東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 幕府書物方日記八

 本冊には、書物方日記の「留牒十二」(享保十四年)・「留牒十三」(享保十五年)を収め、且つ巻末には「重訂楓山御書籍目録」を附録した。
 書物奉行は、前年から引続いて堆橋主計俊淳・奈佐又助勝英・松村左兵衛元隣・松波金五郎正富であり、新たに水原次郎右衛門保氏が享保十四年正月二十六日奉行に任ぜら、れた(前年死亡した石川清盈の後任)。
 本冊においてとくに注目すべき事項は、まず闕書目の書上げを命ぜられていることである、文庫には流布の書籍にても蔵儲しないものが少くなかったからで(十四年十月二日記)、「本朝文粋」なども今さらながら新規に購入されている(同月十日記)。奉行は、特に政治に関係し考拠に用うべき書籍として百四十六部を闕書目に載せ、御書物師出雲寺助三郎をして各書の大意を註記させ(同年十二日記)、この内二十一部を有用の闕書として上申している(同十一月五日記)。これと表裏をなす事柄として、重複図書廃棄処分のため、同書重複の調べが命ぜられている(同十月二十九日記)。前年に御書目録によって同書二部以上を蔵するものの調査が行われたので、今回は実物についての比較対照であった。その。結果「二部以上相除侯一綴」を提出している(同十二月十二日記)。
 次に、貸出し図書の「三十日伺」が簡素にされ、各書について三十日目毎に伺書を提出することを改め、毎月晦日に全部をまとめ記して伺うこととされた(十五年十二月十一日記)。三十日伺いを要する御用本の増加に伴う事務の繁雑がこの措置となったのであろう、また借出されて使用された本としては、御勘定所備えつけの国絵図の修理に参照するため文庫の国絵図が徴されている(十四年五月三日記)。この御勘定所本の国絵図というのは、元禄年中に御勘定所から引渡された御文庫本(「元禄国絵図」)の控であるが(「書物方日記」六 享保十一年十一月二十九日記)、実用に供されてきたため損傷するところ少くなかったのであろう。また「文献通考」が林大学頭のもとに送られて、闕脱が補写されたり(十五年五月十八日記)、「康富記」の校合も行われたりした(十四年三月三十日記)。「康富記」は奉行堆橋俊淳がこの任にあたり、十四年十月十二日校合を終えて提出した。その他、御本の借出しは、細井広沢(十四年正月二十二日記)・成嶋道筑(十五年六月九日記)の両名がこれを許可され、浦上直方も看書を許されている(同年十一月七日記)。
 将軍吉宗の倹約の方針はこの「書物方日記」にもよく窺われる。書物蔵三棟の修理も、本修理は東御蔵だけに止められたのみならず(十五年八月二十五日記)、経費の節約は風干用品の薄縁・羽箒などにも及んでいる(同年五月二十四日記)。書物蔵の修理は、まず雨漏りの多い西御蔵から着手され(同年九月十三日記)、新御蔵は曲りがひどかったが「筋違い」を以て応急処理が施され(同月十六日記)、最後に東御蔵が修理された(同年十月二十八日記)。十五年十二月十五日には奉行は老中・若年寄列座にて倹約を説諭されている。尚、江戸の火事は度々あり、十四年二月十六日には飯田町辺から出火し、奉行・同心が書物蔵にかけつけるということもあり、又、奉行奈佐勝英宅が近辺出火のため類焼している(十五年十二月二十八日記)。
 巻末には、「人名一覧」を添えたほか、「書物方日記」閲読・利用に便するため、「重訂楓山御書籍目録」を附録した。この目録は、上・中・下三巻から成り、主に国書が登載され、撰者・冊数などが記入されている。書籍は部類分けがなされ、類目は、御家部類・神書類・帝紀類・家記類・公事類・律令類・官位類・氏族類・天文類・地理類・詩文類(上巻)、和歌類・假名類・管絃類・武家類・軍記類・醫書類・佛書類・雑類(中巻)、番外圖書部類・古文書類(下巻)である。
(例言・目次五頁、本文三二〇頁、人名一覧三一頁、附録六〇頁)
担当者 太田晶二郎・松島栄一・橋本政宣


『東京大学史料編纂所報』第6号p.106