東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第十編之十三

 本冊には、正親町天皇天正元年正月一日から是月までの史料を収めた。
 この年(七月二十八日に改元)は、四月に甲斐の武田信玄が歿し、七月には足利義昭が織田信長に質を送って、山城の槇島城を出で、さらに河内の若江に徙ったので、室町幕府は、名実ともに失われ、また八月には、越前の朝倉・近江の浅井両氏が、織田信長に滅ぼされるなど、政治上の事件が続いて起こっている。
 それらのうち、とくに本冊に関聯があるのは、武田信玄をめぐる動きである。信玄は、前年の十二月に遠江の三方原で徳川家康を破り、同国の刑部に越年したが、この年の正月三河に入って野田城を囲み、二月中旬に攻め陥した。それらについての史料は、本年正月の日付にかかるものも多いが、三方原合戦に関する史料は、すでに元亀三年十二月二十二日の条に収め、野田城陥落に関するものは、本年二月十七日の条に収める予定である。
 ところでこの年に入って信玄は、正月三日に三河の大恩寺に禁制を下し、同二十七日には姪の武田信豊が、信玄の意を受けて、信濃の山家左馬允に戦功を賞した添状を与え、また家康は、同十七日に遠江の竜禅寺に禁制を下し、是月三河の多門重信に過所を与えており、それぞれに勢力を扶植している。
 本冊の正月一日の条には、信濃の村上義清の伝記史料を収めた、村上義清は、天文二十年三月に武田晴信(信玄)と戦って敗れ、信濃の葛尾城を棄てて越後に奔り、長尾景虎に頼った。そののち永禄十二年に義清は、上杉謙信の養子となった嫡子国清の拠る越後の根知城に移っている。なお義清の歿年には諸説あるが、満泉寺過去帳などによって、便宜正月一日の条に掲げた。義清の経歴については、更級少将村上源府君年譜や村上家伝が参考となるであろう。またその花押は、信濃史料刊行会の好意により、古守長一郎氏所蔵の義清書状から掲載することができた。
 次に本冊では、神祗大副兼右兵衛督吉田兼右の伝記について、その大部分をあてた。吉田家旧蔵の史料が、天理図書館吉田文庫として整理されており、多くの史料を補足できたほか、国学院大学図書館や宮内庁書陵部などでも、若干の史料を追加できたからである。
 兼右は、元亀二年十二月、毛利輝元に迎えられて、安芸伊都岐島社神殿の遷宮式を行ない、同三年四月に帰洛した。このとき嫡子の兼和は、その日記である兼見卿記に、「於四条口懸御目也、以外御老衰、御気色見替也」(四月一日の条)と記している。同年九月に、一時具合が悪くなったが、十月には小康を保ち、狩野直信に寿像を画かせている。(十月十八日の条、吉田家では、挿入図版の吉田兼右画像を、寿像といい伝えている)
 本冊の正月十日の条には、薨去に関する史料を、おもに兼見卿記によって掲げ、次に官歴・系譜・霊号・神道系譜及び年忌についての記事を掲げた。兼右は、養父兼満のあとを嗣いだが、実は船橋宣賢の子で、吉田兼倶の外孫に当る。叔父の吉田兼永が吉田神道を管掌することについて兼右と争ったのも、このような事情があったからであろう。
 兼右には、大永七年から元亀三年にわたる日記、兼右卿記があるが、記録異同考によって、記事のある年月日を示した、また参考として、多くの関係史料を、伝授・裁許等、神道教理、神系・神名・神階等、神社・社記・縁起等、祭祀・祝詞等、祭具等、占ト、禁厭、服忌・禁忌、国史等、有職故実等、和歌・連歌、源氏物語等、漢籍、仏典、医薬・博物、武道・兵法、遊芸、雑事、妻室等の二十項目に分類して収めた。
 第一項については、兼右が、天皇・将軍・守護大名などに神道行事等を伝授・裁許したものは、大日本史料の九編で、ほぼ綱文に立つので除いた。本項に収めた兼右撰の神道相承抄には、天文四年(兼右二十才)五月、越州秋光与太郎に日所作次第を伝授して以来、死歿前年の元亀三年(兼右五十七才)正月、周防遠石八幡宮の末岡貞栄に遷座大事を伝授するまでのものが、宗源妙行之加行事以下四十八項にわたって書かれ、彼一代の、この分野における活動を、ほぼ窺うことができよう。神社・社記・縁起等の項には、兼右が註記し、後奈良天皇が外題を宸筆で染めた広瀬社縁起などを収め、元亀二年五月「四条道場ノ南ノ森ノ下ノ官者」である里村紹巴の所望によって、巨且将来・蘇民将来の由緒を書き与えているのも興味深い。服忌・禁忌の項には、天文十一年七月、兼右編の宮寺社服忌令がある。また御集筆・三宝院文書所収の禁忌に関するものは、いずれも兼右の自筆である。
 兼右は、後奈良天皇に日本書紀を進講したが、国史等以下の学芸関係では、日本書紀や神皇正統記はもとより、系譜に関心を示し、有職故実にも精通していたもようである。また宮内庁書陵部所蔵の二十一代集の奥書によって、兼右の和歌・連歌などの文学への努力も窺えるが(挿入図版として、永禄七年八月の風雅和歌集の自筆奥書を掲げた)、兼右卿記によれば、近衛稙家や冷泉為益第での和歌会に列し、とくに近衛前久とは、和歌・連歌などを通じて親しかった。兼右が前久に論語を講じたとき、山科言継は、子の言経を連れて聴聞しているが、医薬に詳しい山科父子は、兼右から病の診察も受けており、兼右の娘は医師の吉田浄忠に嫁ぐなど、兼右はその道にも心得があった。また兼右は、常陸の細谷幹久に神道流の太刀の奥義を授けるなど、武道・兵法にも通じており、このような幅広い教養は、いわゆる吉田神道の発展に、大きく作用したであろう。
 これらのことに関聯して、大永五年三月養父兼満が没落し、吉田家が焼亡したことがある。二水記(同月十九日の条)には、「後聞、於社頭者不苦云々、斎場所同無事云々」とあるが、神道家には重要な日本書紀でさえ、このとき紛失している。おそらく吉田神道の大成者である祖父兼倶以来の家本が、多く焼失したのであろう。兼右が精力的であったのも、吉田神道の再興のためという使命を感じていたからと思われる。
 また神道関係の諸書の奥書によると、兼右八世の孫兼雄の書写奥書などが多く、江戸中期以後における吉田神道の復古への動きは、神道史上に注目すべきことである。なお図版には、前述のほかに、肥後相良義陽宛の兼右の書状(慶応大学図書館所蔵)を掲げた。
担当者 小野信二・菊地勇次郎・染谷光広
(目次六頁、本文三七七頁)


『東京大学史料編纂所報』第4号p.78