「保古飛呂比」佐佐木高行日記八

本冊には、巻四十一から巻四十四まで、すなわち明治十一年高行四十九歳の一月から同十二年十二月までを収めた。
明治十一、十二両年度は、西南戦争鎮定によって士族叛乱は終止符を打たれたものの、鎮定に采配を揮った大久保利通の暗殺(十一年五月、紀尾井坂の変)、論功を不満とする近衛兵の叛乱(同年八月、竹橋騒動)が衝撃を与える一方で、板垣退助を首領とする自由民権運動が急速な展開をみせた(同年九月大阪で愛国社再興第一回大会、十二年一月第二回大会、同十一月第三回大会)時期であった。政府は、こうした情勢に対応して、三新法を制定して(十一年七月)地方制度を整えるとともに、参謀本部を設置して(同年十二月)統帥権を確立する一方で、北陸・東海巡幸(同年八月〜十一月)によって民心の掌握をはかった。また、叛乱鎮定によって権威を高めた政府は、清国の抗議をしりぞけて琉球処分を断行し(同年四月)、日米条約を改定して(同年同月交換)不平等条約改正の第一歩を踏み出し、さらに十二年には、米国前大統領グラントをはじめ、独伊両国の皇族、英国香港総督をつぎつぎに迎えて宮廷外交を展開した。
この間高行は、十一年二月、前年の高知県下探索・鎮圧工作に対して慰労の勅語と内帑金下賜の光栄に浴し、三月には一等侍補を兼任せしめられ、北陸・東海巡幸に供奉し、途中山形県に天皇の名代として派遣され、同年十二月には海軍省御用掛を命ぜられた。高行は侍講元田永孚と結んで、万機親裁を目ざして侍補の権限の拡張を策したが、政府の反対にあい、十二年十月侍補は廃止された。しかし高行は宮内省御用掛を命ぜられ、奥羽の民情視察のため派遣されることとなり、同月東京を出発したのであった。
本冊には、高知県の民権運動について情報や意見を交換した中村弘毅・谷干城・今橋巌・原徹等旧藩の同志の書状類、条岩両公の書状、侍補の権限強化運動に関する元田永孚・土方久元・吉井友実等の書状類、および北陸・東海巡幸日記等を収録している。
(例言一頁、目次一頁、本文三八四頁)
担当者 山口啓二

『東京大学史料編纂所報』第11号 p.27**-28