平宗経の一流について

                  本 郷 和 人

 鎌倉時代中期、平時継という公卿がいた。平時子・時忠らの父時
信の四代の孫である。武家の清盛一門とは系統は異なるものの、や
はり鎌倉時代にあっては平氏は栄達できず、彼の祖父も父も納言に
は昇っていない。時継は蔵人・弁官を経て参議に進み、実直に十五
年その職を務めた。文永六年(一二六九)、「参議労十五年」を以て
ようやく中納言に昇り、同年のうちに辞官した。本来なら彼の廟堂
生活はこれで終了する筈であったが、思わぬ好運が彼を待っていた。
彼は後深草上皇に仕えていたが、弟亀山上皇の一統に皇位を奪われ
ていたこの不遇の上皇が、弘安十年(一二八七)に治天の君に返り咲
いたのである。時継は上皇の信任を得てにわかに政務に関与するよ
ぅになり、院執権・伝奏・評定衆となり、大納言にも任じられた。

 時継の権勢は次子経親に伝えられた。経親も後深草・伏見上皇に
重く用いられ、官は大納言に進んだ。持明院統を代表し、鎌倉幕府
への特使にもなっている。もちろん奉行として、伝奏として、院
宣・綸旨の発給に頻繁に関わっている。

 時継・経親父子は持明院統の第一の側近ともいうぺき存在であっ
た。ところが、彼らの子孫の活動はあまり伝えられていない。建武
政権を経て、皇統は持明院統に独占されるにもかかわらず。そこで
私は拙著『中世朝廷訴訟の研究』において「彼らの家が上皇に近侍
するにふさわしい家格であったとはいい難く、こののち子孫は衰微
していく」と書いてしまった。

 一九九二年、私は茨城県新治郡・鹿島郡ほかに出張し、古文書を
調査・撮影し、あわせて花押を採集した。帰京して護国院の文書を
整理しでいるとき、私は「おや?」と思った。『茨城県史料 中世
編1』の護国院文書十一「後光厳院綸旨案」にあたる文書の奉者
権中納言宗雅」の「権中納言」の文字が、ちょうど同時に整理し
ていた山城長福寺文書の貞和四年七月十一日、光厳上皇院宣の奉者
権中納言(花押)」の「権中納言」の文字に酷似していたのである。

 貞和四年(一三四八)七月に権中納言であった人物は、
  平宗経・三条実継・源宗明・二条良冬・正親町忠季
 ・一条内嗣・中御門宣明・吉田国俊・甘露寺藤長。
このうちで長福寺文書の権中納言は誰か。摂家以上の出身の者は院
宣の奉者にふさわしくないから、久良親王の子の宗明、関白兼基の
子の良冬、関白経通の子の内嗣を除く。花押の形状が判明していて、
長福寺文書のものとは明らかに違う宣明・藤長も除く。実継・忠季
は左萄門督・右衛門督を兼ねているので、兼官を以て署判し「権中
納言」とは書かないだろう。とすれば、残るは平宗経と吉田国俊で
あるが、そこで護国院文書に注目してみよう。『茨城県史料』は
宗雅」としているが、これは「宗経」とも読めるのではないか。

 もしこの推測が当たっているならば、護国院文書の「後光厳院綸
旨案」は案文ではなく正文である。また宗経は貞和五年(一三四九)
に五十六歳で没しているから、「光厳上皇院宣」の方がよいだろう。

 もう一つ。護国院文書の「宗経」と全く同様にくずした署名(花
押は据えずに、権中納言+署名)が、山城六波羅密寺文書に何通か
見える。丹後国大内庄に関する訴訟につき、甘露寺藤長とともに奉
行を務めて院宣を奉じている。貞和四年の付年号があるものもあり、
史料編纂所の影写本には「定経」と朱が付してあるが、この権中納
言も平宗経とみて間違いないだろう。

 権中納言平宗経は、こうしてみると、それこそ死の間際まで実務
公卿として活発に活動しているようである。そしてこの宗経こそは、
先の平経親の子息にあたるのだ。なにが「子孫は衰微していく」で
あろうか。

 『尊卑分脈』を開くと、宗経の子は時経一人、そして彼は正五位
左少弁、と記してある。また時経以降の記載はない。これを以て
「子孫は…⊥と書いたわけだが、時経で家が絶えている理由をも
う一度考えてみなくてはなるまい。宗経も光厳上皇のもとで活躍し
ていたことが判明し、この家が「上皇に近侍するにふさわしい家格
であったとはいい難」いなどとは決していえないのだから。

 平時経をどうやって調ぺよう。そのときにふと思い出したことが
あった。やはり長福寺文書の中に、たしか時経が奉じた綸旨なり院
があったはずである。そこで見直してみると、はたして正平八年
六月二十九日、後村上天皇綸旨の奉者が時経のようである・・後村
上天皇?・・そうか、時経は南朝に仕えたのだ。それで事跡が伝わ
らないのだ。

 南朝文書と時経、といぅ視点で史料を見直すと、
  ○年末詳・松尾寺文書・右少弁、
  ○正平九年十一月十日・金剛寺文書・右中弁、
  ○正平九年十一月十八日・金剛寺文書・右中弁、
  ○年末詳・金剛寺文書・右中弁、
  ○正平十年三月二十七日・毛利文書・右中弁、
  ○正平十年十月一日・金剛寺文書・左中弁、
  ○正平十二年九月十七日・久米尚寺文書・左中弁、
  ○正平十三年・三月二十三日・東妙寺文書・左中弁
時経は以上のように後村上天皇の給旨を奉じている。すくなくとも
正平九年(一三五四)から十三年(一三五八)まで、彼が南朝方の奉行
として活動していることが確かめられる。

 しかし依然として旋問は残る。持明院統の信任厚い家に生まれた
彼が、どうして南朝に仕えるようになったのか。ヒントは彼が南朝
に奔った時期にあるように思ぅ。『弁官補任』によると、「観応三年、
左少弁 正五位平時経(参南方為蔵人)」とあり、彼が南朝に参じた
のは観応三年(一三五二)であるという。右の後村上天皇綸旨の発給
状況からみてもこの記述は正確であろうと思われるが、この年は有
名な「正平一統」のあった年である。将軍足利尊氏は弟直義を討つ
ために南朝に和を請い、北朝の崇光天皇、皇太子直仁親王は廃され
た。南軍は一時的に京都を画復し、貴族たちは保身に汲々とした。
時経はまさにこのとき、限前の状況にとらわれて、時局の読みを誤
9たのではないか。

 『系図纂要』によると、時経には経泰といぅ兄弟がいたようであ
る。そしてあまり確度の高い史料ではないのだが、史料編纂所に架
蔵されている応永三十二年(一四二五)の奥書を持つ『南朝公卿補
』によると、経泰は広橋を称して早くから南朝に仕え、大納言に
昇った人物であるという。彼の子の経氏・泰尹伊達行朝の娘を母
とし、前者は南朝の公卿となり、後者は脇屋義助の孫の義陸ととも
に奥州を転戦して応永九年(一四〇二)に戦死したといぅ。推測にす
ぎないが、正平一統時、時経は経泰らのとりなしによって必要以上
に南朝に接近し、結果として京都を去らざるを得なくなってしまっ
たのではないか。また時経の子や孫は、あるいは経氏のように、ま
た泰尹のように生きたのではないか。持明院統の近臣たる平氏が消
破した経緯は、およそこのようなものだと思う。

 護国院文書中の一通の古文書から、平宗経の一流の足跡を追って
みた。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍したこの実務の家
は、吉野の山中に姿を消していった。南朝に仕え、歴史に残らなか
った家はきっと他にもあることだろう。「史料編纂所員として今後
このような人々の事跡の発掘に努めたいと思っております」、今年
の十月に再び茨城県の常陸太田市に史料採訪に赴いた私は、西山荘
の黄門様人形にかように申し上げたのだった。