東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 小右記七

 この冊には万寿元年正月から同四年六月に至る三箇年半の記を収めた。この間二年正月・四月−六月・三年正月−三月・十月−十二月を欠き、元年正月−九月・三年四月−九月は略本である。先行の刊本である史料大成版との比較でいえば、三年四月−六月を新たに収め、元年十月−十二月・四年正月−六月の底本を略本から広本に替えている。
 校訂にあたって前冊までの方針に忠実に従おうとしていることはいままで通りであるが、この冊で特に問題を感じた点がいくつかある。その一つにふれておきたい。本書での底本破損部分の文字の補填は、第一冊例言に述べたように、底本の直接写本と推定されるものにその文字がある場合はそれを本文中に補入して枠でかこみ、転写本または異系統本で補う場合は〔 〕括孤の校訂注で示すのが原則である。しかしこの方針が貫かれるためには、補填対校に用いられる諸本が明瞭に右の区分の何れかに分類できること、言いかえればその本文が単純に一本の書写から作られ複数の本文の混成などはなされていないことが前提になければならない。ところがこの冊で万寿元年十月−十二月・同四年正月−三月の部分の補填に用いた京都御所東山御文庫本はその前提条件を満たさないのである。元年十二月二十八日条がよい例であるが、その部分では底本前田甲本の破損はその大部分が東山本によっても補えなかったこと、ただそのうち伏見宮本と本文が重なる部分についてだけはそのすべてが補い得ていることが、本書の紙面からも十分に読みとれる筈である。この傾向は程度の差はあれいま問題にしている東山本の伏見宮本と本文が重なる部分のすべてについて見られるものであり、しかも本書の紙面では消極的に校訂注が附されないという形でしか示されていないが、この東山本によって補われた文字はまたほとんどすべて現在の伏見宮本本文に合致するのである。このことは東山本のこの部分がその書写にあたって現在の前田甲本と共に現在の伏見宮本または良質の同系統本を利用し、両者混成して現在の本文を形成していることを意味するであろう。したがって底本前田甲本の破損を東山本で補い粋でかこむことは、底本とは異系統である伏見宮本系の本文をも底本の直接写本の本文として読者の前に提出することを意味するわけであり、さきの例言に述べられた約束に対する重大な違背であることを免かれない。ただ伏見宮本本文の存する部分について、底本を補い得る東山本の文字の何れが伏見宮本系であるのかをその各々について逐一確定することは不可能であるために、この冊では便宜上前冊までの例に従ったのである。テキスト・クリティクにおいては、ひとたび定められた規則はこれを厳格に守ることが、その成果の精密な利用を可能にする重要な支えであるが、その本文整定の規則を、文献の状態や性質の多様さにもかかわらず無理なく守ることのできるしなやかさをもち、しかも客観性の高いものとして形づくるためには、われわれの今日までの研鎖は未だ甚だ不十分であることを、この一事によっても感じないわけにはゆかなかったのである。
 内容に言及する紙幅を失なったが、読者の関心に従ってどのようにも読むことができまたそうすべきであるこの種の史料としては、それは本来無用のものかもしれぬ。ここでは記主藤原実資がこのとき六十八−七十一歳であって右大臣右大将皇太弟傅正二位の地位にあったことを記すにとどめよう。
 なお口絵図版は、冒頭の一点を除いて、この冊の底本にあらわれた補書の諸形態を列挙することに宛て、書中の簡略な注記にいささかでも具体的な形姿を伴わせようとこころみた。
(例言一頁、目次一頁、本文二五一頁、挿入図版二葉、岩波書店発行)
担当者 近衛通隆・龍福義友・石田祐一


『東京大学史料編纂所報』第8号p.53