東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第五編之二十二

 本冊は、後深草天皇宝治元(1247)年5月より同年9月に至る間の史料を収める。先ず京都の公家にあっては、後深草天皇御父後嵯峨上皇の院政第2年目を迎え、院御所冷泉万里小路殿南面内弘御所に於いて行われる院評定は、院司藤原(葉室)定嗣の日記葉黄記寛元4(1246)年11月3日の条に見える、「今日於院、甲乙訴訟以下事有評定、○中略 毎月六ケ度可有此事」という条項がほぼ正しく守り行われてきている。一方廷臣として摂政藤原(近衛)兼経、太政大臣源(久我)通光以下がひかえているものゝ、後嵯峨上皇の中宮藤原姞子の父前太政大臣藤原(西園寺)実氏並に入道前摂政藤原(九条)道家の存在を無視し難い情勢にあった。以下目に触れた事件を月日を逐って述べるとしよう。
 5月18日から5日間行われた最勝講の最終日におこった最勝講証義興福寺権別当前僧正覚遍と延暦寺僧徒との衝突事件の発端は車の押合いであって、平安の昔関白藤原基房と平重盛の息資盛との車争いを想起させて興味深いものがある。つぎに6月8日には去年寛元4年11月10日以降屡々行われた文章得業生菅原在匡と同菅原公長との座次相論の結末が在匡を上﨟として認めることで落着をみたが、その間の陣定の記事は見落しがたい。更に6月17日、8月10日、9月3日、同月25日の各条の蓮華王院修造等に関する一連の史料は、岡屋関白記建長元(1249)年正月18日の条に見える、「今日蓮華王院修正、<式日也> 有御幸、○中略 御堂修理如新造、此一両年有沙汰也、」を裏書きするものといえよう。ついで7月17日に行われた院御所小弓御会に対する藤原(葉室)定嗣の評言「蠧飡之近習者結構歟、太不可也、予不接此事、」は、去る3月の院御所御蹴鞠への評言に、「素飡之人々頻申行之、可謂国之蠧害歟、」といっているのと照応している。つぎに同月25日の条の柿本人麻呂の影の史料も見落すには惜しく、8月2日の条の宝治元年江次第談義日記断簡は、去年行われようとした公事論義の記事とともに公卿の動向の一面を物語る史料である。また同28日、29日の法勝寺阿弥陀堂の焼失に関する記事及び9月23日の延暦寺根本中堂修造に関する記事は建築史々料としての価値が大きい。
 さて鎌倉にあっては、時の執権は北条時頼で、この年6月5日におこった宝治合戦は公武を通じての大事件であり、従って本書も約百頁の紙数を費している、時頼が三浦泰村の息を養子とした条をはじめとして事件勃発に至る情勢を示す条々を設けており、6月1日及び5日の条に挙げられた吾妻鏡の記載は、さながら合戦の模様を髣髴せしめるが如き筆致である。また葉黄記の記事も当時の京都の情勢を窺うに足り、藤原(九条)道家の書いた「普光園殿不孝記」に見える道家とその息藤原(二条)良実との不和は事件の裏面を物語る史料として一読に価するであろう。また幕府側、三浦側雙方の諸氏の系図を豊富に掲げることによって嚮背を明瞭にし、三浦泰村及びその一族並に毛利氏、千葉氏の伝記が集成されており、後人の作ではあるが「祖書証議論」に於ける時頼評は要領を得たものというべきであろう。このほか、幕府が公家を尊崇すべきことを議したこと、北条長時を六波羅に派遣したこと、北条重時を連署としたこと、京都大番役のことを戒飭したこと、あるいは高野山金剛三昧院領筑前粥田荘民への傍荘諸人の狼藉を停止したり、西海道関渡沙汰人をして前掲粥田荘民並に運送船を速かに勘過せしめたりしたこと等、幕府の動静を伝える史料を収録している。
 ついで9月26日に寂した上野長楽寺住持栄朝に関して120頁以上に亘り伝記史料を掲載している。禅刹住持籍、東福開山聖一国師年譜そして元亨釈書等は勿論、下総徳星寺所蔵の蓮華院流血脈写、東福寺所蔵東寺天台大血脈図の全文、金沢文庫所蔵の一翁院豪授与無心伝法灌頂印信血脈類4点、東福寺塔頭栗棘庵所蔵の聖一国師印信13点、伊勢安養寺所蔵の印信8点、南溪蔵本の伝法用心、上野長楽寺所蔵の灌頂印信等、上総行元寺所蔵の以心灌頂私記奥書、筑前承天寺所蔵の禪門菩薩戒相承脈譜並に禅教派脈図、常陸逢善寺所蔵の伝法許可私記などによって、禅僧とだけ目されている栄朝の複雑な密教法脈上の位置を示しており、上野長楽寺所蔵の印信目録の全文も貴重な史料であろう。このほか、8月3日の条には、道元が越前永平寺を発って鎌倉に赴いた際の史料がある。
 なお、6月5日の条に、南部日実氏所蔵の北条時頼下文一通が挿入写真として載っている。
(目次20頁、本文514頁)
担当者 竹内理三・桃裕行・辻彦三郎・桑山浩然


『東京大学史料編纂所報』第1号p.26