通航一覧琉球国部テキスト

重点領域研究「沖縄の歴史情報研究」

前へ 次へ 目次 解題 凡例 イメージ目次 README

通航一覧巻之四
 琉球国部四
   目録
 一中山王来朝

通航一覧巻之四
 琉球国部四
 ○中山王来朝
●慶長十六辛亥年、去歳島津少将家久、中山王尚寧を帰国せしむへきの命を蒙り、また明主よりも請ふ旨あるによて、ことし終に尚寧及ひ俘囚を国に還す、是より彼土に監国を置、法制を定め毎歳薩摩に納貢せしむ、同年十二月十五日家久か使者、尚寧の謝使を率ゐて駿府に来り、家久か亡父三位法印竜伯か遺物を献し、「龍伯ハ、ことし正月廿一日卒す、」かつ尚寧か事を言上す、よて東照宮彼謝使を駿城に召、前殿にをいて拝謁をゆるさる、献物あり、「尚寧か帰国、家伝の書に分明ならされとも、南浦文集載尚寧か書牘、及ひ琉球国事略等に、薩摩に在る事、三年にして国に帰ると記し、はしめ尚寧か薩摩に来りしハ十四年にして、今年にいたりすへて三年に及ひたれは、今駿府記等によりて決す、此後将軍家御代替、及ひ中山王襲封の時ハ、必す使者を奉り、国王みつから来らさる事となり、其官家を賀するを賀慶使といひ、襲封を謝するを恩謝使と称す、こハ使者来貢の条に詳なり、」
▲慶長十五庚戌年、上意ニ而中山王帰国いたさせ申候、
▼貞享松平大隅守書上、▼島津家譜、▼貴久記、▼官本常代記、▼創業記、▼慶長年録、「○按するにこれらの書によれハ、尚寧の帰国ハ、慶長十五年のことくなれとも、こハ総記せしものにて、たゝ家久国に帰りて後、明年帰国せしめしを詳に記さゝるのみ、下の寛永嶋津家久譜等に、其年を越さすして、帰らしむとあるハ全く誤りなり、」
▲慶長十五年、家久還薩摩之後、令中山王帰琉球国、而毎歳納貢、更世則来朝、
▼続本朝通鑑、
▲慶長十五年、家久引中山王而帰薩摩、自是令王及俘囚送還琉球、乃置監国立法制、年々納琉球貢税六万石於薩摩矣、
▼成功記、▼武徳編年集成、▼大三川志、「但し武徳編年集成大三川志にハ九月三日条に記す、○按す〈る〉るに、下に載る貞享松平大隅守書上、及ひ塩尻に拠るに、琉球の貢税を六万石とせしハ誤りなるにや、」
▲家久様中山王へ御渡之書付、
琉球之義雖申越候、被対日本踈略依在之、遣人数令破却、剰王位至日本渡楫候上は、如何様可有之義、此方次第候得共、被離旧邦可為迷惑事、銘心肝帰国被申候間、其懇志不可有御忘却事、
一其国之諸式、日本不相替様可被成法度事、
一王位為蔵入知行過分相定進候間、向後不弁無之様ニ可被仰付儀、肝要候事、
一百姓連々困窮候由、其聞得候間不謂儀百姓不致辛労様、可被仰付候事、
一毎年渡唐船之儀、時分相違之故、海路不易候間、自今以後は以番賦船頭被相定、若時分はつれ渡唐、又帰帆仕候は、可相掛其科候事、
一如旧規判形無之商船着岸之時ハ、被相定少も自由無之様、番衆被附置、此方江可有注進事、
右条々、堅固可被相守者也、仍証達如件、
▼薩州旧伝記、「但し年月を記さす、」
▲  琉球国王尚寧与大明福建軍門書略
小邦去日本薩摩州者僅三百余里、以故三百年来以時献不腆方物、修其隣好、頃有不肖嗇夫、「按するに、琉球属和録に、こは邪那をさせしなるへしといへり、邪那の事ハ、平均始末の条に載す、」緩其貢期、是故薩摩州進兵於小邦、小邦荒墟者誠天之所命、而我亦以無苞桑戒也、不幸而為其俘囚、在薩摩州者三年矣、州君家久公、外好武勇、内懐茲憫、待我以待貴客之礼、礼遇之厚者、三年一心加之、送還我於小邦云々、
▼南浦文集、
▲第二十代、尚寧か代に当りて、大明の神宗万暦三十七年、日本国薩摩の守護のために執はれ、居る事三年にして国に帰る、
▼琉球国事略、
▲慶長十六年、中山王尚寧得還国、
▼南島志、
▲中山王尚寧日本に居る事三年、過を悔罪を謝し、慶長十六年漸く本国に帰る事を得たり、此時神君家久に琉球国を属し給ひけるより、永代附庸の国となり、臣とし仕ふる事甚敬めり、夫よりして将軍家御代替りにハ、中山王より慶賀の使臣を来聘せしめ、彼国の代替りにハ将軍家の鈞命を薩州侯より伝達せられて、しかうして後、位を嗣他日恩謝の使を奉るなり、其国唐と日本の間にある故、嗣封の時ハ彼国よりも冊封を受るなり、されとも唐へハ遠く、日本へハ近き故、日本の扶助にあらされハ、常住の日用をも弁する事あたはす、去るによりて、国人耶麻刀と称して、甚た日本を尊ふとなん、
▼琉球談、
▲慶長十六辛亥年十二月十五日、島津龍伯為遺物長光刀左文字脇差献之、就之去歳所擒来之琉球王帰之、則琉球之往来可為如前々之由、自大明国依請之、彼王帰遣之旨言上、依之琉球人着府、則於前殿御覧之、薬種及彼邦之異物等献之、
▼駿府記、
▲慶長十六年十二月十五日、琉球使来献薬物土産、
▼家忠日記追加、
▼参陽武編全集、
▲慶長十六年十二月十五日、島津家久か老父竜伯か遺物として、長光の刀、左文字の脇指を献す、「自注此年春、竜伯卒す、兵庫頭義弘も卒去す、○按するに、島津家譜によるに、義弘入道惟新か卒せしハ、元和五年七月廿一日なれハ、此年の事とせしハ誤りなり、」言上しけるハ、中山王今に薩摩に逗留するに依て、大明帝より中山王帰国の事、請来るによりて琉球に帰らしむ、「按するに、大三川志、国朝大業広記にハ、中山王の帰国を許さハ、琉球往来の船往古のことくたるへしと請ふに依て云々と記す、」其ことを謝する為に、使者参向せしむる由申上る、琉球の使者駿府に来り、薬物并国産数品を献す、
▼武徳大成記、▼大三川志、
▼国朝大業広記、
▲慶長十五年、家久国に帰り其年を越さすして、中山王を琉球にかへらしむ、中山ハ琉球の一名なり、
▼寛永島津家久譜、▼官本当代記、
▼創業記、▼慶長年録、
▲中山王帰国之後、其以来公方様御代替、若君様御誕生、又ハ中山王自分継目之節ハ、中山王〓江戸へ使者差上候、尚寧被召列候節〓、当正徳四年迄、琉球人八度参府仕候、
▼薩州旧伝記、「○按するに此書正徳四年の撰なれハ、其いふ所かくのことし、」琉球国より毎年秋、米十二万三千七百石余を薩州鹿児島に貢す、
▼塩尻、
▲寛永十一甲戌年八月四日、大猷院様御判物、
薩摩大隅并日向国諸県郡都合六拾万五千石余、「目録在別紙」此外琉球国拾弐万三千七百石事、全可有領知之状如件、
 寛永十一年八月四日御諱御判
          薩摩
           中納言殿、
▼貞享松平大隅守書上、
●中山王尚寧帰国の後、彼国守護に留りたる薩摩の将士帰朝せんとす、時に尚寧送別の宴を開き、其調味に蕃薯を出す、将士みなこれを珍味なりとして、乞ふて齎し帰る、「これ此物の本邦に渡りたる始めなるへし、其後数多彼国より薩摩に渡して、其製法をも伝へたり、享保中官命あり、国益の物たりとて、諸国に作らしめられ、伊豆国附諸島にも遣ハされて、其地に植しめらる、」
▲嶋津家久中山王尚寧をして本国に帰す、「按するに、原書年代を記さす、其証前条にあり、」時に彼国番手に残りたる薩摩の諸将も、帰朝すへしと使を以て申送る、依之十月半諸将帰朝せんとするにより、尚寧諸将を王城に招て饗応せらる、時に琉球芋をあつものにして、すすめけれハ、いつれも珍味なりとて喜悦しけり、国王自ら出て、是ハ小国に沢山生する物也、賞翫せらるゝこそ満足なれとて、生なる芋を取寄出しけれハ、諸将是ハ珍物也、帰国のみやけに所望申たしとありけれハ、国王悦ひ大なる苞にして進らせけり、帰国の後、大守へも奉りけれハ、大守も珍らしと賞味し給ひ、これより歴々の調味と成、軽きものハ食する事能ハす、年々琉球へ所望し求められしに、寛永年中にいたり、琉球より是をあまた献し、其製法をくハしく書付奉りけれハ、薩州にて作らせらるゝに、よく生して琉球より送りし所に違ハす、他国へも遣はしけり、「按するに、享保年中嶋津氏よりの書上に、琉球より薩州へ渡し候て、三十四五年程に罷成とあれハ、天和年間の事にして、こゝに寛永年中といふハ誤りなり、」はしめ琉球より来りしもの故、琉球芋と号しけり、今薩摩にて作る所故、余国にてハ薩摩芋と唱ふ れとも、薩摩にてハ于今琉球芋と呼なり、当時ハ諸国に広まり沢山故、いやしき食物のやうに思へとも、其本を思へハ、いやしむへき物にあらす、饑饉の節ハ、米穀の代りに食して人命を保たしむ、
▼島津琉球軍精記、
▲享保の頃、浪人青木文蔵、蕃薯考、并国字訳を作りて、薩摩芋の国用に益ありて、人民の食料をたすくる事を委しく記せり、其由上聞に達し、小石川御薬園にて試みに植させられ、農民にも作り習ふへき旨仰出され、伊豆の国附島々へも植させ、佐渡の国へも遣はさる、其上著述之蕃薯考国字訳板行被仰付、広く作習ふへき旨触させらる、其頃薩摩へ仰遣わされ、薩摩芋の貯へ方、植付の法等を尋させらる、薩州より献せし書付左に出す、「按するに、書付の結末、みな二月とあれとも、其何年といふ事を脱せり、」
  さつま芋囲の事
十月の節過、七日八日目の頃、畑より堀取るなり、種芋かこひ埋置やうの事、畑より堀出し土を能おとし、水にて洗ふ事なし、日に乾し候事なし、吹さらし候所ハ悪し、山の端にても家の陰にても、風あたり不申、日向の能湿気なき所に芋をいけ候分量ほと、深さ四五尺堀り、四方へ菰を当、底にも菰を敷、其上へ籾からを厚さ五寸ほと敷、芋のすれ合不申様に、壱寸程ツヽ間を置、一通ならへ、また其上へ籾を芋のみへさる程置、又一通ならへ置、其上へ菰を二枚程かけ、其上より土の通らさるため莚を壱枚かけ、其上へ土を七八寸もかけ置申候、
温気にて籾ぬれ候へは、芋くさり申候、雨露通り候へはくさり申候、
疵有之候芋は、かこひかたく候、疵の所よりくさり申候、疵のなきをかこひ申候、
箱に入れ、右之通にいたし候ては持不申候、土ハきらひ候へ共、土の気無之候ては、また持不申候由、
二月の中より十日め程に、苗とこ入と申て、日あたりよき所へ、馬糞をよくこなし、厚さ五寸程一通置、其上へ横にならへ、また其上へ馬糞を芋のみへさる程置、菰を壱枚通かけ置なり、また上家をこしらへ、廻りも風のあたらさる様に、菰にてかこひ、日むきのかたに口をあけ、昼は日にあて、晩には風のあたらさるため、口をふさき置、芽の出候時分は、芋壱ツより芽いくつも出申候、芽五六寸にのひ候時、かき取候て別々に植る、四五尺程ツヽ間を置植る、芋のつるに五六寸間にふし立、五六尺にのひ候時分より、ふしの所毎に壱寸程ツヽ土をかけ置候へは、其ふしより根出、芋出来申候、こやしは下肥をうすくして、芋にかゝらさる様に、きはへかけ申候、出来上り候まてに、二度程こやし入候て能候よし、根元の所へこやしを致し候、
又とこへ入れ不申、直に畑へ植付候時は、芋をいけ候下へ馬糞を入れ、其上へ芋をおき、五寸ほと土をかけ植る也、
  薩摩芋
一是は唐国より渡来候哉、
一いつの頃より薩州にて作候哉、
一唐国より琉球へ渡来、琉球より薩州へ渡候て、三拾四五年程ニ罷成候、
一唐芋と唱へ申候、皮の色は白赤薄赤御座候、赤き芋は十五日芋とも赤芋とも申候、薄赤色の事をほけ芋、三つ葉芋とも唱へ申候、何れも別種にて御座候、風味皆甘く少々つゝ替御座候、
一琉球芋と申候て、別種有之様申ものも有之、又は同種と申ものも有之候、如何候哉、
一琉球芋と申候は、唐芋とハ別種にて、はんすいも共唱へ申候、皮の色は白赤の芋も有之候、是ハほけいも、又は赤はんす芋とも唱へ申候、皆共内の色は白く有之、風味皆共別而之替無御座候、
一此芋薩州へ作初候は、程久敷義にて、年間相知れ不申候、先達て申上置候通、少々ツヽ作申候、
一右銘々之芋を種取植付候得は、本芋の色にて替無御座候、所により稀には白はんす芋も出来候も有之、唐芋よりほけ芋出来候も御座候、
一百姓共夫食貯置様は、如何様致し候哉、
一貯置候得は、二三年計も持ものニ候哉、
一琉球芋、唐芋生にて貯置候義は、九十月頃芋を堀取、日当の暖気成岸の下、同藪かけ湿気なき所を見合、土中を堀り、下には茅またハわらを敷、脇にも右之類のものを土の不掛様に致し、其中へ芋を入れ置き、上にも茅またハわらを置、雨なと洩れ入さる様堅め置候へは、翌年三月頃まては痛不申候、右時節相過候まて召置候は、土中より取出し家のうらに、わら茅の草を敷、其上に置候得は、五六月時分まては持申候、または八九月頃堀取、四五日干調籾ぬかに交せ、たわらなとに入、火を焚候うへに置候へは、翌年夏初まては持申候、中にも赤いも能持申候、
一久敷貯候義は、芋を厚サ壱分程に切能干調、壷なとに入置、毎々干候て保護致し置候へは、二三年まては痛不申事も御座候、
一飯料には、粉になし、だんごに致しもちひ候、またはゆて候ても給、食にもませ粉に致し候、大麦小麦栗蕎麦の粉なとにましへ、たんこに致し候ても用申候、
一唐芋十部出来候地に、琉球芋は七部出来申候、右薩摩芋琉球芋の分り相糺可申旨被仰渡、此節薩州より委細申越候ニ付、此段申上候、以上、
   二月
▲  唐芋苗持様植付之次第
一種かくし置様植付様之義、かつらを九十月の時分、霜不降内、長さ壱尺四五寸程に切、日当りの岸の下暖気なる所を見合、横之広さ壱尺七八寸程に堀、かつらを四五寸程出し置き、深さ六七寸ほと土をかふせいけ置、翌年二三月頃雨降候砌、苗植致し段々にやしないをくれ、四月より五月上旬頃まてに植付申候、
一苗芋は、正月末より二月初まて苗床に馬糞を厚さ壱尺余り置、其上に芋を並へ、芋のみへさる程馬糞をかふせ、わら芥をかけ置、五日過明け候て見申、芽めくみ候節、芥を取除申候、右の芽七八寸程成長致し候節、芽をかき取植付申候、又は芋を厚く苗床にふせ置候得は、芽出候節芋共に別床に直し、芽出かつら三四尺に成長致し候節、七八寸壱尺程にも切、植付申事も有之候、芋薄く苗床にふせ置候へは、別床に直し候には、およひ申さす候、其侭床に置かつら右のことく三四五尺になり候節、切候て植付申候、
 但畠江植付候は、横にかつらを植付、土三四寸かけ申候、
一堀取候時分ハ、九十月霜不降うちに取申候、
一琉球芋唐芋かつらの様子、同様に相見へ申候、
   以上、
  二月
▲享保二十乙卯年閏三月九日、吹上奉行石丸定右衛門薩摩芋作被仰付候処、宜敷出来腐も無之、出精仕候ニ付、銀三枚被下之、其外添奉行以下拝領物被下之、
「以上、」▼享保年録、
▲有徳院様薩摩芋種を御取寄、諸国御代官江被仰付、公民へ種を御貸被下、所々に作らせたまふ、その形状は魚のことくにして、万民見馴れさるものゆへに、これをくらはす、これに依て林大学頭へ命せられて、薩摩芋の功能書付開板あり、人これを喰ふときハ、その徳ある事を記させ給ひしかは、世上の人々漸く疑を散して、今専ら世上にこれを賞翫して、貧民のため、あるひハ飢饉のときなと、甚た夫食の助けとはなれり、
▼明君享保録、
▲蕃藷「自注又作蛮薯、」一名甘藷、其赤者名朱藷、番甘乃三種通称也、
和名、琉球芋、又名薩摩芋、呼其赤為赤芋、按番藷、其種原出于琉球国、其品有白黄赤三品、而白者最勝、曽聞、彼国人殊貴重白者、厳禁伝種於他邦、故本邦所有黄朱二種耳、不彼知其有白薯、遂呼黄者為白薯、稲若水云、赤黄者性粘、白者、不粘、不粘為上品、粘者為下品、特粳糯之異耳、其白者、疑是番芋歟、然未敢決、愚按、扣鉢斎行厨集以朱薯為香芋、未如何是、
▼番藷録、
●慶長十七壬子年、中山王尚寧か使僧円覚東堂薩摩に来り、家久か父宰相入道惟新に書牘を贈る、惟新回答して自後異心あるましき旨を諭す、「異国日記に、また某年二月十九日惟新より尚寧に贈れる返翰を載せて、文中早く嗣王を定めん事を諭せし事見ゆ、其返簡年代をのせされとも、文意によるに必す元和元年の書なるへし、」
▲ 慶長十七壬子年三月二十日、
答琉球国王書
別来怱怱、換一寒署、徒竭遠望而已、多歉多歉、恭聞、錦旋之後匪意安、一国公族至於島嶼小民、各得其所矣、寔雖為天幸、惟我家久公徳化之所及也、〓今円覚東堂、為正遣使遥渡大洋、一封書音数箇珍〓、逐一所拝受也、「按するに、来翰等の事、今所見なし、」自今以往国泰民安、長久之計貽厥孫謀者、在尚寧王之存誠、誓勿忘在〓之時可也、恐懼不宣、
  壬子三月二十日     藤氏惟新
 拝復    中山尚寧王   閣下
「按するに、島津氏ハ、右大将頼朝より出たれハ、清和源氏なるへきを、藤氏と書せる事ハ、島津家譜に、元祖島津豊後守忠久ハ、頼朝の庶長子にして、比企判官能員の妹、丹後局の所生なりしか、御台所の嫉妬を避けて、妊娠中摂津国に落下り、住吉にて忠久生誕あり、局依る所なく、其辺の領主八文字民部大輔惟宗広言に嫁し、忠久も其家に成長して、はしめ惟宗姓を冒し、其後近衛内府基道の契子となりて、是より藤原に改めしと見ゆ、元和二年六月家久より安南国華郡公に与ふる書にも、藤氏家久と記し、また三縁山台徳院殿御廟前に、彼家より献備せし灯篭にも、藤某とありと聞く、然れハ其頃まて藤氏を冒せし事推て知らる、」
▲ 某年二月十九日、
答中山王書、
今春賀詞千祥万吉、如示諭、京畿干戈出于不意、無幾而東西太平、上下歓抃、珍重珍重、我少将家久公遣使於貴国、擇定嗣王、嗣王分定者国家長久之計也、自古嗣王不定、則国有覬覦者、若然則其憂在衽席之間矣、早使親族之有才者嗣其禄位、則佞巧之徒、豈有乱国者乎、伏願擇師伝之知古今者、置之嗣王左右、教以成敗、示以節倹、古云、愛子教以義方、忠孝恭倹義方之謂、若嗣王能解義方之理、能致忠孝於太上、能行恭倹於国家、又能知成敗於未然之時、与我薩府府君、永不忘親睦之心、豈非貴国太平基乎、太上儲王同能知之、所贈之赤氈二片、蕉布十端、酒甕一箇拝而受之、不勝感荷、不宣、
   二月十九日        惟新
 拝復            中山尚寧王  閣下、
以上、▼異国日記、
▼南浦文集、

前へ 次へ 目次 解題 凡例