東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第十二編之四十四

 本冊は後水尾天皇元和八(一六二二)年正月一日より六月十八日に至る間の史料を収めている。
 元和八年四月十七日は、徳川家康の七回忌にあたる。本冊にはその七回忌祭儀に関する史料の大方を収載している。その経過をみると、幕府は、旧冬以来七回忌祭儀のために、上野国館林城主榊原忠次・下野国真岡邑主堀親良等に命じて、下野日光山東照社の奥院・廟塔及び石垣等を造営させてきたが、二月十四日、公家衆・門跡等の祭儀臨席を奏請している。朝廷はこれに対して、三月十六日、日光山東照社への奉幣使発遣日時定の儀をとり行い、奉幣使に参議西洞院時慶、宣命使に参議柳原業光を任命した。(その時慶の日記である「時慶卿記」を本冊に引用できなかったのは、同書が八年を欠いているためである。)
 武家伝奏前内大臣広橋兼勝・同権大納言三条西実条は、勅使として東照社の祭儀に臨むこととなり、三月廿一日、兼勝は京都を出立した。これと前後して冷泉為頼・持明院基定・小槻孝亮等の公家衆、梶井宮最胤親王をはじめとする諸門跡も江戸へ下向した。日野資勝の「凉源院記」や、小槻孝亮の「孝亮宿祢日次記」には、公家衆・門跡等の京都出立の模様や道中宿泊の様子が描かれている。
 江戸に着いた公家衆・門跡等は、秀忠に謁し、四月八日、下野日光に向った。ついで十三日、秀忠は諸大名を従えて江戸を発し、同月十六日に日光に入った。この時、幕府は、社参道中条目、宿泊に関する条々等を布告している。その中には、町通りの行列のあり方、喧嘩口論の禁止、人返しの停止、秀忠宿泊の町においては、馬の口を洗ってはならないこと等の規定がみられる。(四月十三日の条所収)
 四月十七日、公家衆・諸門跡・諸大名参集のうちに、徳川家康の七回忌祭儀がとり行われ、西洞院時慶による奉幣、柳原業光による宣命奉読があり、神馬二疋が牽進された。(「慈眼大師伝記」によると奉幣使西洞院時慶が宣命を奉読した由が記されているが、これは恐らく誤りと思われる。)つづいて十八日には、七回忌祭儀授戒が行われ、勅使広橋兼勝・同三条西実条をはじめ公家衆・門跡等がこれに臨み、秀忠もこれを聴聞した。そして十九日には曼陀羅供、二十日には法華万部経の興行が行われている。
 ところが、秀忠は、この二十日、江戸に帰るため急遽日光を発している。(日光出立の日は、史料によっては十七日、十九日とするものもあるが、「孝亮宿祢日次記」「梅津政景日記」によって二十日とした。)又その急ぎ帰還した理由については、御臺所浅井氏の違例によるとするもの、本多正純の隠謀あるによってとするもの等がある。この年に浅井氏が病んでいることは、少し後になるが十月五日臨時御神楽を内侍所に奏して、その平癒を祈っていることがあり、又本多正純は、この年十月一日にその不慎をせめられ、出羽由利に配流されており、共に一応うなずけるところである。しかし人口に膾炙しているのは、本多正純の隠謀ということであろう。即ち、所謂「宇都宮の釣天井」とよばれる一件である。この宇都宮の事件については、十月一日正純配流の条で採録する予定であるが、一応この四月二十日の秀忠が急ぎ江戸に帰還した条にもその一部を収めておいた。十月一日の条と参看してほしい。
 この正純の事件は、八月二十一日出羽山形城主最上義俊の転封と共に、本年における最大の政治的事件であるが、これにつぐ事件として、十月八日、越前北荘城主松平忠直が、その狂疾により老臣によって訴えられたことがある。本冊のなかには、その忠直が、参勤のため越前を出発したが、美濃国関ケ原に淹留し、遂に帰国してしまった事情を、越前出立の日である三月五日の条におさめている。「細川家文書」「天英公御書写」「後編旧記雑録」等によれば、諸大名の間で、忠直国替の事や越前出兵の事がいろいろと取沙汰されていることが知られる。尚、二月十日の条には、幕命をうけて忠直の疾を問うため越前に赴いた近藤用可が、帰途相模大磯において落馬して死去したことをおさめた。
 ところで、次に本冊所収の期間に死歿した人物には次の如きものがいる。
 京都の商人灰屋紹由が、元和八年歿したことは「鹿苑日録」により明らかであるが、その月日は詳かでない。本冊では「立本寺石塔銘」により、一応三月十六日の条にこれをおさめた。そしてその参考史料として里村昌琢に連歌の添刪を請うた紹由の書状、里村紹巴が、紹由等の連歌に点じた詠草二巻を収録した。
 第二としては四月五日に、前大徳寺住持月岑宗印が寂しており、新たに蒐集した遺偈をはじめとする玉林院所蔵の宗印関係の史料をおさめた。玉林院は宗印の開いた寺である。宗印は古溪宗陳の法系をつぐもので、元和六年五月四日、大興円光禅師の徽号をたまわっている。尚、玉林院所蔵の宗印自賛の画像をコロタイプ図版として挿入した。
 第三としては五月九日に、武田氏の老臣穴山梅雪の後室見性院が歿しているが、所載史料のうち保科正之の幼時における見性院との関係が興味をひく。
 文化的な面としては、正月是月の條に、この月に刊行された毛利重能の「割算書」全文を収録した。重能の伝記は必ずしも明らかでなく、その歿年も不詳であるから、一応、ここに参考として彼の伝記史料を若干採録しておいた。
 その他の問題としては「孝亮宿袮日次記」「舜旧記」等には、三月十五日が月食であることを記している。しかし「東京天文台回答書」によると、この日には月食は無かったとの報告をうけたので、「廷人等、月食ヲ録ス」の綱文をもってここに一連の史料を收載した。史料に月食を記していても、事実は月食が無かった場合、今迄はただ「月食」という綱文で採録していたが、正確を期するために、以上のような記述に改めた。
 次に欧文史料としては、伊予松山城主加藤嘉明の江戸の亭が火災にかかった記事と、幕府が肥後熊本城主加藤忠広を饗応した記事とをのせる「リチャード・コックス日記」、および、末次平蔵が商船を呂宋島に派遣した記事をのせる「英国印度事務省文書」をおさめている。
 尚、本冊の担当者は、小野信二、福田栄次郎、高木昭作である。
(目次一六頁、本文三九八頁、英文本文二頁、英文目次一頁)


『東京大学史料編纂所報』第2号p.40