東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第十二編之四十六

 本冊は、後水尾天皇元和八年(一六二二)七月十六日から八月五日までの史料を収めている。
この期間のうちで最も顕著な事件は、八月五日幕府の命により肥前長崎において切支丹宗徒五十五人が処刑された、所謂「元和の大殉教」なる一件である。本冊はこれに関する史料をおさめたが、日本側史料は皆無であり、ために欧文材料のみ十一点を選んで採録した。そしてこれが本冊の大半をなしている(欧文二三六頁、訳文四二九頁)。
 本事件は、『大日本史料』第十二編之四十五に掲載した、日本布教を志したアウグスティノ会のフライ・ペドロ・ド・ツニガ、ドミニコ会のフライ・ルイス・フロレスと、その日本渡航を掩護した長崎の商人で船長の平山常陳及び彼等に同行した日本人キリスト教徒の水夫・商人等を含む十五名の処刑(元和八年七月十三日)を序曲として展開されたもので、これは幕府のキリスト教徒弾圧が加速度的に強化されていったことを示す事件である。宣教師の日本入国禁止とキリスト教徒の弾圧が効果を見なかったことが、前記平山常陳等十五名の処刑、さらには宣教師等を含む五十五名の処刑を執行せさた背景であり、この処刑によって幕府はキリスト教徒等の棄教を推進しようとした。
 本冊に於ては、大村領内鈴田の牢にとらわれていた修道士二十一名を含む二十五名の囚禁生活と長崎西坂に近い刑場への連行、長崎に於て拘禁された修道士等の家主とその子女等三十名の連行及び処刑の状況を詳細に語る史料を掲載した。
 処刑は先ず三十名の斬首を以って始まり、次いで二十五名の火刑を以って終ったが、殉教者は司祭、修道士、教理伝道士、第三会員等のキリスト教徒からなり、その中にはスペイン、イタリア、朝鮮出身の九名も含まれていた。
 五十五名の大殉教関係記事は、平山常陳等十五名処刑に関する記事をも掲げる一連の史料に見出されるので、『大日本史料』第十二編之四十五に掲げた根本史料五点を引続き利用した。すなわち、大殉教に関係したイエズス会とドミニコ会に由来するもの三点。まず、①一六二二年度の『日本耶蘇会年報』(Lettere annve del Giappone dell' anno MDC XXII. e della Cina del 1621 & 1622. Roma, 1627)は、イエズス会宣教師がこの殉教の一部始終を見聞した上で報告されたものである。この報告では、殉教者中、特にイタリアのジェノヴァの貴族出身であるパードレ・カルロ・スピノーラの日本における活動及び大村での囚禁生活の概要を述べ、また平戸出身で日本人最初の司祭であるパードレ・セバスティアーノ・木村の簡単な伝記を読むことができる。②『一六二二年日本によって行はれたる大殉教の報告』(Relacion breve de los grandes y rigurosos martirios que el año passado de 1622 dieron en el Japon a ciento y diez y ocho ilustrissimos martyres. Madrid, 1624)は、当年日本に於て殉教した百十八名の殉教者に関する報告で、日本イエズス会のパードレ等の書翰及び一六二三年八月十二日マニラ到着の二隻の船に乗船していた多数の日本人の談話に基いて作製された。次にドミニコ会に由来する一点、③『日本における聖ドミンゴ修道会のパードレ十一人の殉教に関する略記、一六一八・一六二二年』(Breve relatione del Martirio d'vndici religiosi dell' ordine di S. Domenico seguito nel Giappone del 1618 e 1622.)は、同修道会のマニラの修道院長パードレ・フライ・メルキオール・マンツァーノが日本の同修道会のパードレ等からの書翰に基いて、殉教の概略についてマニラで認め、これをローマに送付したもので、一六二四年に印刷に付された。他の一点、④アウグスティノ会代理管区長グティエレス報告書、一六二二年十月二十九日』(Dos relaciones del Martino en Japon de 1622 par Padre Fr. Bartholome Gutierrez, Vicario Provincial de la Orden de San Augustin)は、『大日本史料』第十二編之四十五に於て扱った同修道会のフライ・ペドロ・デ・ツニガ等十五名の殉教に関する各種の情報を集め、さらに五十五名の大殉教にも言及した報告書であって、この大殉教には同修道会の関係者を出していないとは言え、客観的立場からこの大殉教を概観しており、天理図書館所蔵の稿本によって同館翻刻第三〇号として掲げた。
 本冊に新たに掲載したフランシスコ修道会に由来する一点、『日本殉教真相略記』(Relacion verdadera, y breve de la persecvcion, y martirios que padecieron por la confession de nuestra Santa fee catholica en Japon.……, desde el año de 1613 hasta el de 1624, por Fray Diego de San Francisco, Predicador de la misma Provincia, y Comissaris del Japon)は、フランシスコ修道会跣足派聖グレゴリオ管区の説教師にして日本遣外管区長ディエゴ・デ・サン・フランシスコがスペイン国王ドン・フェリッペ四世に宛てて送致したもので、一六二五年マニラに於て刊行された。五人の同会修道士及び四人の第三会員の入牢・殉教の様子については特に詳細である。
 さらに日本の布教に関する編纂物から大殉教について言及した四点を選び抄録した。ドミニコ修道会に由来するディエゴ・アドゥアルテ著『聖ドミンゴ会フィリピン、日本、シナ管区史』(Don Fray Diego de Aduarte, Historia de la Provancia del S. Rosario de la Orden de Predicadores en Filipinas y Japon y China. Manila, 1640. Tomo II)は、一六四〇年マニラに於て刊行され、これまで三版を重ねるが、本冊には一九六三年マドリッド版を掲げた。著者アドゥアルテはフィリピン中心に布教に従事し、同管区代理及びマニラの聖ドミニコ会修道院長を二度務め、プロクラドールとしてもフィリピン・スペイン間を往復し同修道会の東洋布教の拡大に尽力し、且つ文筆家として多くの著述がある。フランシスコ・カレロ編『聖ロサリオ管区竝びに日本国に在る聖ドミンゴ修道会の勝利、自一六一七年至一六二四年』(Fracisco Carero, Trimfuo del Santo Rosario y Orden de Santo Domingo en les Reinos del Japon, desde el año Señor 1617 hasta el de 1624. Manila, 1868)に於ては、聖ロサリオの組に属する日本人会員の事蹟と殉教の様子について詳述した二十四、二十五、二十六の三章を抜率抄録した。イエズス会に由来するダニエロ・バルトリ著『日本イエズス会史』(Daniello Bartoli, Dell' historia della Compagnia de Giesv il Giappone, Seconda Parte dell' Asia. Roma, M. DC. LX.)は、イタリア人のバルトリ神父が、ローマ・イエズス会本部に送致・保存されていた日本関係文書を駆使して著わしたものであるが、同国人の試みとして、殉教者カルロ・スピノーラ神父の事績及び五日後の元和八年八月十日に殉教したイタリア人カミルロ・コスタンツォ神父の事蹟を詳しく述べている。レオン・パジェス著『日本耶蘇教史』(Léon Pagés, Histoire de la Religion Chrétienne au Japon. Paris, 1869. Livre II, Chapitre VII)は、当元和八年に於る殉教を網羅し、特に五十五人の処刑について詳述した部分を抜萃して載せた。この他に、『ライエル・ヘイスベルッセンの記録せる日本に於てローマ・カトリック宗門のため恐るべく且つ堪へ難き苦痛を受け或は殺害せられし殉教者の歴史』(Reyer Gysbertsz., Historie der martelaren die in Japan om de Roomsche Catholiche reliegie, schrickelijke, ende onverdraghelijcke pynen geleden hebben, oft ghedoodt syn)は、オランダ人による著述で、一六二二年より一六二三年にわたる殉教者について、殊にアントワープ出身のルイス・ピーテルセン(ルイス・フロレス)、ネーデルランド出身のリカルド・サンタ・アナの殉教を中心とした叙述を抄録した。『一六ニニ年九月七日(元和八年八月十二日)、平戸発、リチャルド・コックスよりロンドンなる東印度会杜の総督トーマス・スミス及び参事会に贈りし書翰の一節』(「英国印度事務省文書」)は、平山常陳等十五名処刑に係わり、幕府の禁教政策の強化を語る部分を抄録した。最後に附録として「元和大殉教団」を掲げた。
 なお、地名及び人名については、文中に於ては原文を尊重してその国語に做い録し、標出した地名及び人名は編者において統一した。
 つぎに本冊所収の期間に、京都の商人茶屋四郎次郎清次と前南禅寺住持悦叔宗最が死歿しており、その事績を収載した。
 茶屋清次は初代四郎次郎清延の次男であったが、長男清忠が早世したので四郎次郎を名のり家督をついだ。初代以来徳川家康に仕え、慶長末年以降、家康・秀忠の側近となり、清次は徳川将軍家の呉服調達をあずかり、角倉氏などと共に京都の有力な商人となった。元和八年七月十六日江戸において病死している。
 本所には富田仙助氏所蔵「茶屋四郎次郎事書」・中島環子氏所蔵「茶屋由緒書」が架蔵されていたが、今回、茶屋武郎氏(京都市伏見区池内町)所蔵「茶屋文書」をはじめ、蓬左文庫所蔵「茶屋記録集」「中島古記録」等々を新たに蒐集し、これを採録した。「茶屋四郎次郎事書」「由緒書上」等は、寛永元年、延宝元年、貞享元年のものを本文に採録し、正徳年間、延享元年、寛政二年、享和二年等々のものを参考にかかげた。事書・由緒書にみられる清次の記述は、基本的には前時代のものを踏襲しているが、時代を経過するにしたがって、記述が詳細になり、新たな事柄が添加されている場合もある。各種の事書・由緒書は、その全文を載せるわけにはいかなかったが、記述の相違に重点をおいて抄録した。収録した茶屋武郎氏所蔵の三月十日付書状は、「大工頭中井家文書」(慶応義塾大学文学部寄託)所収の十月廿四日書状と共に清次の自筆と思われる。なお、元和八年十二月五日付酒井忠世等連署添状(小野貞則宛)(本冊三十七頁)の原本が、寛政期まで幕府の竹橋矢倉に保管されていたことは、太田南圃「竹橋蠹簡」(史籍協会三十二頁)によって明らかである。
 南禅寺第二百六十九世悦叔宗最は元和八年七月二十九日に寂した。宗最は初め宗兌と称していたが、鹿苑院主承兌と同禅なるをもって改名したといわれており、慶長八年十月二十四日南禅寺住持となっている。南禅寺天授庵所蔵の「本光国師并悦叔録」と表題のある「悦叔録」の全文をおさめたが、さらに玉村竹二氏の御好意により、同じく天授庵所蔵にかかる別本の「悦叔録」を採録することができた。宗最は蜂須賀至鎮画像に贊をしているが、その贊文は元和六年二月二十六日至鎮死歿の条におさめている。
 なお、本冊所収の期間に安芸広島城主浅野長晟は病に伏していたが、「自得公済実録」十五所収の元和八年七月十九日の条(本冊四十三頁)ならびに七月廿日北条氏重宛書状(本冊四十八頁)に拠って七月十九日の条にかかげた。
担当者 山口啓二・福田栄次郎・高木昭作・黒田日出男 欧文担当者 沼田次郎・金井圓・加藤栄一・五野井隆史(目次二頁、本文五六六頁、欧文目次三頁、欧文本文二三六頁)


『東京大学史料編纂所報』第8号p.51