2016313日 公開講座「醍醐寺と泉涌寺」(主催:東京大学史料編纂所一般共同研究「醍醐寺文書聖教における泉涌寺関係史料の基礎的研究」プロジェクト、場所:総本山醍醐寺 研修棟

 

中世・近世の醍醐寺と泉涌寺

                      東京大学史料編纂所 高橋 慎一朗

 

1.醍醐寺と泉涌寺

     ◎現在の宗派・・真言宗醍醐派総本山と真言宗泉涌寺派総本山。どちらも京都南部に存在する真言宗の総本山。

     ◎中世(鎌倉〜戦国時代)・近世(江戸時代)の泉涌寺・・律宗を中心に天台(浄土)・真言・禅を合わせ学ぶ四宗兼学。

明治に四宗兼学を廃止し、真言宗を選択。

     ◎泉涌寺開山俊芿(しゅんじょう・11661227)の真言修行・・鎌倉時代に泉涌寺を開く。

若き日に肥後(熊本県)で、高野山系の真言を学ぶ。泉涌寺には「真言院」が  置かれた。

鎌倉末期には「灌頂堂」が存在。ただし、醍醐寺との直接の関係はなし。

     ◎以上より、中世・近世の醍醐寺と泉涌寺には、親しい交流はないと見られていた。

     ◎醍醐寺の文書・聖教(しょうぎょう)の中に、泉涌寺関連の記述が数多くみつかる。

     ◎醍醐寺と泉涌寺をつなぐ4人の僧・・憲静(鎌倉時代)・秀源(鎌倉時代)・長典(戦    国時代)・如周(江戸時代)。

 

2.憲静(けんじょう)

       ◎泉涌寺6世長老、東寺大勧進。願行(がんぎょう)上人。

       ◎文永9年(1272)のころ高野山にて頼賢(意教上人)から醍醐の法流・三宝院流を伝授される。頼賢は三宝院の成賢の弟子。

       ◎関東へ下向・・関東に三宝院流意教方が広まる。

       ◎醍醐寺報恩院の憲淳・・師の覚雅が憲静の庵に寄宿中に病気となったため、代役として憲静が憲淳に三宝院流を伝授。

(『大日本古文書 醍醐寺文書之二』354号)。

       ◎憲静が醍醐寺で学んだという明確な痕跡はない。

 

3.秀源

       ◎「正安四年(1302)七月十八日、於泉涌寺積学寮書写畢。求法比丘秀源」(醍醐寺史料14810号「華厳唯心義」)。

       ◎「正和二年(1313)二月十三日、於泉涌寺書写畢。秀源。交合了。元亨三年(1323)六月八日、於理趣坊書写畢。交合了。静演」(44617号「秘抄口決」)。

       ◎「正和五年(1316)十月九日、書写了。求法金剛資秀源〈生五十一〉」(4467号「石山文泉房律師抄」)→文永3年(1266)生まれ。

       ◎元徳二年(1330)の上醍醐清瀧宮遷座の「奉行」を務める(『醍醐寺新要録 山上清瀧宮篇』)。

       ◎延元元年(建武31336)秀源から静舜へ伝法灌頂(10347号)。秀源71歳。

       ◎静演・静舜はともに上醍醐理趣坊(龍光院)の院主(58244号「山上山下住侶院務次第」)。秀源も理趣坊の関係者か。

 

4.如周(にょしゅう)

       ◎泉涌寺80世長老。正専と号する。雲龍院中興。15941647

       ◎寛永十三年(1636)、醍醐無量寿院の尭円から伝法灌頂を受ける(81110号)。

       ◎上醍醐慈心院の理政法師から即身成仏義を学ぶ(『泉涌寺史 本文篇』)。

 

5.菩提寺と泉涌寺

       ◎菩提寺・・醍醐寺の境内に隣接する末寺。南北朝時代以降、三宝院門跡の墓所。葬儀・埋葬を担当。西大寺系の律院。

       ◎戦国時代ごろから、泉涌寺の律僧が関与。泉涌寺が近所であるから(『義演准后日記』  慶長十一年十一月二十四日条)。

       ◎江戸時代の菩提寺・・醍醐寺の末寺でありながら、泉涌寺の末寺帳にも記載される。