東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 細川家史料 五

本冊には、前冊にひきつゞき、寛永十年・同十一年の忠利宛忠興(三斎)書状二百八十四通(第一〇二三号〜一三〇六号)を収載した。
前年の寛永九年十二月、細川家は肥後に入国し、忠利は熊本城に、忠興は八代城に入っている。十年・十一年は、入国当初の年として新領国経営の体制づくりを急いでいた時期にあたる。忠利は十年三月はじめて新領国の国廻りを行い、翌十一年にも玉名地方を巡見した。八代領においても、治水事業として大規模な石堤の築造が行われ、これに伴って夫役が徴され、忠利との間に接渉がもたれた。また忠興が去年まで在城した中津城下町の町人嶋屋宗賢の一家が八代に移住を希望したため、新領主小笠原氏と交渉がもたれたり、加藤氏時代に八代城を預っていた加藤正方と、八代町人との間に米出入が起ったりしているのも、領主交替という事態から生じた波紋の一つであるといえよう。
対幕府関係では、寛永十年夏小出吉親・城信茂等、幕府が派遣した九州国廻りの巡見使の一行を迎えている。将軍家光は、巡見使等に、国主である大名に迷惑のかからぬよう、訴状などは受付けず、細部にこだわらずに大筋を見究めよとの方針を示したとの情報を細川家では入手したが、実際には巡見使は事細かに視察するであろうとの想定のもとに、巡視経路の決定、宿所・休憩所の設営、輸送用人馬の調達などに極めて細心の注意と努力を払ったことが詳細に知られる。
幕政の動向に関して情報の豊富なことが細川家史料の一つの特色であるが、この冊もその点において同様である。前冊から引続いている隣国の大藩黒田家の内紛問題は、一応栗山利章側の処罰となり、黒田忠之は将軍家光に謁して赦しを受けたが、その後なお国替などの処分が行われるのではないかなどの観測が絶えなかったこと、竹中重義の改易と、これをめぐって江戸城西丸で行われた曾我古〓との審問対決などが注目される。第一一七七号文書には、幕政処理について「御年寄衆御三人迄にては事つかへ候に付、六人之若御出頭衆・御町奉行衆事をわけて可被執行由被 仰出、御一ツ書写給候」との文言がみえる。寛永十一年三月五日付で送られた忠利の書状に対する返書である。このことは同年三月三日付で家光が命じたいわゆる老中・若年寄の職務分掌の発令をさし、幕府行政機構の整備として従来から注目されている事柄である。ところで、この返書のもとになった三月三日付の忠利書状を参照してみると、家光が酒井忠世・土井利勝・酒井忠勝の三年寄では事つかへると判断した理由は、「何事も三人無相談而者成不申候故はか不参候」という点にあり、具体的な措置としては、六人の若出頭衆らに職務の一部を分掌させただけでなく、この条の後段にあるように、三年寄半月づつ交替の政務処理(半月当番制)の採用と、「年寄衆へ物を申候事人を頼候て不申、直に申候へ、又少々事は使にて申候へ」との指示を含むものであったことがわかる。半月当番制の採用は、翌寛永十二年十一月に定められた老中以下諸有司の月番制の前触れをなすものであろう。政務処理促進のために三年寄合議制をやめ、しかも年寄への訴願等の手続について従来のような側近の口入れを廃して直接としたことは、老中以下幕閣有力者を官僚化させる端緒となるものであり、彼等に君臨し、これを統御する家光の権力を増大させる重要な契機となったであろう。簡潔な文面ではあっても、多くの問題を含むものといえよう。
人的関係としては、幕閣にあって細川家の重要な情報源の一人であった稲葉正勝か死亡した。身辺においては、鳥丸光賢に嫁した万の女〓々姫を愛した忠興は、九州に呼下して中津から八代へと伴っていたか、忠利の長子光尚(六丸)と結婚のため八代からこれを送り、十一年三月江戸邸で婚儀が行われた。忠興と共に八代に居る四男立孝(立允)には、五条為適の女との縁談がまとまり、十一年十二月に八代において婚儀が行われている。
その他、幕府のキリシタン禁止が強化されるにしたがって、長崎その他から逃亡する者が続出し、肥後領内にも追求が及ぶようになっている。八代にも伴天連潜伏との報もあり、家宅捜索や十人組証文もとってはいるが、発見されて処刑されても、彼等は殉教を「大慶」と思う故に、潜伏するキリシタンの発見はきわめて困難であろうというのが忠興の感想である。夫人がキリシタンに帰依し、家中にも多くのキリシタン武士をもった大名の見解として興味が深い。
担当者 村井益男・加藤秀幸
(例言一頁、目次二一頁、本文三四二頁、人名一覧三三頁)


『東京大学史料編纂所報』第11号p.25