大日本維新史料類纂之部「井伊家史料十」

本冊には、安政五年九月四日から九月二十五日までの史料をおさめた。安政大獄の弾圧が開始された時期である。
 本冊の冒頭には、九月四日、九条尚忠の内覧罷免の記事がある。島田左近の奔走で関白の罷免は免かれ、内覧のみを辞することとなったわけだが、これは、尚忠と結んで朝廷工作をおこなってきた井伊直弼にとって放置できない問題であった。直ちに、関東の承諾の無い限り罷免は認めない、という強硬な申し入れが幕府から朝廷に対しておこなわれる。尚忠を復職させるためにも反対派に対する弾圧は急がねばならなかった。
 九月八日、まず梅田雲浜が逮捕された。島田左近や長野主膳の書状は、京都所司代酒井忠義が逮捕の断行を躊躇したため、主膳が伏見奉行内藤正繩と相談して逮捕の段取りを決めたと記している。忠義の弱腰な態度は、絶えず主膳の非難の的になっているが、本冊には、忠義が間部詮勝や在府老中に宛てた書状も多く収めているので、主膳の書状と対比して読むと興味深い。
 主膳は、九月九日、京都を去って彦根へ帰り、十四日、近江国坂田郡醒ケ井に上京の途上にある詮勝を迎え、鵜飼吉左衛門・同幸吉の逮捕の必要を力説した。詮勝は、この進言をうけ、十六日に京都町奉行小笠原長常を大津に呼び、鵜飼父子の逮捕を命じた。十七日、詮勝は京へ着し、主膳も潜かに入京、翌十八日、鵜飼父子逮捕のはこびとなった。この時期の主膳の書状は、自分の進言を守りさえするならば、反対派の弾圧と詮勝の使命達成は容易となるであろうことを、得意気に江戸へ報じている。彦根藩京都留守居後閑弥太郎、京都町奉行与力渡辺金三郎が、京都での主膳の活動を助けて活躍したことは、両人の主膳宛の書状などによって明かである。
 第五九号は、押収された鵜飼父子の書状を主膳が筆写したものを収めている。日下部伊三次宛のものと水戸藩家老安島帯刀宛のもので、今までの幕末政治史の叙述にしばしば引用されている有名なものである。この書状を証拠として、二十二日、鷹司家諸大夫小林良典が逮捕された。
 このほか、九条尚忠が島田左近に宛てた書状(第二七号所収)の中で、内覧を罷免された無念の感情を吐露し、主上は気違い同然であると述べ、禁中并公家諸法度を改訂し、幕府の朝廷に対する統制を強化せよ、と主張しているのが注目される。
(目次一四頁、本文二八五頁)
担当者 小野正雄・宮地正人・高埜利彦

『東京大学史料編纂所報』第12号 p.78**-79