「毛利空桑記念館文書」中の伝源頼朝書状について                              
一九九七年三月、史料編纂所の山口隼正教授、山家浩樹助教授、それに私の三名は、大分市歴史
資料館を尋ね、文書史料の調査に従事した。その折、同館の長田弘通氏は、私たちに一通の文書を
示された。それが「毛利空桑記念館文書」のうちの、伝源頼朝書状であった。(以下、「空桑」頼
朝書状という言い方をすることがある)

頼朝と聞いて目を輝かせた私たちは、文書を撮影して所に帰り、早速検討を開始した。頼朝文書の
難しさは今更言うまでもあるまいが、それでも読解の努力を重ねるにつれ、漸くいくつかのことが明
らかになってきた。そこでこの場を借りて一応の報告を行い、大方の批判を俟つこととしたい。

1、文書の真偽について

まずは「空桑」頼朝書状の写真、それに釈文を見ていただこう。


     
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 │                                      文書は、下の余白部分が切られているほかは、作成時の形態をよ
 │ 《文書写真掲載》                   く伝えている。言葉遣い、文章、紙質等々、中世初期のものとし
 │                                      て 相応しからざるは無いように見える。しかし、無論それだけ 
 │ 被仰下候、丹波国                   では客観的な証左にはなり得ない。      
 │ □山庄住人為重・永                      
 │ 遠等、可令召進事、謹以              そこで、「保阪潤治氏旧蔵文書」の中の、(年欠)四月七日源
 │ 承候了、但京都にさも               頼朝書状に着目してみたい。この文書は、頼朝文書研究
 │ □ぬへき家人も不候候、如此         の第一人者黒川高明氏によって、数少ない正文であること 
 │ 少事者、只仰付検非違               が認められているものである。     
 │ 使、可被召候也、猶可令召              
 │ 進候者、時定に可令仰付              いま「空桑」頼朝書状と保阪氏文書の頼朝書状を見比べてみる
 │ 御候、彼男不当第一不覚             と、両者の筆跡は実によく似ている。図1を見てほしい。   
 │ 烏許者に候、然而行家              ここでは「国」、「庄」、「重」、「承」、を挙げたが、   
 │ なとを尋出て候許に候、             適当な例は他にも数多く存在する。                        
 │ 召取件輩候はむ間も                       
 │ 定致僻事候歟、且以書                とくに注目すべき   
 │ 状所令下知候也、以此旨可令洩          
 │ 達給候、頼朝恐々謹言、                 
 │   七月十七日    頼朝(花押)          
 │                                            
 │                                            

 └────────────────┘

は「候はむ」という語の書き方で、これだけ似ていれば
、両書状の筆者は同一の人物と推断してよいだろう。

保阪氏文書の頼朝書状は、内容からして東大寺に伝えられたものであろう。一方、「空桑」頼朝
書状は、豊後国の大友氏に伝えられた(後述)と考えられる。伝来を全く異にし、同一人によって
書かれた二通の文書が存在する。ということは、両者ともに正文である可能性が極めて高いのでは
ないか。

 史料編纂所の林譲助教授のご教示によると、「島津家文書」中の(年欠)七月十日源頼朝御教書
奉者の「平」自身によって書かれたものであり、この「平」は頼朝右筆として著名な平盛時であると
いう。そしてこの文書の字体が、やはり「空桑」頼朝書状と一致する。本書状は(むろん保阪氏文書
の書状も)頼朝の命を受けて、平盛時が作成した文書であると考えられる。

2、文書の伝来について

文書の伝来に触れたところで、長田氏に教えていただいたことを核として、ここで本書状の伝来につ
いてまとめておこう。

 大名としての大友氏の歴史は、周知のごとく宗麟の子の吉統の代で終了する。大友の一流は松野氏
を名乗り、肥後細川藩に仕えて幕末を迎えた。明治二十年、史料編纂所は松野直友氏が所有する文書
を調査し、影写本「大友文書」(架蔵番号2371−1)を作成したが、まさにそのうちの一通が
「空桑」頼朝書状であった。大友氏はかつて頼朝の子孫を称していたから、あるいはその頃に八方手
を尽くし、頼朝の書状を入手したのではないか。そしてそれが松野氏に伝えられたのではないか。

 やがて大友氏を祀る神社の建立が大分市で討議され、松野氏は熊本から大分へ、文書を持って移住し
た。ところが結局神社は造られず、松野氏の文書も四散した。あるものは西寒多神社に、あるものは常
楽寺に所蔵された。このとき「空桑」頼朝書状を含む三通は、大分在住の儒学者、毛利空桑の有に帰す
ことになった。空桑の子孫はやがて文書を大分市に寄贈、現在の文書所有者は大分市教育委員会である。

3、文書の内容について

 それではいよいよ、文書を読んでみよう。「『為重・永遠を捕縛せよ』とのことですが、いま京都
には適当な家人がおりません。頼りない者ではありますが、時定に申し付けましょう。」頼朝はそう
言い送っているらしい。

為重、永遠については調べがつかなかった。当時北陸から京にかけて分布していた斎藤氏の一流に疋
田氏があり、その疋田氏に永遠なる人物がいる。彼の血縁には為□を諱とする者が多くいるので、ある
いはこれに該当するかもしれない。けれども為重と永遠の関係すら明らかではないのだから、系図だけ
では証拠になるまい。

時定はいうまでもなく北条時定である。文治の守護地頭設置問題で在京していた北条時政が鎌倉に帰
ったあと、京都で活躍した人物である。彼は時政の甥(従弟とも)で本来の北条氏総領といわれ、北条
氏が元来いかなる武士だったかを研究する素材として、近年しばしば言及されている

。 文治二年(1186)五月十二日、時定は源行家・光家父子の居所をつきとめ、和泉国近木郷に行家
一類を襲撃して誅殺した。大変な功績である。頼朝書状の「行家などを尋出て候許に候」の文言はこの
ことを指している。「ばかり」という語からすると、頼朝書状は文治二年に書かれたと推測し得よう。

 続いて同年六月、大和国宇多郡に向かった時定は源義経の婿であった源有綱の一党と一戦、有綱以下
を討ち取り、残党を捕縛した。七月十八日、これらの功労の賞として左兵衛尉に任官10。同時に検非違使
にも任じられたと思われる11。頼朝書状が書かれた次の日のことである。

「不当第一、不覚烏許の者」書状中で、頼朝は時定を酷評しているようにみえる。任官と酷評といえ
ば、文治元年四月、許可なく官職に就いた御家人たちへの、散々な罵倒12が想起される。義経の破滅も、
一存での任官が事の発端であった。時定も頼朝の怒りをかったのだろうか?

ところが、どうもそうではないらしい。時定の任官は、七月初めに頼朝が強力に推挙した結果であっ
13。書状中の評価も、すぐに「然而」と語調が一転しているのを見逃してはなるまい。「行家などを尋
出て候許に候」、誇らしげに時定を紹介する導入にすぎぬと解すべきである。

「こいつは駄目な奴で、きっと失敗もするでしょうが、私からもよく言いきかせておきますから」頼
朝の時定への言及は、私にはむしろ暖かく感じられる。そしてこうした文書読解が正鵠を射ているとす
れば、時定と時政の関係は如何、さらには頼朝と時政の関係は如何、と考察を進めて行くための貴重な
材料になるであろう。

4、文書の形式

最後に「空桑」頼朝書状の文書形式について述べよう。この書状には一見して分かるように、宛所が
記されていない。ただし頼朝の書状に限っていえば、宛所を欠く例はしばしば見ることができる。そこ
で『吾妻鏡』文治二年八月五日条所載の、同日付の書状(以下「吾妻鏡」書状と呼ぶ)と比べてみよう。

「空桑」書状と「吾妻鏡」書状とは、ほぼ同じ時期に作成されている。右筆は前者は平盛時と推定さ
れ、後者は「平五盛時染筆」とあるから、これも確実に盛時である。宛所はともに記されない。ただし
後者は「就帥中納言奉書、被進御請文」とあり、吉田経房が奉じた後白河上皇院宣への返事であったこ
とが分かる。つまり「吾妻鏡」書状の形式的な宛て先は申次の経房、実質的な宛て先は後白河上皇なの
である。文書の書き止めに目を向けてみると、前者は「以此旨可令洩達給候」、後者は「以此旨便宜時
可令洩達給候」である。

作成時期、右筆、宛所が書かれぬこと、書き止め。両書状は酷似している。ならば、記されなかった
「空桑」書状の宛所も、「吾妻鏡」書状に等しいのではないか。形式的な宛て先は吉田経房であり、実
質的な宛て先は後白河上皇なのではないか。

屋上屋を架するが如き推論を重ねたが、「空桑」頼朝書状について今まで述べてきたことをまとめる
と次のようになる。「後白河上皇から丹波国□山庄の住人の逮捕を依頼された頼朝は、当時顕著な活
躍を見せていた北条時定を責任者として推挙した。書状は平盛時が書き、吉田経房に付された。やが
て書状は大友氏が所有するようになり、現代に伝えられた。」

「毛利空桑記念館文書」中の伝源頼朝書状は、ほぼ間違いなく正文であると考えられる。そして北条
時定の動向をはじめとして、まことに多くのことを教えてくれる。かくも貴重な文書を守って来られた
大分の関係者の皆様のご努力に深甚な感謝の意を表し、史料紹介の筆を置くこととする。

1、最新の成果として、林譲氏「源頼朝の花押について」(東京大学史料編纂所研究紀要6号、19
96年)が挙げられる。ここで林氏は花押の形状を軸に、画期的な頼朝文書の分析方法を示された。
なお、頼朝文書の研究史についても、同論文が的確な整理を行っておられる。
2、黒川高明氏『源頼朝文書の研究』(1988年、吉川弘文館。以下黒川氏御論著と呼ぶ)に第96
号文書として収録されている。
3、同右。
4、黒川氏御論著の第70号文書。
5、この点についての詳細と考証は、現在林氏が御論稿を準備しておられる。
6、黒川氏御論著に第380号文書として収録されている。
7、代表的な論稿として、杉橋隆夫氏「北条時政の出身−北条時定・源頼朝との確執−」(立命館文学
500号、1987年)を挙げる。
8、『吾妻鏡』文治二年五月二十五日条。
9、『吾妻鏡』文治二年六月二十八日条。
10、『吾妻鏡』建久四年二月二十五日条に載る、時定の卒伝による。11、『吾妻鏡」文治二年
九月二十五日条に「検非違使平六兵衛尉代官」という語句が見える。
12、『吾妻鏡』文治元年四月十五日条。
13、『吾妻鏡』文治二年七月一日条。