大日本史料第六編之三十七

本冊には、南朝長慶天皇の文中二年=北朝後円融天皇の応安六年(一三七三)二月から六月までの史料を収める。
このうち約半分の頁数を占めるのが、二月二十八日条、常楽台存覚光玄の伝記史料である。光玄は親鸞の曾孫覚如宗昭の長子で、正和三年大谷御影堂留守職を父から譲られたが、八年後の元亨二年義絶され、本願寺の法系は同母弟従覚慈俊の系統に受けつがれてゆく。この義絶の背景には父子の教義上の対立があるといわれるが、光玄が、真宗の異端のひとつ仏光寺派の始祖空性了源に、数多くの聖教を書き与えているのを見ても、充分うなずける見解である(一五三〜六、一六八頁)。
本条には「常楽台主老衲一期記」と光玄自筆の「袖日記」の全文のほか、著書・書写本の奥書・目録などを収めた。とくに「袖日記」には、光玄が門弟信徒に与えた真影・本尊の控が、それを描いた画工の名とともに、多数見出され、光玄一派の思想的特色を示すのみならず、美術史の資料ともなるであろう。
このほか伝記としては、夢窓疎石の直弟で足利義詮の禅の指導者でもあった黙菴周諭の伝もある(六月十七日条)。
九州では、前年にひきつづき九州探題今川貞世(了俊)が、筑後河をはさんで高良山の南軍と対峙している。南軍は機を見て渡河して肥前東部へ攻め入り、本折城(二月十四日)・所隈(五月十四日)・田手寺(六月十日)等の各地で探題軍と戦った。これと並行して、貞世の子息満範は肥前高来郡の南軍討伐にあたり(三月一日条)、おなじく義範は、応安四年末以降豊後高崎城を確保しつづけているらしい(四月四日条)。一方、菊池武光にかわって南軍の主柱となった同武政は、阿蘇惟武にしきりに援助を乞うている(二月十九日・四月四日・五月八日条)。
畿内では、淡路守護細川氏春が軍勢を率いて摂津尼崎に上陸しており(三月二十八日)、河内天野行宮の没落も近い。
このほか、六月二十九日条および補遺には、来日中の明国使に関する史料があるが、それについては別掲の研究報告にゆずる。
担当者 今枝愛真・安田寿子・村井章介
(目次九頁、本文三五九頁、補遺五頁、挿入図版二葉)

『東京大学史料編纂所報』第11号 p.23