大日本古記録「小右記八」

この冊には万寿四年七月から長元四年六月に至る四箇年間の記を収めた。この間長元元年正月−六月・二年五月−六月・十月−十二月・三年正月−三月・七月・十一月−十二月・四年四月−六月を欠き、万寿四月十月−十一月・長元元年十月−二年四月・七月・三年四月−六月前半(後半は広本)・十月は略本である。先行の刊本である史料大成版との比較でいえば、長元三年四月−六月・八月−十月を新たに加え、万寿四年七月−九月・十二月・長元元年七月−九月・二年八月−九月の底本を略本から広本に改めている。
 校訂にあたって感じた問題のうち大きなものは、長元三年六月後半の記の写しである柳原家旧蔵「小右記断簡」の取扱いである。この本はかならずしも連続しない四枚の断簡から成るが、その断簡はいずれも広本であって、元来はいわゆる前田甲本及び九条本古写本の一部分と一連のものであったと認められ、小右記諸本の中で最も良質の写本に属する。断簡として、この期間の記の小部分を含むに過ぎないとはいえ、同期間について重なって存する他の本がすべて略本であることを考えれば、当然底本となるべきものであるが、その場合この断簡の不連続部分に補われなければならない少なからぬ記述がこの本と全く系統を異にする略本中に見出されることが問題となる。結局ここでおこなったように、この断簡と略本とを区別しつつ接合して本文を構成するのが、おそらくは利用上最も合理的な方法であろうし、想定される自筆原本に可能な限り近づくという本文校訂の基礎動機に照しても最終的には正しいと信じるが、その場合はこの期間の全体に亘っては勿論、二十三日条や二十八日条に見られるように、連続する一箇の段落についてさえその本文の性質を一貫させることができなくなるという難点を避けえないのである。したがって、この期間の本文を広本とするのは、枠で囲んだ補足部分については正しくないし、また、補足部分を枠で囲んだ形で掲出すること自体、これまでの校訂の原則にはそぐわない。利用上の便宜のために学術的な厳格さを犠牲にしているという批判は甘受しなければならないであろう。ただ、事実上は、十九日条後部から二十九日条に亘って、二十二日条後部の明らかな脱落と、二十七日条尾部にわずかに存する脱落の可能性(ほとんどないといってよい)を除いては、広本の本文と言えるものが得られたと考えられる。
 この冊がおおうのは、記主藤原実資についていえばその七十一歳から七十五歳に至る期間で、官職位階には全く変動なく、右大臣、右近衛大将、皇太弟傅、正二位の地位にあった。しかし実資をめぐる政治社会は、藤原道長の死、平忠常の乱の勃発と終息など、この時代にあってはむしろ波欄に富む時期を経過しており、当然実資の筆もしばしばそれに関する問題に及んでいる。この度の刊行ではじめて活字化された記述はこの冊のほぼ半ばに達するが、その中にはつとに矢野太郎氏によって存在を指摘され(史料大成『左経記』解題)ながら見ることの困難であった平忠常の乱に関する重要史料もあり、そのほかにもこの時期の歴史的理解を精密にする素材が少なからず含まれている。
 口絵図版のうち、第一葉の二点は、両者を対照することによって本文でおこなった〓入の復原の根拠が確かめられることを期待して掲げたものである。
(例言一頁、目次二頁、本文二五一頁、挿入図版二葉、岩波書店発行)
担当者 龍福義友

『東京大学史料編纂所報』第11号 p.23**-24