東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 『東京大学史料編纂所報』第12号(1977年)

所報―刊行物紹介

大日本史料 第九編之十五

 本冊には、後柏原天皇大永二年(一五二二)正月より三月までを収める。
 この年、公家の世界では、久しく途絶えていた正月の三節会(元日節会・白馬節会・踏歌節会)が復活し、明るい正月を迎えていた。時の後柏原天皇は、戦国の世とて、践祚後二十二年も即位の儀を行いえなかった悲劇の主人公としてしばしば語られる。朝儀復興の兆しがみえるのは、これより六年程前の永正十三年暮頃のことである。幕府よりの献金を受けて翌十四年には十五年ぶりに三節会が執り行われ、大永元年三月には、後柏原天皇の即位の儀が挙げられた。本年は正月の節会の他にも、正月五日の叙位、三月二十六日にはこれまた明応六年以来二十余年途絶していた県召除目が行われた。
 永正〜大永という時期は、このように朝儀復興の動きが顕著に認められる時期である。その背景については未だ十分に解明されているとほ言えないないが、時の管領細川高国の政治的立場が大きく関係していることは確かであろう。
 さて、朝儀はそんな俗世間の思惑とは関りなく、公家社会の伝統に支えられて執り行われ、参列した公家は、文字通り一挙手一投足を刻明に記録している。本冊に収めた公家関係の史料では、まず現役の公卿(つまり朝儀に参加しうる公卿)のものでは、権中納言中山康親の「中山康親記」、同鷲尾隆康の「二水記」がある。また第一線を引退した公家(朝儀の見物者になる)のものでは、甘露寺元長の「元長卿記」、東坊城和長の「菅別記」、中御門宣胤の「宣胤卿記」などがあり、外記中原康貞の「中原康貞記」も残されている。架蔵先の御配慮により「二水記」(内閣文庫)、「中山康親記」・「宣胤卿記」(京都大学文学部)、「中原康貞記」(早稲田大学図書館)などは原本によって校訂することができた。改めて謝意を表したい。
 この他、和歌御会・和漢聯句御会、御楽など月次の行事は、それぞれ正月二十三日の和歌御会始、ニ月十日の和漢聯句御会始、二月二十六日の御楽始の条に、年末までの分をまとめて収めてある。
 一方奈良の興福寺では、三月五日、大乗院経尋が別当となった。経尋は関白左大臣九条尚経を父に、三条西実隆女保子を母として生まれ、興福寺に入ってからは「貴種」と呼ばれるエリート中のエリートとして待遇された。二十一歳になった永正十六年薬師寺別当となり、大永元年四月大僧都、同十二月には興福寺維摩会の講師を勤めて、本年二月十一日には二十四歳にして法印となった。経尋は別当になった本年より、寂する大永六年まで、「寺院雑要抄」と名づける日記(今は原本架蔵者たる内閣文庫の書名に従い「経尋記」として引用した)を残している。本冊では二月より六月末の栂尾開帳(高山寺に参詣すると同時に、京都の諸方へ別当就任の挨拶をするという意味もあった)に至る一連の儀式、別当の事務引継などを「経尋記」をはじめとする諸史料で跡づけた。
 なお、経尋が別当になるに当り、京都の在富氏に依頼して、従来の花押を一部手直ししたことを伝える「経尋記」の一節をコロタイプ版で示した。
 収載期間が三箇月と短いこともあって、武家関係では、三月六日の安芸吉川元経の卒去とその伝記史料、大内氏と尼子氏が安芸で戦った記事(三月十八条)、大内義興の宇佐八幡宮造営のため条規(三月是月条)などが目立つ他は、あまり大きな事件はない。
(目次九頁、本文四四六頁、挿入図版一葉)
  担当者 菊地勇次郎・桑山浩然・永村眞


『東京大学史料編纂所報』第12号p.74