日本関係海外史料「オランダ商館長日記譯文編之一(上)」

日本関係海外史料(原文編・譯文編)刊行の趣旨、その最初の収載史料である『オランダ商館長日記』の概要については、本書の凡例にも記されているが、『所報』では第九号九七頁に記し、また譯文編の編次及び刊行順序に変更があった事情については同第一〇号四一頁に記した。
 本冊は、その第一冊(自寛永十年八月、至寛永十一年四月)として、第八代商館長ニコラース・クーケバッケル在職期間中の公務日記の第一の部分、原文編之一所収の一六三三年九月六日(寛永十年八月三日)同人着任の日に始まり、一六三五年十二月三十一日(寛永十二年十一月二十二日)に及ぶ二八か月の記事の前半、一六三四年五月五日(寛永十一年四月八日)までの翻訳を収め、鎖国の形成過程で、幕府の親ポルトガル政策が親オランダ政策に転換していく有様が具さに描き出されている。
 寛永四年以降、タイオワン事件のため中絶していた日蘭貿易は、同七年長崎代官初代末次平蔵の死、同九年の二代将軍秀忠の死後、前タイオワン長官ピーテル・ノイツの平戸幽閉を契機として再開され、事の処理に当ったバタフィアの使節ウィレム・ヤンセンは寛永十年初頭、総督に本件を報告した。同じころ、つまり寛永十年二月には、奉書船以外の海外渡航を禁じ、伴天連改めを強化し、白糸直段のパンカドの全外国船への適用を定めた第一回鎖国令が出た。本書の著者ニコラース・クーケバッケルが、右の事件の解決直後平戸で死去したコルネリス・ファン・ナイエンローデの後任として平戸商館長に任命され、本冊末尾(二三一〜二六三頁)に添えた、新任バタフィア総督、前平戸商館長ヘンドリック・ブルーワーの特別訓令を帯びて平戸に到着したのは、こうした状況のもとにおいてであった。彼にとって、ノイツの釈放、パンカドの撤回、出航期日の規制廃止、日本人のタイオワン渡航禁止などが当面の課題であって、事態の一応の解決を謝し、かつこれらの問題を解決するため、将軍家光の幕閣を訪問することが、第一年度の仕事となった。寛永十年九月中旬、商館長は、日本に永く滞在して日本の言語・習慣に精通している上級商務員フランソワ・カロンを伴なって平戸を発して江戸参府の旅に出た。家光の病気のため、商館長は贈物の準備や数次にわたる請願書の改訂に一か月半の時日を費したのち、謁見の日を待たずに平戸に戻り、カロンら数人が江戸に残って越年し寛永十一年二月十五日の式日に無事謁見を済ませることとなった。要求書は、なお提出の時期を待つため松浦隆信のもとに預けられた。カロンの平戸到着の日である四月八日(一六三四年五月五日)の条には、この商館長西下後のカロンの江戸日記が引かれており、この引用(九九〜二二七頁)が本冊の半ばを占める。
 本冊には、オランダ代表、ポルトガル代表(ドン・ゴンサロ・ダ・シルヴェイラ)との応接をめぐる平戸藩主松浦隆信をはじめ、年寄酒井忠世(ウタ殿)、土井利勝(オイエ殿)、酒井忠勝(サネケ殿)らとその同僚・属吏らの動静はいうまでもなく、将軍家光・徳川忠長・徳川頼宣ら将軍家一族の動静や風聞、秀忠三回忌法要、前田光利の婚儀、竹中重義の蟄居など、当時の政治上・社会上の事件に関する見聞も散見して興味深い。
 本冊には、例言に本叢書の趣旨、オランダ商館長日記の略解題、訳文編の論述・編纂の体例を含め、かつ巻頭に「平戸・長崎オランダ商館長一覧」を、また巻末に「一六三〇年代のオランダ史料に見える度量衡竝びに価格の表記」を添えた。口絵は原文編のものと同じであるが、原文編の英文発刊の辞及び、右の商館長一覧を除く英文序説は、ともに訳出しなかった。
 本冊の翻訳は、大半を加藤が、そして一部分(一六七〜二〇九、二二九〜二五二頁)を金井が行い、永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記』第三輯(岩波書店刊)一一〜一五七頁を参照した。担当者 金井圓、加藤榮一
(例言及び商館長一覧二二頁、目次三頁、本文二六五頁、図版二頁、ほかに原文編之一の正誤表追加四頁添付)

『東京大学史料編纂所報』第11号 p.28*-29