通航一覧琉球国部テキスト

重点領域研究「沖縄の歴史情報研究」

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通航一覧巻之二
 琉球国部二
   目録
 一平均始末

通航一覧巻之二
 琉球国部二
 ○平均始末
●慶長十四己酉年四月朔日、仰によりて山口駿河守より、島津少将家久、及ひ其父宰相入道惟新に書翰を贈りて、琉球国平治まてハ、参府いたすましき旨を達す、
▲ 慶長十四己酉年
急度令啓上候、依而貴殿様御上洛之儀付而、切々以書状申入候、然ル処、琉球御動之儀御座候間、琉球相済候まて、御上洛之儀は御無用之由、御諚之旨本上州承候而、拙者より早々可申入之由候間如此候、為御心得申入候、将又先書如申入候、質人之儀早々被成御上せ御尤存候、猶御老中迄申入候、恐惶謹言、
  慶長十四年
             山 駿河守
    卯月朔日
                直友在判
      薩州少将様
         参人々御中
 尚々、琉球之儀無御油断被成御注進候様ニ、奥州様御相談御尤奉存候、猶追而可得貴意候、以上、
急度令啓上候、仍奥州様御上洛之儀付而、先度以書状申入候つる、然処、琉球御動之儀ニ御座候間、たゝ今は御上洛御無用之由、御諚之旨本上州より被申越候条々は、御心得可被成候、先御上洛相延、於我等珍重奉存候、不申及候得共、琉球之儀御行専一存候、左様ニ候得は、彼表之様子急度可被成御注進候、御油断被成間敷候、尚追而可得貴意候、恐惶謹言、
  慶長十四年
             山口駿河守
    卯月朔日
                 直友在判
      惟新様、
        参人々御中、
▼貞享松平大隅守書上、
●同年四月三日、是より先、島津勢所々の城塁を連陥し、海陸より進みて、此日遂に王城首里(シホリ)を攻破り、国王尚寧三司官以下悉く降る、よて軍将樺山権左衛門平田太郎左衛門等、尚寧を率ゐて、五月五日琉球を発し、同廿五日薩摩国に帰陣せり、「此征伐の事を記して、世間に流布せるもの、琉球征伐記、薩琉軍鏡、島津琉球合戦記、島津琉球軍精記等数部あり、皆輓近の書にして、其引証詳ならす、また月日事実ともに、家伝の書と齟齬し、殊に其文粉飾に過て、信を取るによしなし、されとも其記載の内、家伝正史に類する説あるか、或ハ前後の事実に照応せるハ、今一二姑く采用せしもあり、かつ其数部の書に載る合戦の大略ハ、先元帥ハ島津家久か老臣新納武蔵守、其他島津同姓の家人等数十人、総兵十万千八百五十四人、或ハ七万六千八百七十三人とす、慶長十四年四月廿一日鹿児府を出陣し、鬼界か島に着船して一日滞留し、五月朔日琉球に着岸して、那覇の東南要渓灘(ヨウケイダン)の要害を破り、守将陳文磧を撃取、同四日佐野帯刀先登して、千里山城を攻む、城中にハ孟亀霊朱伝説等篭り、帯刀か隊下松尾隼人か広原の陣を襲ひ、味方頗る死傷あり、されとも帯刀か勢奮戦し、横 田嘉助朱伝説を生捕、孟亀霊ハ自剄して、諸軍遂に城を抜、同七日進みて虎竹(コチク)城を攻め焼討す、守将国王の一族玄国侯李慶善、当国一の勇士と聞えし張助幡とともに、米倉島に逃る、同九日乱蛇浦(ランシヤホウ)の関門を陥れ、花房兵庫か隊士玉沢与左衛門、守将公山都師を撃取、また松原城を抜、守将武平侯林渓子及ひ川流子等王都に走る、同十一日佐野帯刀、千里山の耻を雪んと、死を決して王城に向ひ、高鳳門を過き、鉄石川を越え、其晩鉄石門を破りて、守将李志発を撃取、直ちに山上より攻下りて、都市に放火し、王城首里のうしろ日頭山の城に迫る、守将王俊辰亥能く防き、偽て明日降らんといふ、帯刀これを信して陣を退く、其夜俊辰亥帯刀か陣を襲ふ、味方奮戦して敵兵龍歇川流子なと数多撃取しかとも、終に敗られ、帯刀はしめ従士過半死す、斯て新納武蔵守ハ、進みて王城及ひ日頭山を攻囲み、王俊辰亥、玄国侯李慶善等上下七十三人を生捕、猶府中を探索して、国王公子等を生捕、六月十六日市中に高札を建て、士卒の狼藉を禁し、飛船をもて此よし薩摩に注進す、島津龍伯これを駿府に言上せしに、国王を召寄へき旨上意あるにより、龍伯また軽舟を馳て琉球に達す、武蔵守 下知して、城代城番を入置、国王已下を携へ、薩摩に帰朝す、其番手には、要渓灘に種島大膳亮、千里山に里見大内蔵、虎竹城に畑勘解由、米倉島に江本三郎左衛門、乱蛇浦に秋月右衛門、松原に鈴木内蔵助、都府高鳳門に篠原治部、同町場に花房兵庫、王城に松尾隼人、横田武左衛門、大輪田刑部、横須賀左膳、前田十左衛門、日頭山後詰城に、島津大内蔵、同采女、同玄蕃なり、これ彼数部の書に載る所にして、月日ハ出陣の外ハ、島津琉球軍精記にのみ記す、但し軍精記に載る所、他説に異なるものハ、はしめ新納武蔵守微服して、琉球に渡海し、其地理強弱等を熟察して、帰朝せしにより、征伐の時、毎事便利を得たるよしを記し、さて家久も渡海し、要渓灘陥りし後ハ、彼要害に在りて軍事を聴く、また佐野帯刀都市に放火せしかハ、国王尚寧大に恐怖し、五月十二日の朝、妃嬪等を携へ首里城を出て、城背日頭山の要害に楯篭る、こゝの守将俊辰亥王を守護して堅く守る、同日午剋帯刀進みて日頭を攻囲む、王俊辰亥偽て明朝降らん事を約し、帯刀陣を山下に退しか、其夜俊辰亥襲ふて味方敗れ、帯刀ハ俊辰亥か弟王瑾に撃れ、士卒過半死す、其家人横田嘉助ハ、国王日頭に逃れし時、途にして王子二 人を生捕、これを送りて武蔵守か陣にいたりしか、武蔵守兵一万を与へて帯刀を救ハしむ、嘉助これを率ゐ来りて、直ちに敵兵を城に追入れ王瑾を撃取、其身も重創を被り、主人の死を哀みて終に自尽す、武蔵守ハ軍を進めて首里城を攻む、城にハ国王退去の後、左将軍晋奉、及ひ虎竹乱蛇浦より逃れ来りし武平侯林賓、張助幡等三千余人にて堅守し、張助幡勇を奮て味方殺傷せらるゝもの多し、武蔵守種島大膳をして、種島の小筒にて張助幡を打しむ、かれ眼を打れて働得す、城兵胆を落す、武蔵守これを察して、先に鉄石川にて生捕たる専龍子を、城中に放ちて降を勧め城を受取、進みて日頭を攻め、また専龍子をして説しむるにより、六月八日国王尚寧はしめ、王俊辰亥諸官人城を出て、武蔵守か陣門に降る、武蔵守これを携へ要渓灘に至りて、家久に謁せしめ、永く属国たらん事を約す、よて家久先彼国を発し、六月廿日薩摩に帰着す、尋て国王を携へ帰朝すと云々、また琉球属和録にハ、彼権臣邪那なるもの、兵略に誇り那覇の海口に、鉄錐鉄鎖を張りて堅守せしか、新納武蔵守筏火にてこれを焼解し、兵を分ちて攻るにより、那覇要渓灘一時に敗れたり、邪那はかく所々の城塁に奇策を設け和兵を軽侮 すれとも、連戦皆敗れしにより、稍危懼を懐き猶佐敷の要害に篭りて防戦す、然るに林渓子邪那を諫めて亡命せしめ、其身これに代りて戦死せり、武蔵守これをきゝ、国王に告て邪那誅戮の令を下さしむ、時に王妃美氏ハ邪那か妹なれハこれを悲みて自殺す、国民邪那を怨み、其追討の王命をきゝて、争て撃殺せしよしを記せり、此書も明和年中の撰にして、また確拠とするに足らす、たゝ其書にいふ、此役新納武蔵守か謀略によて、速功ありしかとも、かれ功に伐らす、たゝ彼国弱き故とのみいひ、島津龍伯も武威の高からん事を憚り、彼国にてハ、さはかり合戦なかりしよし言上せしにより、世間にこの合戦を詳に記せるものなく、武蔵守か武功も明らかならす、されとも其合戦の実事ハ、僧文之か此出陣を賀する送別出塞の詩に出たりとて、其詩十首を載す、其中一首に、欲伐鬼方揚白旛、新納威武動乾坤、平田右将樺山左、添得伊川伴衛門とあり、則南浦文集にも載たり、これによれは、武蔵守か元帥たりし事推て知らる、然るに薩州旧伝記に、出陣に臨みて、新納拙斎樺山権左衛門平田太郎左衛門を送別せし事見え家伝の書にも、武蔵守か事絶て所見なきハ不審なり、或ハ拙斎ハ武蔵守とハ別人なるか、 実に龍伯思ふ所ありて、くハしく言上に及ハさりしにや、こハ稍冗長に渉れとも、姑くこゝに注して考異とするのみ、」
▲慶長十四年四月一日、海陸より国王居城首里と申城に取懸申候、国王尚寧降参仕候ニ付、早船を以右之趣申越、夫より樺山権左衛門平田太郎左衛門尚寧を率て、五月五日琉球を発し、同廿五日薩摩に致帰着候
▼貞享松平大隅守書上、
▼島津家譜、
▲琉球には、那覇の湊に城を構へ、湊口に忍かねのくさりをはり、是に船のかゝりたる時、上より目の下に見おろし、射るへき手たてを拵へ待懸たりしに、樺山平田等運天の湊へ着船、諸勢を揃へ彼所手に附、伊野波名護読谷山(イノハナゴヨミタンザ)の城を責落し、北谷へ向ひ、王位の居城首里の城に取掛ける、琉球の諸勢ハ、首里より一里有之那覇の湊口の城に皆楯篭ける故、首里の城にハ防き戦ふものなく、無異儀落城、王位降参いたされける、那覇の城にハ、矢尻を揃へ待懸たりけれとも、舟一ツも不見、後より押寄られ、殊に王城落城なれは、一戦に不及落城いたし、無相違琉球御手に入けれハ、則早船にて鹿児島へ其段被申上候て、其年ハ順風おくれけるゆへ、諸軍勢首里那覇に滞留して、翌年尚寧王召列鹿児島へ帰陣被致ける、「按するに、翌年とあるハ誤なり、下説を是なりとす、」
▲慶長十四年三月、琉球へ渡口の湊山川と申所迄、家久公御出馬御下知被遊、御先手を琉球へ被遣、段々責つふし、同四月中山王居城首里城に取懸候処、中山王尚寧降参仕候間、御先手の者とも中山王を召とらへ、同五月薩州へ列来候、
以上、▼薩州旧伝記、
▲慶長十四年、是年之内我軍衆帰帆時、執中山王并三司官来于薩摩、
▼貴久記、
▲島津家久発兵撃琉球、前鋒進取北山之地、斬首百余級、水陸鼓行、並入那覇港、中山之兵連戦皆敗、王城遂陥、尚寧出降、師起四十余日、宗社失守矣、
▼南島志、
▲慶長十四年四月一日、家久那覇津に「按するに、南島志、大島筆記、琉球人漂流聞見図説等を参考するに、那覇港ハ国の西南に在り、薩摩山川港より二百四十余里、大島より百二三十里、徳島より六十里なり、」至らんとする時に、津の人民等鉄のくさりを津口によりて、これを守るゆへ、他の津より着岸して相戦ふ事三日におよふ、「按するに、家久も渡海せしことく記したるハ誤りなり、また他の津といへるハ運天港なるへし、ともに前の薩州旧伝記併せ考ふへし、」騎兵足軽の死するもの数百人、つゐに都の門に入て其城をせめ破る、爰に国王三司官等皆和をこふてくたる、
▼寛永島津家久譜、
▲慶長十五庚戌年、琉球国来朝の時、我「按するに、定西法師自らいふなり、」大坂に出、琉球人に逢ふて琉球攻の事を聞に、王后ハ其騒きに驚き給ひ、程なく失給ひぬと語りて皆涙を流しける、
▼定西法師琉球物語、「○按するに、定西ハもと石見国出生の人にして、若かりし時、琉球に渡りて久しく彼国に在りしか、後帰朝し、故ありて道心者となりし事、書中に見えたり、これによれハ、本文に注せし琉球属和録の王后自殺せしといふ説ハ誤りなるへし、」
▲慶長十四年四月三日、島津家久の軍将、樺山久高平田増宗、一昨朔日軍を進め、琉球の那覇津に到る、初琉球より薩州に来り居る商人等、兵を発するを聞き、速に帰りて是を告く、因て港口に鉄の鎖を張り、船路を遮り兵を備へ大銃を発す、是に於て容易に攻難く、唯火砲を放て日を送る、又彼国の搦手、甚嶮岨にして毒蛇多く、国民といへとも経歴する事能ハす、依て彼国にても守禦を設けす、薩兵是を知り、嚮に薩隅二州の〓徒を撰ひ遣ハし、柴草を舟に積み其海浜に運送し、上風より火を放ち、林叢山嶽を焼き毒蛇悉く焼死す、且一計策をなし、薩州より追々兵を発し、老弱を撰ハす数百艘に乗せ、多く旌旗を建て、金鼓を多くし、進て津口に迫る、初めハ海岸一里許を隔て船を停め、夫より船を急に進めす、一日に五六日町を限り、日を経て兵船多く集り軍勢日々に盛になる、琉球にて此津口を破られしと、守備を専に群り禦く、島津の兵其虚を伺ひ精鋭の兵を撰ひ、別船に乗せ遥に東西の方琉球国の背より、夜に乗して海陸共に進め攻む、別船の兵陸に上るに、守禦の兵在らされハ、直ちに進み闌入し、戦ふ事三日、薩兵も死傷百余人に及ふと雖も、前後左右より攻撃れ大に破れ、琉球の王城首里も 遂に破れ、首数百級を得、国王尚寧降を請ひ、三司官以下悉く降る、久高厳く王城を守り、子姪妃妾を捕へ、是を薩州へ告く、家久檄書を馳せ駿府及ひ江戸へ告く、
▼大三川志、
▲島津琉球を取んと欲す、これを密せす顕れて兵船軍器の用意夥し、琉球の商人薩摩にある者帰て国王に申す、琉球大に駭愕して海辺に塁をかまへ備を設く、夏日波頭穏なるに至て、薩兵の老若を聚て、数百の海舶にのせ、旗旌目を奪ひ金鼓耳を劫して、次第々々に攻近つく、初ハ海岸一二里はかりの外に在、俄に漕よせすして進むこと、一日に或は五町、或ハ七町、船数日々にかさみ軍勢いよいよ盛なり、琉球国中を空して、皆此にあつまる、薩摩の精鋭ハ、別に軽舸に乗て、はるかに東西より廻り、琉球の後の方より夜、まきれに漕つけ、明を待て俄に撃て上れハ、琉球の兵悉く渡口に在て拒者なし、琉球不意を撃れ面背の敵に敗られて大に潰乱す、海上には舷を扣て声勢を張り、陸地には戈を揮て斬劉を縦にす、一戦に大勝を得たり、此より永く属国となりて朝貢絶す、
▼砕玉話、▼雑話燭談、
●はしめ琉球征伐の事、明朝に聞ゆるにより、彼国にても辺海戒厳あり、
▲万暦四十年、「按するに、我慶長十四年ハ、彼万暦三十七年に当れるを、四十年と記したるハ記者の誤りなり、」日本以勁兵三千、入琉球国〓其王、遷其宗器大掠而去、浙江総兵官楊宗業以聞、令厳飭海上兵備従之、
▼明史琉球伝、
▲島津家琉球征伐御免を蒙りし事を、少しも密する事なく、鹿児島其外の湊浦より、軍船夥しく引つらね、又日あらすして打立るゝよし風聞せしむ、琉球人薩州に有合ふ者とも急に走せ帰りて、此事を告けたりしかハ、中山王尚寧大におとろき、速かに部下に下知あり、又急使を馳せて大明皇帝に奏聞しけるに、明朝も時今甚くおとろへたるころなれハ、大に驚く処にいかなる伝説の間違にや有けん、〓州広州浙江の間へ、薩摩勢先駈して、日本の大兵馳向ふと聞へけれハ、中国の騒動斜ならす、近年朝鮮の役終りたると漸く枕を安んする所に、又倭寇のしかも薩摩の剛兵とも来るとや、いか様朝鮮軍の其返報も有へき事なり、是ハ国家の大難事なりとて、上下大に恐れ、琉球を救ふさたハなく、只中華守禦の僉議評諚混乱して、未た相極らす、先ツ〓広浙江の地を取固むへしとて、万民震ひ懼れしなり、
▼琉球属和録、「○按するに、此書載る所信しかたけれとも、姑く明史の因に存す、」
●琉球平均の旨少将家久父子より使者をもて、執政の許に注進す、「月日所見なし、」よて、七月五日、台徳院殿より御感書を出され、同七日東照宮より、かの国を賜ハる旨の御黒印を下さる、本多佐渡守正信、本多上野介正純よりも返翰あり、
▲慶長十四年四月、樺山美濃守等より、王城を破り勝利を得たる事を家久につく、家久すなハち使をはせて、大権現に言上せしかハ、「按するに、台徳院殿に言上の事を脱せり、」はなハた御感有て、黒印を賜ハりて此島を家久に下さる、
▼寛永島津家久譜、
▲慶長十四年四月、中山王尚寧降参仕候旨、家久様より早速東照宮、又ハ台徳院様へ被仰上候処、御感斜ならす、則御感状を以、琉球国永く家久様へ御拝領被遊候、家久様御養父三位入道龍伯様、家久様之御実父宰相入道惟新様へ、両御所様より御賜被成候、御代々之御判物にも、薩摩大隅、并日向諸県郡、琉球国「按するに、寛永十一年八月四日、及ひ寛文四年四月五日の御判物に、琉球国十二万三千七百石とあり、御代々の御判物これに同しかるへし、」全可致領地と被仰記、御拝領被遊候、▼薩州旧伝記、
▲慶長十四年四月、薩摩兵百余艘琉球へ渡り、彼島不及一戦、内裏を責崩帝王を擒て帰朝す、則彼島津拝領島中検地するに、漸十二万石余有之
▼慶長日記、
▼慶長小説、
▲慶長十四年四月、国王尚寧降参仕候旨、早船を以申越候故、使者を以致言上候処、権現様、台徳院様御感不斜、則御感状を被下、琉球国を永く家久ニ被下之旨被仰出、龍伯惟新も同前ニ御感状頂戴仕候、
▲至琉球指遣兵船、不移時日及一戦、彼党数多討捕之、剰国王降参之上、并三司官以下、至于其地不日可為渡海之注進、誠以無比類働共候、猶本多佐渡守可申候、謹言、
  慶長十四年
             台徳院様
      七月五日
                御判
         薩摩少将殿
▲至琉球差越兵船、彼党数多討捕之、殊更国王及降参三司官以下、近日着岸之趣、誠以希有之次第候、委曲本多佐渡守可申候也、
  慶長十四年
             台徳院様
      七月五日
                御印
         島津修理入道とのへ
▲至琉球差越人数、不経日数輩討捕之、其上国王就降参、近日至其国可為着岸之旨、尤無双之仕合候、猶本多佐渡守可申候也、
  慶長十四年
             台徳院様
      七月五日
                御印
         羽柴兵庫入道とのへ
▲琉球之儀、早速属平均之由、注進候手柄之段被感思食候、即彼国進之条弥仕置等可被申付候也、
  慶長十四年
             権現様
      七月七日
               御黒印
         薩摩少将とのへ
▲尚以、両御所様御威光を以、早速被仰付候儀、弥大慶思召候通委披露仕候処、一段之御仕合共ニ御座候、以上、
 今度琉球江御人数被差遣候処、早速被属御本意、国王并三司官以下歴々者共、至其御国被召寄之由、御注進之趣達上聞候処ニ、無比類御事共被成御感候而、御書被遣候、誠遠島之儀如何と無御心許奉存候処ニ、潔儀共拙者一人之様ニ、大慶不過之候、委曲爰許之様体、山口駿河守殿以使者可被仰達候条奉省略候、恐惶謹言、
  慶長十四年
            本多佐渡守
    七月九日
               正信判
          羽柴陸奥守様、
               貴報
  以上
▲貴札致拝見候、仍琉球江為御手遣御人数被差渡候処ニ、大島と申島早速被仰付、それよりとくと申島江御人数赴被申候処ニ、彼島之者共出向候ニ付而及一戦、則被得勝利、彼島之者共二三百人被討捕候付而、重而不及異儀彼島相済、其より琉球之国王被居候島江被取懸候処ニ、於彼地も国王雖被及行(本ノマヽ)候、切崩数百人討捕、国王之居城取巻被申候処ニ、頻降参ニ付而被任其儀、国王下城にて下々方々江逃散候もの共被召返如前々有付候而、国王并三司官、其外頭立者共召連、頓而可有帰朝之由、使者を以御注進被成候御紙面之通、懇ニ達上聞候処ニ、大御所様感被思召、一段之御機嫌共御座候而、無残処御仕合共御座候間、御心易可思召候、誠遠島と申於異国、無比類働御手柄不浅候、其許御満足奉察存候、則琉球之儀被遣旨御座候而、御内書被遣候、御外聞実儀不可過之候、弥彼地之様子御注進可被成之由、御尤ニ御座候、猶爰元相替儀無御座候、此表何ニ而も相応之御用等御座候ハヽ、不被御心置可蒙仰候、聊不可存疎意候、何も追而可得御意候、恐惶謹言、
  慶長十四年
              本多上野介
   七月十三日
                 正純判
          羽柴陸奥守様
               貴報
  以上
▲貴札致拝見候、仍琉球江為御手遣御人数被差渡候処、何も無残所早速相済、則琉球之国王并三司官、其外頭立者共被召連、頓而帰朝可有之由、陸奥守殿〓御注進被成候、何も御紙面之通、懇達上聞候処ニ、大御所様感被思召、一段之御機嫌共御座候而、琉球之儀羽柴陸奥守殿江被進候旨御座候而、則御内書被遣之、無残所御仕合御座候間、御心易可思食候、誠琉球之儀思召儘に相済、御手柄不残候、其元御満足之段奉察存候、将又爰元相替儀無御座候、何ニ而も相応之御用等御座候は、不被御心置可蒙仰候、不可存疎略候、恐惶謹言、
  慶長十四年
              本口上野介
    七月十三日
                 正純判
       島津龍伯様
           貴報
  以上
▲琉球相済申付而、御使者被成御上せ候、即江戸駿府江被参、返状請取帰国之儀候、琉球相済申、上様御感被成、即御朱印被進之由、本上州より我等方迄被申越候、目出度儀共御座候、委細は御使者可被仰上候間、書中不具候、恐惶謹言、
  慶長十四年
              山口駿河守
    七月廿七日
                   直友判
       少将様、
         参人々御中
「以上」▼貞享嶋津式部少輔書上、
●同年十二月、少将家久及ひ入道惟新より、琉球国を賜ハりし拝謝として、物を献するにより、東照宮、台徳院殿より御内書を賜ふ、
▲慶長十四年十二月、
権現様御内書、「按するに、此御書台徳院殿より賜ハりしを、権現様と記したるハ誤りなり、」
琉球早速退治旨、先回注進付而、以内書申越之処、重而来音、特青貝二十四孝之床屏風、并段子十端到来珍重之至感悦覚候、猶本多佐渡守可申候也、
  慶長十四年
    極月十五日
                御判
          薩摩少将殿
▲台徳院様御内書、
就先度琉球一杲之旨注進到来、以内書申越候訖、依之太刀一腰、馬一疋、并端(本マヽ)子拾巻到来欣思食候、委細本多佐渡守可述候也、
  慶長十四年
    極月十五日
                御判
          羽柴兵庫入道とのへ、
▲琉球国可被領知之旨申遣候処、祝着之段尤候、依為音信仏草(桑)花もり(茉莉)花、并硫黄千斤、唐屏風じちん(繻珍)五巻到来、悦思食也、
  慶長十四年
   十二月廿六日
              御黒印
          薩摩少将とのへ
権現様御内書、
為音信段子十端、象牙并南蛮鉄砲到来、悦思食也、
  慶長十四年
    十二月廿六日
                御印
          嶋津兵庫とのへ、
  以上
▲両通之貴札致拝見候、依今度琉球之儀御拝領被成候付而、御内書被遣候処、御外聞実儀忝思召之通、被成御上り御礼被仰上度思召候得共、彼国御仕置等為可被仰付、其上彼国王来春御同道候而、御上り可被成付而、年内之儀御延引被成候由、左様ニ御座候得は、御礼遅々致之由ニ而、御使者ニ而被仰上候、就其為御進物仏草花一本、茉莉花一本、唐之板屏風、并硫黄千斤御進上被成候、如御目録懇致披露候之処、遠路被入御念旨御座候而、一段御機嫌共ニ而、残所無御座御仕合ニ御座候間、御心安可思食候、則御内書被遣候就而此地弥相替儀無御座候、猶爰元相応之御用等御座候は、不被御心置可被仰付候、不可存踈意候、委細は御使者江申入候間、可被申上候、恐惶謹言、
  慶長十四年
           本多上野介
    十二月廿六日
                 正純判
        羽柴陸奥守様
             貴報、
以上、▼貞享松平大隅守書上、
▲慶長十四年十二月十五日、島津兵庫入道今度琉球国を賜る謝礼として、使者を江戸に指越し、御太刀一腰、御馬一疋、端子十巻を台徳院殿に献す、是に依て、台徳院殿より、御書を兵庫入道に賜る、又同廿六日、薩摩少将家久、今度琉球国を賜る謝礼として、使者を駿府に指越し、仏草花もり花、硫黄、「自注千斤、」唐屏風、じゆちん「自注十巻、」を大神君に献す、是に依て、大神君より御書を家久に賜る、
▼家久日記追加、
▼貴久記、

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