東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 諸宗末寺帳上

江戸幕府による寺院本末制度の確立は、宗門改・檀家制度の設定と同様、その宗教統制の一環として行なわれた。江戸幕府の寺院に対する法度は、慶長十三年頃から、個別的に出されているが、慶長十七年五月の、曹洞宗法度の中には、末寺が本寺の法度に違背することを禁じた条文が見え、以後、諸宗に対する法度に、同様の条文がしばしば見られ、元和元年七月の永平寺諸法度等には、開山忌に末寺の出仕すべきことも定められている。
寺院の本末関係を具体的に掌握する必要上、寺院本末帳が作られることとなるが、内閣文庫所蔵「諸宗末寺帳」は、寛永九年から十年にかけて、各宗寺院から幕府に提出したもので、全国的な寺院本末帳の最初のものとして注目されている。大御所秀忠が死に、家光が実権を握って間もなく、行なわれたというのも興味深い。
本所においては、これを上下二冊にわけて刊行することとした。原本は、冊子三十四冊と書付十一通、浄土・真言・律・臨済・曹洞・法華・時宗の各宗寺院からの書上げで、天台宗・浄土真宗の末寺帳は含まれておらず、又、臨済宗のうちでも円覚寺のものはないが、その理由は明らかでない。表題・形式には多少の差異もあるが、現在は八帙に収められ、「諸宗末寺帳」の名を付されている。
今回刊行した「諸宗末寺帳上」には、原本のうち、十五冊を収めた。この十五冊は、関東真言宗三冊、駿河・遠江・三河・伊豆の曹洞宗三冊、曹洞宗通幻派二冊、浄土宗一冊のほか、増上寺(浄土)、泉涌寺(律)、建長寺・妙心寺・方広寺・正宗寺(臨済)各一冊づつである。差出人は、各宗の大本山・触頭・本寺の住持又は役者で、目付は寛永九年十一月九日から翌十年六月十二日の間で、日付のないものが四冊ある。
内容は、本寺名、末寺・末々寺名、所在地、寺領・御朱印の有無が主である。「曹洞宗通幻派本末記下」の末尾には、「此末派日本国中許多有之、未知其在所、故皆不記之者也、」と記されているが、これは、末寺の掌握が未確立であった段階の状況を物語っている。
内閣文庫には、このほかに、「諸宗末寺帳」の写本と思われる「諸寺末寺帳」十八冊と、「寺院本末記」十二冊がある。前者は、難読の個所が空白のままになっていたり、脱漏もあり、又後半の書付の部分の写がない。後者は、原本の記事の他、寛文九年〜延宝三年の補足的記事があるので、読者の便宜のため、註記として引用しておいた。その中には、末寺の所属に関する紛争に対して、寺社奉行が裁決を下した記事も散見する。担当者 沼田次郎・山口静子。
(目次一頁、本文二九六頁、挿入図版一葉)


『東京大学史料編纂所報』第3号p.70