処大坂戦争後当地奉行所江も薩摩〓打入候風聞専ら有之右ニ付市中も殊之外動揺いたし候処先月十四日夜八時頃御奉行河津伊豆守様御支配向一同魯西亜商船御借受右船江御乗組翌十五日昼後当港御出帆相成申候随而当地御奉行所御用向取扱之儀者出崎之諸藩并地役人衆議之上万事取扱候様相成候」
   (山口啓二・小野正雄・稲垣敏子・多田実・宮地正人・高埜利彦)


『東京大学史料編纂所報』第13号p.74