中世鎌倉の橋

                                                              高橋 慎一朗

 はじめに

 

 近年、中世における交通の研究が進展するにしたがって、陸上交通と水上交通の結節点としての「橋」に注目した研究も急速に進展している(藤原一九九七、岡二〇〇一、藤原二〇〇五a、藤原二〇〇五bなど)。

 都市空間と橋との関係から見てみると、一般に日本の中世においては、都市の中央部を大河川が流れている例は京都などを除けば多くはなく、むしろ河川が都市と都市外部との境界線となり、橋が都市の出入り口に位置することが多かった。いわば、橋は都市の内と外を連絡する機能を持つことになる。こうした境界の橋としては、越後府中(直江津)の「おうげの橋」が代表的なものとしてあげられよう(岩崎一九七八、藤原二〇〇五b)。

 しかし、都市内部にも小規模な河川や溝が存在し、橋が架けられていた例は多い。本稿では、中世、とりわけ鎌倉時代の鎌倉を例として、都市内部の橋の実態と機能について述べてみたい。

 

 一 小規模な橋

 

 鎌倉は、武士の政権である鎌倉幕府が置かれた政治都市であり、鎌倉時代の日本の代表的な都市の一つであった。南は海に面し、北・西・東の三方を山で囲まれ、谷から流れ出る小規模な河川がいくつも海へ注ぎこんでいた。

 鎌倉には、幕府に仕える多くの武士が居住していたが、彼らの屋敷の周囲には、防御のための「溝」が設けられることが多かった。『吾妻鏡』(以下『鏡』と略す)の安貞三年(一二二九)正月十五日条によれば、将軍御所の西門の前に橋が架かっていたことが知られるが、これも御所を囲む溝にかかっていたものであろう。

 鎌倉のメインストリートは、幅30メートルの若宮大路であったが、発掘調査の結果、両側には大路に平行する幅3メートルの側溝が流れ、この側溝は護岸のための木組み構造を持っていたことがわかった(馬淵一九八九など)。さらに、若宮大路沿い西側の「北条時房・顕時邸跡」と称される地点や、東側の「北条泰時・時頼邸」と称される地点からは、屋敷地から側溝を渡って若宮大路へ出る幅1.5メートル前後の橋の跡も発掘されている(馬淵一九八五、宗臺一九九七など)。

 その他、発掘調査の結果、鎌倉には無数の溝が存在したことが判明しており、武士の屋敷に限らず、町屋や土地の区画を示すために設けられたり、一部は排水溝として機能して、小規模な河川に合流していたと考えられる(齋木一九八九など)。そうした溝や、小規模な河川には、当然のことながら、その幅に応じた小規模な橋が架かっていたと想定されるのである。

 当時の鎌倉の様子が描かれた『一遍聖絵』では、町屋の前の小規模な河川、あるいは溝に、大変小規模な橋が架かっている。絵画によく見られるデフォルメかもしれないが、同じ『一遍聖絵』に見られる京都の四条橋と比較すれば、鎌倉の橋の小ささ・簡略さは一目瞭然である。

 この絵のような橋は、板を1枚か2枚縦に架けただけの構造で、「板橋」と呼ばれるものである。技術的には、特別な工具を必要とせず、一人での架橋が可能である(阿蘇品一九九五)。また、『蒙古襲来絵詞』には、有力な武士であった安達泰盛の屋敷の門前に架かる橋が描かれている。この橋は、板橋よりは複雑な構造を持つ「桁橋」で、横に板を何枚か並べているが、中世の橋の中では略式の小さな橋であることは変わりはない。

 しかし、中世の街道筋において主役を担っていたのは、数枚の板によって構成される「粗末な橋」だったのであり(藤原二〇〇五b)、鎌倉の橋も多くは小規模な橋であったと見なされよう。

 

 二 繁華街の形成

 

 都市内を流れる溝や小河川は、交通路を遮断してしまうことから、必然的に橋の架かる地点が交通の要所となる。橋の周辺には人の流れが集中し、繁華街も形成されることになる。

 『鏡』仁治二年(一二四一)十一月二十九日条は、次のような事件を伝えている。若宮大路にかかる「下の下馬橋」付近で、有力武士の三浦一族と小山一族の喧嘩騒ぎが起こった。ことの起こりは、三浦一族が橋の西側の「好色家」(遊女屋か)で酒宴を開いていたところ、橋の東側の店で同じく酒宴を催していた小山一族の一人が戯れに放った矢が、誤って三浦の人々の座敷に飛び込んでしまったことによるという。下の下馬橋付近が都市内でも代表的な遊楽の場となっていたことがうかがわれる。

 文永二年(一二六五)には、幕府より、「鎌倉中」の商業地を「大町」、「小町」以下の九ヶ所に限定して許可し、その他の場所での営業を禁止するという法令が出された。営業を許可された九ヶ所は、当時既に代表的な商業地となっていた場所と思われるが、その中の一つに「須地賀江橋」(すじかえばし=筋違橋)があげられている(『鏡』文永二年三月五日条)。

 橋での商業活動といえば、ヨーロッパではフィレンツェのポンテ・ヴェッキオや、パリのポン・ノートル=ダム、ロンドンのオールド・ロンドン・ブリッジ、エアフルト(ドイツ)のクレーマー・ブリュッケ、などのいわゆる「居住橋」の例、すなわち橋の上に店舗が構えられる事例がよく知られている(マレー一九九九など)。十二世紀の中国の都市を描いた張擇端筆の『清明上河図』を見ても、虹橋と呼ばれる木組みのアーチ型の橋の上において、常設店舗ではないが商業活動が行われていたことがわかる(伊原二〇〇三)。

 中世の鎌倉では、橋の規模から考えて、橋上での常設店舗による商業活動はほとんど不可能と思われ、橋上では臨時の営業が行われ、橋の周辺に本格的な商業地が形成されたと思われる。

 若宮大路にかかる「中の下馬橋」や「下の下馬橋」付近では、しばしば火災が発生しており(『鏡』建長五年十二月八日条など)、橋の周辺に人家が密集していたことの傍証となるであろう。

 

 三 軍事上のポイント

 

 鎌倉においては、橋が都市内の交通の要所であったことから、鎌倉で紛争が発生した際には、橋が軍事戦略上の重要なポイントとなった。

 建暦三年(一二一三)、幕府の主導権をめぐって和田氏と北条氏が衝突したいわゆる「和田合戦」の際には、「政所前の橋」が重要な戦闘の場所となったほか、北条氏側は軍勢を派遣して「中の下馬橋」を固めさせている(『鏡』建暦三年年五月二日条)。

 ほかにも、寛元四年(一二四六)、北条氏の一族である名越光時の反乱が発覚したときには、当時の幕府を主導していた北条時頼は、家臣に命じて「中の下馬橋」を厳重に警備させている(『鏡』寛元四年五月二十四日条)。さらに、その翌年の宝治元年(一二四七)、北条氏とその最大の対抗勢力三浦氏が激突した戦争(宝治合戦)では、「筋替橋の北辺」で戦闘が開始されている(『鏡』宝治元年六月五日条。

 都市鎌倉内で戦闘が開始されると、敵の動きを封じるために真っ先に橋の防備が固められ、橋は敵に渡すことができない重要な拠点となったのである。

 

 四 特殊な空間

 

 中世日本の大規模な橋は一般的に、僧侶が施工主となって建設され、世俗の関係から切り離された「聖なる場」として、一種の公的性格を帯びた宗教的空間であった(藤原二〇〇五b)。中世ヨーロッパにおいても、橋は橋上礼拝堂が設けられたり、橋の守護聖人が存在するなど宗教的性格を帯びており、裁判集会の場や刑場、犯罪者のアジール(避難所)となったりする異質な空間でもあった(マシュケ一九七七、阿部一九七八)。

 そして、鎌倉に存在した小規模な橋にも、似たような性格を見いだすことができるのである。例えば、『鏡』の正治二年(一二〇〇)五月十二日条には、次のような事件が記されている。当時の将軍源頼家が仏教の一宗派である「念仏」を禁止したため、家臣が僧侶十四人を捕らえて「政所の橋」まで連行し、そこで袈裟を剥ぎ取って焼いたという。見物の者が群れ集まり、みな口々に非難したという。

 橋で僧侶の袈裟が焼かれたのは、そこが人の集まる公開の場所であるということと、さらには橋が本来刑場という性格を持っていたから、とも考えられる。

 また、『鏡』建暦三年(一二一三)三月二日条によれば、謀反人の泉親平が「違い橋」(筋違橋のことであろう)に隠れていたところを発見され、鎌倉中が騒動になったことがあった。謀反人が橋に隠れていたのは、人目に触れにくいという物理的条件の他に、中世の橋がしばしばそうであったように、鎌倉の橋もアジール(避難所)という性格を持っていたからではないだろうか。

 鎌倉の小規模な橋も、特殊な空間として、都市内において公的な機能を果たしていたのである。

 

 五 橋の維持・管理

 

 将軍の御所や武士の屋敷の門前の橋は、当然屋敷の主人によって管理・維持がはかられたと思われる。都市内に散在する多くの橋は誰が維持・管理したのであろうか。

 弘長元年(一二六一)二月に鎌倉幕府から出された法令(『中世法制資料集 第一巻』追加法三九六条)によると、「鎌倉中の橋の修理」については、保奉行人(鎌倉内の地域=保ごとに任命された担当の幕府役人)の責任によって怠りなく実行することが命令されている。

 実際には、一人で架橋可能な板橋のような場合は、保奉行人が付近の住人を使って修理をさせ、もう少し規模の大きな橋では、僧侶などに委託して管理・維持が図られたのであろう。とりわけ、幕府と密接な関係をもった西大寺系の律宗教団は、当時全国的に架橋事業を請け負った事実があり、鎌倉内の橋についても関与していたのではないかと考えられる。

 寛元二年(一二四四)に幕府法廷で行われたある裁判では、虚偽の申し立てにより相手を訴えた武士が、罰金として橋の修理代を払わされている(『鏡』寛元二年六月五日条)。

 また、建長二年(一二五〇)、一般庶民が幕府法廷に訴訟を起こす際には、虚偽の申し立てと判明した場合は橋の管理費を徴収する旨を原告にあらかじめ宣誓させる、ということが決定されている(『鏡』建長二年九月十八日条)。

 こうして幕府によって徴収された橋の管理費は、当然幕府の所在地である鎌倉の橋の維持・管理にも宛てられたものと考えられる。都市鎌倉の領主である幕府は、都市内の橋の管理に積極的に関与していたのである。

 

 おわりに

 

 中世都市鎌倉には、小規模ながら多くの河川と溝が存在し、そこに架かる橋も、小規模ではあるが、交通上の要所となっていた。交通上の要所としての橋は、とりもなおさず軍事上のポイントともなっていたのである。また、交通の要所としての性格ゆえに、橋は人々をその周囲に集めるような場としても機能し、繁華街やある種の公的空間の形成要因となっていたのである。そして、都市領主としての鎌倉幕府からも重要視されており、橋の維持・管理に積極的に関わっていたことがわかったのである。

 

【参考文献】

阿蘇品保夫 一九九五年「中世における橋の諸相と架橋」『熊本県立美術館研究紀要』七

阿部謹也 一九七八年『中世を旅する人びと―ヨーロッパ庶民生活点描―』平凡社

伊原弘編 二〇〇三年『「清明上河図」をよむ』勉誠出版

岩崎武夫 一九七八年『続さんせう太夫考』平凡社

岡陽一郎 二〇〇一年「都市のみちと橋」中世みちの研究会第4回研究集会口頭報告

齋木秀雄 一九八九年「溝の流れが語る地形と町割」石井進・大三輪龍彦編『よみがえる中世3 武士の都 鎌倉』平凡社

宗臺秀明 一九九七年『北条時房・顕時邸跡 雪ノ下一丁目二七二番地点』北条時房・顕時邸跡発掘調査団

藤原良章 一九九七年「絵巻の中の橋」『帝京大学山梨文化財研究所研究報告』第八集

藤原良章編 二〇〇五年a『中世のみちと橋』高志書院

藤原良章 二〇〇五年b『中世のみちと都市』山川出版社

マシュケ=エーリッヒ(Erich MASCHKE)一九七七年 Die Brucke im Mittelalter, Historische Zeitschrift Bd. 224(原文は独文。和訳未刊)

馬淵和雄 一九八五年『北条泰時・時頼邸跡 雪ノ下一丁目三七一番―一地点発掘調査報告書』鎌倉市教育委員会

馬淵和雄 一九八九年「若宮大路―都市の基軸を掘る―」石井進・大三輪龍彦編『よみがえる中世3 武士の都 鎌倉』平凡社

マレー=ピーター・スティーブンス=マリアン(日本語版監修 伊藤孝) 一九九九年『リビングブリッジ 居住橋―ひと住まい、集う都市の橋』デルファイ研究所

 

【付記】本稿の一部については、二〇〇四年七月にイタリアのコルトナ市において開催された国際シンポジウム「流域都市−水辺の都市」(主催:とらっど2・ナポリ東洋大学)において報告を行った。また、マシュケ論文の和訳に関しては千葉敏之氏(東京外国語大学)の全面的な協力を得た。記して謝意を表したい。