実隆公記

東京大学創立120周年記念東京大学展4部『知の開放』に際してCS放送番組として製作した『実隆公記』の台本です。
なお、ビデオの閲覧・借用については史料編纂所図書室のページをご覧ください。


 ■実隆公記


 『実隆公記』は室町時代後期の貴族三条西実隆の日記で、文明6(1474)20歳のときから、亡くなる1年前の天文5(1536)82歳のときまで、63年間にわたって記されたものです。この63年間のうち、わずか数日分しか残っていない年も含めれば、日記が残されている年は57年にもおよびます。しかも、これらすべてが自筆原本で、そのほとんどは子孫・三条西家によって、死後400年以上も大切に伝えられてきたものなのです。中世のこれだけ長年におよぶ日記が、原本のまま大量に残っていることは、きわめて珍しいことだといえます。この三条西家に残された原本は、残念ながら一部が太平洋戦争によって失なわれましたが、無事に残った巻子106巻・折本1帖・冊子44冊については、戦後史料編纂所が譲り受けて現在に至っており、1995年には国の重要文化財に指定されました。

 中世までの日記は、具注暦と呼ばれる暦そのものに書き付けたり、受け取った書状などを裏返して使用することが普通で、『実隆公記』の裏面にも、実隆宛ての書状や実隆自身の書状の下書きなどが数多く残されています。これは紙背文書と呼ばれます。『実隆公記』の紙背文書は、日記本文と同じく、室町時代後期の政治や社会を知るための基本史料であり、『実隆公記』はその紙背文書ともども、1931年から36年もの歳月を費やして、是沢恭三氏やついで高橋隆三氏などの手で活字化が行なわれました。その分量はA5判で19冊、合わせて7800頁余りという膨大なものになっています。

 実隆の生まれた三条西家の系図を見てみましょう。この系図は、実隆の孫実枝が書いたものだと伝えられています。藤原氏北家において、師輔の子公季のとき分れた流れは閑院流と呼ばれます。この流れは6代目で、三条・西園寺・徳大寺の三つの家に分れます。三条家は実行に始まり、太政大臣にまで昇れる家柄です。実行の曽孫公氏のときこの家から分れたのが、正親町三条家です。この家は、4代目実躬までは大納言どまりでしたが、5代目公秀の女陽禄門院が、光厳天皇とのあいだに崇光・後光厳という2人の天皇を儲けて外戚になったことで、内大臣まで昇れる家柄になりました。三条西家はこの家の分家で、公秀の孫公時のとき分れます。公時は大納言、2代目実清は中納言で官途を終わりましたが、3代目公保は本家の正親町三条家から養子に入った人で、生まれた家の家格を引き継いだため、内大臣まで昇進できる家柄となりました。この公保が実隆の父です。結局、三条西家は、当時の貴族社会において中の上程度の家柄ということができるでしょう。

 本家筋にあたる三条・正親町三条両家との関係は、実隆の時代においてもきわめて密接でした。三条西という家名自体、その邸宅が正親町三条家の西側にあったことに由来しており、明応9(1500)大火に遭って移転するまで、実隆の家の東隣は正親町三条家だったのです。また、実隆に至るこの家系には、平安末期に『愚昧記』を残した実房や、鎌倉後期に『実躬卿記』を残した実躬など、著名な日記を残した人物が少なからずいます。この2つの日記の名は『実隆公記』中にもしばしば見えており、実隆が膨大な日記を残したことも、この家の持っている日記の伝統と無関係だったとは思われません。

 実隆は、康正元年(1455)425日、父公保58歳、母甘露寺房長の女33歳のとき、次男として生まれました。この系図には見えていませんが、兄がいました。兄実連はときに14歳で、和歌や学問にもすぐれ、将来を嘱望されていました。当時の習いとして、家を嗣ぐことのできない次男の実隆は、このままであれば僧侶になったと思われます。しかし実連が17歳の若さで病死してしまったため、実隆が三条西家の家督を嗣ぐことになりました。4歳のときのことです。

 ところが兄の死から2年、父公保が63歳で亡くなってしまいました。家格・家業に応じた、家での教育が重要であった貴族社会において、6歳で父を失った実隆はきわめて不利な状況に追込まれたといえます。しかし、母のよき指導と、正親町三条家の人々や母の弟甘露寺親長の援けもあって、和歌や学問について十分な修練を行なうことができました。そのうえ才能にも恵まれ、実隆は弱冠12歳のときから禁裏における和歌会のメンバーに加えられています。

 応仁の乱が起こったのは、13歳のときです。実隆は、母や姉とともに戦乱を遁れ、はじめ泉涌寺のち鞍馬寺に疎開しました。この疎開中、実隆は元服を遂げ、姉は出家して尼門跡入江殿に仕えるようになります。そして文明4(1472)実隆16歳の冬、母が鞍馬寺の仮住まいで50年の生涯を閉じました。同居する家族のいなくなった実隆は、京都での戦闘がほとんど終息したことも手伝って、翌文明5年の夏ごろ鞍馬を出て京都にもどって本格的に禁裏に出仕するようになりました。『実隆公記』が始まるのは、この年の開けた文明6年正月1日のことです。

 実隆は若いころから修練を積み、和歌以外にも『源氏物語』を始めとする古典や漢詩文にも通じ、さらに、後土御門・後柏原両天皇の信任が厚かったこともあり、年齢を重ねるとともに、当代随一の文化人として公家・武家の双方から重んじられていきます。例えば、『実隆公記』永正5(1508)325日条には8首の和歌が書き付けられています。これは、後柏原天皇が自らの歌について意見を求めてきたため、送られてきた歌に若干の添削を施し、よい歌を選んで印を付けて送り返すとともに、日記に写しておいたものなのです。冷泉家・飛鳥井家とは異なり、和歌の家でないにもかかわらず、天皇から和歌について尋ねられたのであり、実隆に対する評価の高さが窺えます。

 学芸全般に広い関心を持っていた実隆は、天隠龍沢・月舟寿桂といった五山禅僧や、宗祇・宗長らの連歌師などとの交流を通じて、自らの学問を深めるとともに、子の公条や孫の実枝に自身の古典学を伝えました。これによって三条西家は、江戸時代に至るまで和歌を始め広く学芸を伝える家としての名声を勝ち得たのです。このような実隆の交友は、当時の京都における文化の水準を示すものですから、『実隆公記』とその紙背文書は、室町時代後期の文化について知るための基本史料でもあるのです。

 実隆の面影については、幸いなことに肖像が3つも残されています。まず、47歳のとき、土佐光信に書かせた上半身像の下絵があります。左下の隅に「辛酉十四」の文字が見えますが、これは文亀元年(1501)104日のことで、『実隆公記』この日の条につぎのように見えています。「土佐刑部少輔来る、北野縁起絵巻のことをあい談ず、また愚拙の肖像紙形これを写さしむ、十分に似ず、比興なり」たまたま別の用件で訪ねてきた光信に、肖像の紙形つまり下絵を書かせたというのです。比興とは面白くないことを意味しますから、実隆はあまり似ておらず、気に入らないと感じたことがわかります。描かれた側の感想が知られる、きわめて珍しい例です。また、下絵という性格から、白紙を二つ折にして片面に書いただけのものなので、書物の間に挟まれたまま1955年ごろまで気付かれなかったという、変わった来歴を持っています。

 つぎの肖像は、出家直後62歳の姿を描いたもので、右手に桧扇、左手に数珠を持ち、端座した姿です。上部に書かれた漢詩および和歌は、永正13(1516)廬山寺で出家したときのことを自ら記した『出家仮名記』に見えているもので、この像は実隆の死後に書かれたもののようですが、出家直後の姿を描こうとしていたことが明らかです。なお、この像は、子の公条画像や孫の実枝画像とともに、三条西家の菩提寺である京都二尊院に伝わったもので、実隆の肖像として最もよく知られているものです。

 最後の肖像は、三条西家に伝えられている、80歳の姿を描いたものです。上部に書かれた和歌の詞書に「天文三年家にて八十の賀し侍しに」とあるのは、実隆80歳の誕生日を祝って公条が催した歌会のことです。注目されるのはそこに描かれた姿で、左手にうちわを持って、左ひじを脇息にもたれつつ右膝を立て、やや上の方を見上げています。これは歌会の席に掛けられることの多かった柿本人麿像の構図に類似しています。というより、人麿像を下敷にして描かれたものなのです。実隆と同時代でも、連歌師の宗祇や牡丹花肖柏の肖像に同様の構図をとるものがあります。見る人は人麿像を連想し、描かれた人物が和歌に堪能であったことをすぐさま諒解したに違いありません。

 ところで、日記を書き続けるにあたって最も難しいのは、書き始めてペースをつかむまででしょう。実隆もこの点では苦労したようです。『実隆公記』はおおむね冊子本と巻子本からなっていますが、第1冊の形態は冊子です。冊子は、不要な書状などを裏返して2つ折りにしたものを重ねて、折目の反対の側を綴じて作るわけですが、これは書きはじめる前に用意しておきます。正月1日から始まった記事は214日でおわり、その丁の裏には前後と何の関係もない書状が写されています。次の丁は、試し書きに使用されたようで、文字が重ね書きされ、なかに翌文明7年正月の文書を写したものが見えています。つまり、214日で書くのをやめてしまい、残りが余白になっていたので、翌年試し書きに使ったのでしょう。実隆ですら最初は書き始めて1ヵ月半で挫折したわけです。

 また記すことに慣れてからでも、中だるみの時期もあります。文明12(1480)の日記は8月・9月の2ヵ月分しか伝わっていません。このほかの月については、書かれなかったのか、あるいは書かれたけれども失われてしまったのか、いずれとも断言はできませんが、この冊の終わり方からすれば、書かれなかった月もあったように思います。81日から99日までは毎日それなりの分量の記述がありますが、910日からは日付と、あっても天候だけの記述が11日間も続きます。毎日5行分程度の空白があり、あとから書き込むつもりだったのかも知れません。そして、21日と23日には若干の記事があるものの、24日に「晴れ」と書くと、この冊の記述は終わってしまいます。

 したがって、この冊には余白が多く出来ました。そして、この余白に稚拙な筆づかいの絵が書かれているのです。のちに誰かが書き込んだということは考えにくいので、日記が書かれて間もないころ実隆本人が書いたものに違いありません。なかに裸婦像がありますが、実隆はこの前々年勧修寺教秀の女を娶っているので、妻がモデルだった可能性が高いように思われます。この年117日には長女保子が生まれているので、妊婦像かも知れません。このような落書きが書き込まれているのは、膨大な『実隆公記』においてもここだけで、書き始めてから6年が経ち、実隆は日記を書くことに飽きていたのでしょうか。

 『実隆公記』の中でも書き始めのころを見てきましたが、面倒に思うことがありながらも日記を書き続けたのにはそれなりの理由があります。貴族の日記は、「家記」という当時の言葉が示すように、個人の日記であるとともに、家の日記という意味が強かったのです。つまり単なる備忘録ではなく、儀式での作法や政務に必要な文書などを記しておき、子孫が官人としてのつとめを果たすための手引とするためのものでもあったのです。したがって、日記でメインとなる記事は、そのような記事であり、子孫もそれを珍重しました。この『延徳二年元日節会記』は、公条が『実隆公記』延徳2(1490)正月1日条から、元日節会という朝廷の儀式関係の記事だけを書き抜いたものです。応仁の乱以来久しく行われなかったこの行事が22年ぶりに復興されたこの年の記述は特に詳しいので、わざわざ写したのだと思われます。紙背文書からその書写年代は実隆が出家した永正年間のことと知られます。以後もこの日記が大事に利用・保存されたことは、この日記が現在まで残されていることから明らかでしょう。

 実隆の活動は幅広く、その書写にかかる書籍や、その詠草・書状など、今日にまで伝わるものは数多く、各所に残されています。また、史料編纂所にも『実隆公記』以外で実隆の手になるものがいくつか所蔵されています。いずれもそれぞれに重要な史料ですが、日記と見合せることによって、より重要な意味を有するものも少なくありません。『実隆公記』は、肖像を含めて実隆関係の史料がきわめて多いゆえに、かえってその価値が高いということができるでしょう。


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