東京大学史料編纂所

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正倉院文書調査

 昭和五十年度の正倉院文書調査は、十一月四日(火)より八日(土)までの五日間、例年の如く奈良の正倉院事務所に出張し、その修理室に於て原本調査を行なった。
 今回も調査の内容はあまりにも細部にわたり、報告のためには今後時間をかけてデータを整理する必要があるが、本誌では時間的にも紙面の上でもその余裕が十分とはいえないので、いずれ将来まとまった報告書を作成して公刊することにし、ここでは調査の一端を記すにとどめる。
 別掲「反町十郎氏所蔵文書調査」(73頁)にも記したように、新発見の同氏所蔵の正倉院文書二点を調査して写真撮影を行なったが、今年度はその写真を正倉院事務所に持参して、断簡の所属を決めることを調査課題の一つとした。
 まず全文を紹介すると次の通りである。最後の一点は、筑波大学教授井上辰雄氏所蔵のもので、これも新発見の関連文書であるから付載した。但し井上氏所蔵の手実は、前年の九月、同氏が熊本大学在職中に筆写させて頂いただけで、まだ写真撮影は行なっていない。
   ○王広麻呂手実 反町十�氏所蔵
 王広麻呂写弥勒四巻
     受紙卅三張 中巻二 「上巻一」(追筆)
           下巻二
           天平十六年五月三日
   ○答他虫麻呂手実 反町十�氏所蔵
 答他虫麻呂解 申上帙畢文事
 合請紙百冊張 正用百廿一張 返上十三枚 空三枚 破三枚
 大乗雑五十五帙十八巻 大吉義神呪経二部七巻 第一二巻廿二
 第二二巻廿六 第三巻十三 第四二巻廿四 大普賢〓羅尼経一巻三枚
 大七宝〓羅尼経一巻一枚空一 安宅神呪経一巻四枚 摩尼羅亶経一巻四枚
…玄師〓〓所説神呪経一巻二枚 護諸童子〓羅尼呪経一巻四枚……………(紙継目)
 諸仏心〓羅尼経一巻三枚 空一抜済苦難〓羅尼経一巻三枚 八名普密〔〓脱カ〕
 羅尼経一巻六枚 持世〓羅尼経一巻四枚空一 六門〓羅尼経一巻二枚
(朱書、下同ジ)「未料」「十一月五日」
                        宝亀三年九月廿五日
   ○葦浦継手手実 井上辰雄氏所蔵
葦浦継手解 申帙上事
 合請紙一百枚此中 正用七十九 空五 返□十六枚〔上カ〕
 菩提資粮一部六巻 一巻 十四空一 二 十四空一 三 十二空一 四 十四空一 五 十三 六 十二空一
                        宝亀三年九月廿七日
「◎」(朱書)
 □   □
 王広麻呂手実(縦二八・六糎、横九・八糎)
ここにみえる写経は、僧正玄�の願経、弥勒経百部三百巻のうちの四巻である。「僧正弥勒経料充紙并筆墨紙等納帳」(続々修十一帙三、『大日本古文書』八ノ四五一頁)には、天平十六年三月十四日より十六人の写経生に配給された紙や筆墨の数を記しているが、この写経の手実をまとめたものが続々修十一帙四の写弥勒経経師手実帳(八ノ四六一)で、前帳と比較すると、そこには王広麻呂を除いた十五人の手実が貼りつがれている。この手実帳により巻数を数えると二九六巻で、四巻不足であり、紙数について数えると二四六七張になって、この数は同年五月四日の写疏所解(正集九�裏、二ノ三五一)にみえる全使用量の二五〇〇張に三三張不足する。この四巻三三張がすなわち王広麻呂が写した分であり、前記の写弥勒経経師手実帳にこの王広麻呂手実を加えると全部揃うことになる。この手実がもと貼りつがれていた位置は不明だが、原本を検すると手実帳の最後にはがし取った痕が残っているから、何か後に続くものがあったことは確かであり、王広麻呂の手実の方には痕跡がないので断言はできないが、この手実帳の最後に続いていたのではないかと推定される。
 なお、この手実は紙質・筆蹟について当時のものかどうか更に検討を要する如くみえるが、内容的には上述のように疑いのないものであり、内容・筆蹟とも原本なくして偽作できるものとは思われない。もしこれが後世のものとしても、これと同様の手実の原本は確実に存在したはずである。
  答他虫麻呂手実 (縦二八・一糎、横一八・九糎)
  葦浦継手手実 (縦二七・一糎、横一一・二糎)
 この二人の手実は、宝亀三年九月、当時盛んに写されていた二部一切経九二一八巻の書写に関するもので、この一切経は同四年六月に完成した(奉写一切経所の同月告朔、二十一ノ四九七)。
 この写経の充本帳は続々修三十五帙九(二十一ノ一〜五八)に残っていて、答他虫麻呂が写した大吉義神呪経以下の大乗経雑第五十五帙中の経典(二十一ノ三八)も、葦浦継手の写した菩提資粮論(二十一ノ五三)もこの中にみえる。そしてこの後に続くのが続々修三十五帙十(二十ノ五〇三〜五四〇)の目録であろう。従ってこの二つの目録を、『大日本古文書』が「奉写大乗経律論目録」「奉写小乗経律論本目録」とそれぞれを題しているのを改めて、「二部一切経充本帳」と二つを合わせてよぶ方がより適切である。また塵芥二十一・二十四・二十五(二十ノ五四一〜五七五)も同じ一切経の小乗経律論の目録であるが、この方には装〓に関する書込が多いから、充本とは別の目的の整理簿であろう。
 さてこの一切経書写の手実帳は、続々修二十一帙一(十九ノ二五三〜二九六)、同二十一帙二(二十ノ一〜四九)、同帙三(二十ノ七九〜一七八)等であるが、これらはすべて手実を左から右へ貼りついでいる。
 九月廿五日の答他虫麻呂手実と同月廿七日の葦浦継手手実は、上記の続々修二十一帙三の手実帳の中に含まれるわけであるが、正倉院より流出する以前は、その日付から考えて葦浦継手・答他虫麻呂の順で、九月廿八日船木麻呂手実と同月廿三日采女五百相手実との間(二十ノ一四二)に収められていたのであろう。
 両手実は『大日本古文書』でも続々修の原本でも接続していて、その間に別の手実が入る余地はないようであるが、原本を検すると両手実にそれぞれ「九」「十」の朱書の付箋がつけられている。これは明治時代に続々修を整理する際につけられた断簡の整理番号で、続々修成巻の直前には、船木麻呂と采女五百相の二つの手実は離れていたことを示すものである。続々修の整理は正集以来の伝統をうけて、断簡と断簡の間には白紙を入れてつなぐというのが一般的な方法であるが、復原可能と判断したらしいところには、ままこのような乱暴なつなぎ方がみられる。
 以上で、新発見の手実の本来あった位置が判明したが、船木麻呂と采女五百相の手実には、いずれも接続をたしかめるための痕跡はなく、手実間の接続については、最後の決め手を欠くため、明らかにすることはできない。ただ葦浦継手の手実の左上端に、文字の右半分と思われる判読困難な墨痕が二つあり、答他虫麻呂の手実の方にも墨痕が一つあって、右端にははがしとりの痕も認められるが、これらは、いままでのところ、まだ接続を考える材料とはなっていない。恐らくまだこの間には他の手実が貼りつがれていたのであろう。
 この一切経書写の手実で、他に宝亀三年四月のものが二点、手実帳からはなれて流出している。石川宮衣手実(知恩院所蔵、六ノ三一六)、秦度守手実(唐招提寺所蔵、二十ノ四九)がそれであるが、このように巷間に流れたもので、まだ知られていないものがいくつかあるように思われる。
(稲垣泰彦・皆川完一・鈴木茂男・千々和到)


『東京大学史料編纂所報』第11号p.76