大日本古記録「建内記八」

本冊には、前冊のあとをうけ文安四年三月から文安四年六月までの、本記および紙背文書を収めた。なお、( )内は底本に用いた諸本である。
文安四年三月記・同紙背文書(宮内庁書陵部所蔵伏見宮本建内記第二十五巻)
文安四年四月記・同紙背文書(同第二十六巻)
文安四年五月記・同紙背文書(同第二十七巻)
文安四年六月記・同紙背文書(同第二十八巻)
なお、第二十七巻の二十八紙・二十九紙の表裏を口絵として収めたが、この意図は、次のようなものである。
この記事は、文安四年五月十七日条の後半から翌十八日条の前半にあたるものだが、正記ではなく、四十四年後の延徳三年八月廿日、支証が紛失したため新に幕府の奉書を申請すべく、時房自筆の記を証拠書類として提出したため、そのあとに写しを作って貼り継いだものである。記事にみえる北国口湖上率分が問題とされたためであろう。支証が紛失したからとはいえ、時房自筆の日記が傍証となっている点、注目したい。しかも、その写を提出したのではなく、正記を提出した点で、提出者は写を上回る効力を期待していたとみなくてはなるまい。正記なるが故に、四十四年前の文書と同等に近い効力をもつと提出者が考えていたといえる。一般に、日記の正記がこのように考えられていたかどうかは、速断しがたいが、珍らしい事例であろう。
また、正記から二紙を引き剥して幕府に提出したあとを埋めるべく、そこから写し取った紙の一枚は、勧修寺教秀に宛てた差出人未詳の書状の裏を使用したものである。とすると、この幕府提出云々は、勧修寺家内部で起ったことにちがいない。万里小路時房の日記の正記が、同じ一流とはいえ、勧修寺教秀の手許にあったことを示すものであろう。延徳三年より六年前、時房の子冬房は、那智の海で補陀落渡海を遂げてしまっている。冬房には男子がなかったようで、系図によれば、初め甘露寺親長の子を、この養子が出家すると、勧修寺教秀の子を養子としたようになっている。冬房は、応仁元年(一四六七)出家しているから、甘露寺親長の子が養子となったのは、この前後であろう。初めの養子は四年後の文明三年に出家してしまったので、勧修寺家から嗣子を迎えたのであろう。これが万里小路賢房である。文明四年叙爵、七歳と伝えるのは、この賢房が万里小路家を嗣いだ時のことであろう。今問題の延徳三年時点では、二十六歳である。詳述は別の機会に讓るとして、つまり、この幼い賢房が万里小路家を嗣いだ時点で、時房の正記も家領の支証文書ともども、嗣子賢房の実父勧修寺教秀の手許に預けられ、また万里小路家代々が保有した率分所の権利も教秀の手許に保管されることになったと考えられる。だからこそ、後年になって、教秀の許に届けられた手紙の裏が、正記を写し取る料として使われたものに相違あるまい。(もっとも、賢房が成長後も実父の許にいて、実父の反故紙を使った、と理屈の上からは考えられなくはないが。)正記の伝来の一ページを説明してくれる事例でもある。
担当者 益田宗
(例言一頁、目次一頁、本文二一二頁、図版二葉、岩波書店発行)

『東京大学史料編纂所報』第13号 p.32