東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 言経卿記 十

 本冊には、慶長四年七月より同五年十二月まで一ヶ年半の記事を収めた。史料編纂所々蔵の自筆原本では、第二十一冊の後半部分および第二十二冊全部である。記主山科言経の五十七歳と五十八歳の日記である。言経は西堀川に私宅をもっていたが、おもに本願寺内に居住し、徳川家康の知遇を受けて近江のうちに知行所二百石を与えられていた。
 慶長五年は関ヶ原合戦のあった歳であり、合戦に関する風聞はかなり丹念に書き留められている。すなわち同年七月十八日の記事には「昨夜也云々、」として細川忠興夫人ガラシヤが大坂で自害したことを記している。この部分の写真は巻頭に掲載した。翌十九日以後西軍による伏見城の攻撃が始まるが、八月一日の落城まで一日の例外もなく連続してこれに関する記事を載せ、昼夜鉄砲による執拗な攻撃のあった様相を克明に伝えている。八月二十九日条には、「去廿三日美濃國岐阜城ニテ合戦有之云々、」とし、織田秀信の消息については「キフノ中納言死生不知之云々、」としている。合戦の風聞が岐阜から京都に達するまで一週間かかっているわけである。九月に入ると大津城合戦の記事が三日・七日・八日・十二日の各条にみえ、城主京極高次が高野山の應其の勧めによって開城した事情は「宰相ハアツカイ也云々、」と記している。
 関ヶ原合戦当日の九月十五日条には「美濃大柿・赤坂等ニテ大合戦有之、内府出張也云々、内府勝也、筑前中納言同心也云々、備前中納言敗北、後日自害、」とあるが、これは明らかに後日挿入した記事で、墨色も同日に書かれたものとは相違している。ちなみに同月十六日の条には鳥養道〓と雑談したことを書き、「昨日歟美濃國・近江國東ニテ合戦有之云々、取々沙汰了、」としている。現実には十六日に合戦の風聞がすでに届いてはいたが、その詳細は曖昧なものであったようである。同月十七日の佐和山落域の記事も後日の挿入で、これには「後日聞之、」と明記してある。
 小西行長と石田三成は九月二十二日に、安國寺恵瓊は同月二十三日にそれぞれ生け捕られ、大坂・堺を渡されたうえで、十月一日に六条河原で斬られ、その首は三条橋辺にさらされた。これらについては「言語道断之事也、」という簡単な感想が述べられているにすぎない。
戦後、家康は禁裏の北にあった原長頼の屋敷を接収して言経に与え、言経は十月中に請取を完了し、満足の意を書いている。
 なお、学芸・宮廷の行事・薬事等の記載が豊富なことは既刊の諸冊と同様である。
(例言一頁、目次一頁、本文二七〇頁、挿入図版一葉、岩波書店発行)
担当者 田中健夫


『東京大学史料編纂所報』第12号p.76