東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 市中取締類集九

 国立国会図書館保管の「旧幕引継書類」の「市中取締類集」のうち、「名主取締之部」を前冊で終え、本冊から「地所取計之部」に入った。ここでいう「地所」とは、御府内とその近辺の武家方・町方・寺社方・村方の屋敷地・道路・土手・火除地などの総称である。それらについて、彼此二者、あるいは三者間の売買・貸借・交換がなされる折に関係者間、管轄役所間でとりかわした文書、あるいは証拠書類の記録であり、一方、非違取締についての記録も含まれている。
 本冊には二九件、一二八通(ほかに証拠その他のために添付された書類一四通)と、絵図一七図とを収め、この部のほぼなかばに及んでいる。本文中に絵図を収めるのはむつかしいので、それは巻末にまとめて収め、本文中に当該絵図の番号と所収頁とを示して翻読の便を計った。
 万石以下の者が町屋敷を所持し、そこから得る地代その他を収入の一とすることは、早くからおこなわれていたが、天保改革期には、「武備手当」のためということが強調されている。但し、町屋敷、あるいは農地を他人名儀で所持する例が多かったようで、所持者名儀で屋敷改に申告するよう諭している。沽券書継ぎの書式案を市中取締掛の名主たちが提出しているが、それは、(一)大名、(二)御目見以上の大名の家老、(三)御目見以上、(四)御目見以下、(五)御目見以上に准ずる御用達、(六)平の御用達と六段階に分けられている。町奉行所ではそれを、(一)大名・旗本、(二)御家人・陪臣、(三)御目見の御用達、(四)平の御用達と整理している。町名主たちの考えた武家方の階層区分と、町奉行所の考えたそれとの対比は一考に価しよう(第一件)。
 四谷仲町火除広道のうちに、弓術稽古場(布施藤兵衛〔小普請〕)を設けたいという願いについて普請奉行の調査がおこなわれたが、紀伊徳川家の屋敷に隣接することとて、同家の御城附に掛合ったところ、紀伊殿(斉順)が在国中なので、留守方では取極めがたく、追って参府の折を待ってお耳に入れ、返事をするということであり、普請奉行として可否の判断を下すことができなかったという事例もある。紀伊家だからそうなのか、小大名ならばどうか。願出人は小普請とはいえ、四十年来の弓術指南で、門弟を四百人余も抱えている人物である(第九件)。
 洲崎の久右衛門町・入船町跡の明地と汐除土手とを利用して鉄砲稽古場とし、射〓などを築立てようという目論見がなされた(天保十四年)。同所は寛政三年の大津浪後明地とLてあるところで、御用地とするについては、町方として故障を申し立てることも出来ないが、鉄砲稽古の音が海面に響いて、漁猟はいうまでもなく、「地付貝類生し方にも相障」ると、漁師どもが難渋の意を示し、附近の町々も「地位」にかかわるのではないかと心配しているという町奉行の報告は、今日的な興味をも抱かせよう。原案では筒先が南西を向くようであったらしく、それについても、「御城之位に当」るからとクレームがつけられている(第一四件)。
 麹町山元町の拝領町屋敷の地主である原勘解由(曽祖父の代〔宝永頃〕からの牢人)の相続についての記録には、桂昌院附女中覚性院(政野)の譲状写と柳沢吉保の御墨附写とが証拠書類として提出されている。前者は、

  「かうし町はいれうやしき町屋敷、小十郎・四郎右衛門〔これが勘解由の曽祖父〕両人へ遺し申侯、たゝゑいへ被下候まゝ、末へまてうしなひ候ては、為あし、如何しても七ち物なとにつかはし申侯では、きうには成かたく、たゝうりかへてなりても、やしきニッに致し、子供に相渡さるへく、さなく候て、まこ子ノ代に出入等も侯へは、みくるしく侯、たゝそのため書残者也、かしく、
  かく性院 印      

原四郎右衛門江」

 というものであり、後者は、

「政野        

 右先年町屋敷被下候、すゑ〓迄拝領屋敷に候間、左様に相心得申さるへく候、以上、

  七月四日 松平美濃守 」

である。両者とも年紀を欠くが、原家の伝承によれば、拝領は元禄十六年十一月三日、譲請は宝永五年十一月廿日だという(第二七件)。譲状の文言のたどたどしいのもさることながら、「御墨附」といわれるものの存在も面白いので紹介して置く。
(目次一五頁、本文二三五頁、絵図三四頁)
担当者 阿部善雄・進士慶幹


『東京大学史料編纂所報』第6号p.105