東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之三(上)

 本冊は、『日本關係海外史料』オランダ商館長日記譯文編の第五回配本で、譯文編之三(上)(自寛永十四年六月、至寛永十五年六月)として、第八代商館長ニコラース・クーケバッケル在職期間中の公務日記の第三で最後の部分、前掲原文編之三所収の一六三七年八月九日より一六三九年二月三日に及ぶ一七か月の記事の前半、一六三八年七月三十一日までの訳文を収める。
 極東におけるオランダの地位はなお相対的には不安定であったが、バタフィアを中心とするオランダ東インド会社の、タイオワンでの中継貿易をひとつの軸とした貿易独占の可能性は次第に増大する一方、江戸幕府のキリシタン禁制、日本人海外渡航の禁止によって、南蛮貿易・朱印船貿易に代る日蘭貿易の前途は次第に明るくなる。本冊では、その日々の過程が、島原天草の乱におけるオランダ商館の幕府への軍事協力をひとつの頂点として進行するのである。
 記事は一六三七年(寛永十四年)の取引期間の中ごろに始まり、再任された長崎奉行ヒダ殿(榊原飛騨守職直)及びサブロゼイモン殿(馬場三郎左衛門利重)との交渉が、つねに長崎代官フェゾ殿(末次平蔵)の取次で進められる。白糸割符仲間による価格統制や蘭船出帆時期に対する統制の撤廃要求はなお懸案のままであり、幕府はポルトガル人排斥にはなお逡巡している。資金調達のための上級商務員コルネリス・ファン・ザーネンと助手ダニエル・レイニールセンの大坂旅行の詳細は記されないが、長崎駐在の下級商務員ウィレム・フルステーヘンのもたらす商況はその都度刻明に記録されている。
 本巻の圧巻は、しかし、一六三七年十二月十七日(寛永十四年十一月二日)にその第一報が平戸に届いて以後の、有馬の農民・牢人の蜂起、その天草への拡大、キリスト教徒の参加、江月和尚の平戸訪問、松浦隆信の入国、ついでオランダ商館の軍事援助、戦況と戦後処理に及ぶ、いわゆる島原の乱の経過を記した部分であろう。『天馬異聞』はそのほんの一部の意訳であったが、ここでは原文の逐語訳が示される。参戦までにクーケバッケルは松浦隆信と末次平蔵の総督ファン・ディーメン宛ての手紙を訳載し、亡き商館長ナイエンローデの妻子の処遇を決し、自己の辞任の意志を明らかにして、カロンを残る二隻目の船でバタフィアに送っていた。
 外国人の手まで借りるとは、という矢文の話も出てくるが、レイプ号で出陣した記主は、一六三八年三月十六日(寛永十五年二月)には平戸に帰った。そして同月二十九日から六月二十四日まで(二月十五日から五月十三日まで)は、江戸参府日記となる。将軍家光の謁見は形の如く行われるが、タクミ殿(牧野内匠頭信成)、チクゴ殿(井上筑後守政重)との会見の詳細は、この段階での幕府の対外政策の機微を知るのに適している。レイプ号は、その間にバタフィアへの往復航海をしている。
 マカオ使節ジョアン・ペレイラ以下ポルトガル人の冷遇の有様はそれほど詳細に記されていないが、寛永十三年五月の南蛮子女追放令の訳文や一六三七・一六三八両年度ポルトガル船舶載品目録の訳文も重要な所見であろう。
 本冊の翻訳はすべて金井が行い、永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記』第三・四輯、国書刊行会本『天馬異聞』のほか、へールツの蘭文書翰英訳、その山県昌〓による邦訳(『史学雑誌』一九〜二二、二六)などを参照した。底本は、島原の乱の記事への興味から歴代オランダ商館員が好んで愛読したものと見えて、痛みや剥落が多く、その上所蔵者が合成樹脂加工してさらに解読が不便になっており、多数の異本と校合して原文編を作ったが、訳文編では、原文編に集成された校合済の原文に拠り訳述し、傍註・割註・標出を付した。巻頭の図版はそれらの諸本の同じ日付の部分(一六三八年一月)の現状を示してある。
担当者 金井圓・加藤榮一
(図版一葉、例言四頁、目次三頁、本文二五〇頁)


『東京大学史料編纂所報』第12号p.80