東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 猪隈関白記 三

 本冊には、前冊のあとをうけ、建仁元年四月より同二年十二月までの一年九箇月分を収めた。記主藤原家実は二十三歳−二十四歳、左大将、右大臣であり、父基通は氏長者で摂政の要職にあった、
 本冊に於いても、朝儀や典礼に関する記事が大半を占めるが、「所報」第九号で述べた継入紙によって大変詳細綿密に記されている。今その主なものを挙げれば、灌仏会(建仁元年四月八日)、最勝講(同年七月十七日)、法勝寺八講(同年七月五日)、斎宮群行奉幣(同年九月九日)、豊明節会(同年十一月二十一日)、家実がその外題を書いた土御門天皇の御読書始(同年十二月二十二日)、源通親を尊者とする基通第臨時客(同二年正月二日)、後鳥羽上皇の八幡並に賀茂御幸(同年三月)、季御読経(同年六月)、上皇の新造京極殿御移徙(同年十月十九日)、基通の近衛殿北殿における仏経供養(同月二十六日)、官奏並に不堪佃田定(同年閏十月)、朔旦冬至賀表並に旬儀・同叙位(同年十一月)等がある。又、文書の書き様を示したものに、御監馬允申文・最勝講日時勘文並に僧名・奏報・補記録所上卿宣旨・所充申文目録などがある。
 記事は簡略ながら注目すべき事項としては、上皇の熊野御幸(元年十月五日・二年十一月二十九日)、官使に就いての太政官と記録所の相論(元年八月三日)、九条兼実の出家(二年正月二十九日)、記録所をして荘園訴訟を決裁せしめたこと(同年八月二十三日)、通親の頓死(同年十月二十一日)、仏師運慶の造った仏像供養(同月二十六日)、左大臣良経に対する内覧宣下(同年十一月二十七日)などが挙げられる。殊に、基通を擁立した通親の急死は、やがて基通父子の失脚・閉門という容易ならざる事態に立ち到るが、此記に於いては、良経が内覧宣旨を蒙ったことだけを記して、基通の辞任・閉門、またその原因・経過などについては全く触れていない。従って、当時の父子の動静など知るよしもない。但し、此日以後記事が激減して私事だけに限られるようになり、ようやく閉門を解かれた十二月二十六日に到って書葉少なに「凡此間事難尽筆端」とだけ記している。もって、此父子の受けた衝撃がいかに大きかったがが推察されるのである。
担当者 近衛通隆
(例言一頁、目次二頁、本文四〇一頁、図版二葉、岩波書店発行)


『東京大学史料編纂所報』第12号p.76