東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 『東京大学史料編纂所報』第4号(1969年)

正倉院出張報告

 例年の如く、正倉院の曝凉期間中に、昭和四十三年十月二十七日から十一月三日まで、正倉院に出張して正倉院文書の調査を行った。
 今年は、続修正倉院文書巻一〜巻三について外形調査を行う一方、正集及びそれに関連する諸巻についても、先年までの調査結果に基いて部分的にその接続関係を追加調査し、補充・訂正する所があった。しかし接続の調査には多大の手間がかかるので、なお多くの問題点が残されている。
 又、今回の調査期間中に、正倉院宝庫内に保管されている日名子文書一巻の調査も行った。この日名子文書は、大正八年、大分県別府町の日名子太郎氏が、同氏の所蔵にかかる奈良時代古文書を正倉院に献納したものである。当時、正倉院としては、曽ては宝庫にあったと思われるものであっても、一旦庫外に出たものを再度収納することについて難色があったというが、同氏の強い希望により、特例として献納を認めた。但し、その際、以後は、一旦庫外に流出したものは決してこれを再収納しないという原則を関係部内で確認した由である。これは正倉院御物の純粋性を保つ為には至当の配慮というべきであろう。このような次第で、現在、日名子文書は宝庫内に納められてはいるが、御物の中には含まれていない。
 この日名子文書は、本所に明治三十五年一月写の影写本(架番号三〇七一・九五/二六)があるが、この影写は数多い紙継目や界線を殆ど省いているばかりでなく、印影の位置も大きくずれており、至って粗漏なものであるので、原本と対照の上補訂を施した。原本の現状は、紙高三四・八糎の、金銀切箔を置いた極厚手の鳥の子紙で一巻を成し、金襴装の豪華な装釘が施されているが、これは献納に際しての表装であろう。この紙面に、献納以前には別々に離れていたと思われる(1)大膳職解(大日本古文書二ノ四六五頁)(2)写疏所解(二ノ六六七頁)(3)経所上日解案(五ノ三九九頁)(4)田辺秋上写四分律手実案(二四ノ四六二頁)(5)経師写疏枚替注文(二四ノ四六三頁)の五点を継合せて貼り(但し(3)と(4)とはもとから貼継がれていたらしい)、その後に約一三糎の間を置いて(6)「造菩薩願文巻第八」の巻首と思われる部分四行を記した紙片を置き、続いて長大な余白を残して尾軸に至っている。この中、(1)の裏には数行の字痕を認めるが、擦消痕と思われる程墨色が薄い上に、台紙の堅厚や金銀切箔に妨げられて、字形を全く判別出来ない。又、(6)は紙片の左端のみを糊付けし、翻えして紙背をも見られるようにしてあり、裏には写経料紙の注文らしい文書が記されているが、これも墨が極めて薄く、とびとびに十数字を辛うじて識別し得る程度で、全文の判読は不可能であり、従って大日本古文書にも収められていない。
 さて、(1)〜(5)の五通の中、(1)の大膳職解には宮内省印があり、特に疑問の点は認められないようである。しかし(2)以下は、(2)・(5)に「東大寺印」、(3)に「造東寺印」の印影があり、これらの文書に本来このような印影があること自体が甚だ不自然である上に、その印影は色調等に不審な点が多く、後から描き入れられたものの感が強い。字体や文書の内容等については十分検討する余裕もなく、俄にその真偽を決し難いが、何れにしても(2)以下の文書については、後世の作為が施されている疑が極めて濃厚である。この点から見ても、一旦庫外に流出したものは再収納しないという方針は、妥当且つ有効なものと認められよう。
 (稲垣泰彦・土田直鎮・皆川完一)


『東京大学史料編纂所報』第4号p.102