東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 『東京大学史料編纂所報』第5号(1970年)

所報―刊行物紹介

大日本古記録 殿暦 五

 本冊(最終冊)には、記者藤原忠実の四十歳(永久五年)と四十一歳(元永元年)の時の日記を収める。
 此記は既報の如く自筆原本は現存しないので、本書においては京都陽明文庫所蔵の古写本(二十二冊)を底本として用いた。自筆本の巻数及び失われた時期等は不明である。忠実は八十五歳まで長生したので、四十二歳以後の日記の有無について考究の要がある。
 古写本の年紀は、承徳二年(二十一歳)から、元永元年(四十一歳)まで。彼の履歴についていえば、権大納言に始まり、関白・摂政・太政大臣を経て、関白に再任せられた時期に当っているが、この期間は大体に於いて順調な政治生活を送った時期であるといえる。この間欠けているのは、元永元年春夏だけである。彼は保安元年(四十三歳)、その女泰子の入内問題がもとで白河法皇の勘気を蒙って内覧を停められ、宇治に籠居した。九年後法皇が崩じ、鳥羽上皇の院政時代に入るや、時折入京するようになったが、上皇の召に依って参院を許されたのは更に二年後、即ち五十四歳の時であった。
 その後次第に上皇の信任を得るようになり、政治力を恢復したが、晩年に及んで嫡男忠通を疎んじて末男頼長を偏愛したところから、遂に保元の乱を醸成したのであるが、宇治隠棲以後は日記を記さなかったものと思われる(解題参看)。
 次に、四十二歳(元永二年)と、四十三歳(保安元年)宇治退隠までの日記については、彼が残さなかった場合と、失われた場合とが考えられる。然し、逸文が見当らぬこと及び下記の理由により、前者の可能性が強いと思われる。此冊には、法皇の養女藤原璋子(後の待賢門院)の入内(永久五年十二月十三日条)と、忠通の結婚(元永元年十月二十六日条)の記事が見えるが、これら二つの事柄とも、彼と法皇との間柄に影響する問題を含んでいる。即ち法皇は、元来、鳥羽天皇に泰子を、忠通に璋子を配しようとしていたが(永久五年九月二十七日条)、ともに彼が承諾しないので実現を見るに至らなかったのである。又元永二年には法皇の命で、上野の荘園五千町を停止せられるという事態が起った。中右記等に拠れば、彼が内覧を停められたのは、まことに突然のことであった様に記されている。然し、これらの事情を勘案すれば、法皇との仲は、すでにこの頃から次第に冷却して行った。そして泰子の入内問題が再燃するに及び、遂に内覧停止という強硬手段がとられた、とも考えられるのである。
 本冊においては、従来比較的に詳細に記されていた朝儀に関する記載が簡畧となり、それに反して最勝寺供養(元永元年十二月十七日条)など白河法皇の信仰・仏事及びそれに関する御幸の記事が目立つ。忠実も「此間御幸実連日、又日内両度、上達部定無術覧歟」(永久五年正月十三日条)と歎き、法皇の熊野詣について、「毎年御熊野詣実不可思議也」(元永元年九月二十八日条)と評している程である。
  (図版二葉、例言一頁、目次一頁、本文九七頁、解題六頁、年譜三三頁、系図二頁、索引五三頁、岩波書店発行)
担当者 近衛通隆・龍福義友


『東京大学史料編纂所報』第5号p.112