B:ああ、宋弘だろ?
A:へ?いや糟糠だよ。
B:いや、だから宋弘の話だろって。後漢初めの宋弘。苦労をともにした奥さんは離婚しな
いってことだよな。漢語を振り回すんなら、出典くらい調べとけよ。
A:いやあ、面目ない。でもさ、これって結構いまでも使える話じゃないか。
B:そうだなあ、ミュージシャンとか、スポーツ選手とか、からだに絵が書いてある人たち
とか。名前が売れて収入が増えると、ハイソな奥さんに取り替えるっていうのは、言語
道断だと思うけど、よく聞くな。
A:それで、おれ、思いついたんだけどさ、どうして源頼朝はハイソな奥さんに取り替えな
かったんだろう?
B:えっ?どういうこと?北条政子をかい?
A:そうだよ。我々は後の北条氏の鎌倉幕府を知っているから、北条政子っていやあ大した
もんだと思ってるけどさあ。「女人入眼の日本国」なんてのもあるしさ。だけど、彼女
は伊豆国の一土豪の娘なんだぜ。流人頼朝の嫁なら分かるけど、将軍頼朝の御台所に相
応しい女性じゃないだろう?
B:そうかあ。なるほどなあ。そんなこと考えたこともなかったなあ。
A:仮に離縁するとかじゃなくてもさ、もっと別の正妻を迎えるとかさ。
B:う−ん、でも二人の間には子供だっていたわけだしなあ。
A:頼家のことかい?そりゃあ現代的な感覚さ。だって、頼朝の父さんの義朝を見てみろよ。
義朝は三浦義明の娘を娶って義平を生ませている。でも上皇の近臣でもあった熱田大宮
司家のお嬢さんを正妻とし、頼朝が生まれたわけだよな。源氏の跡継ぎは平治の乱の時
点で無官の「悪源太」だった義平ではなく、「従五位下、右兵衛佐」だった頼朝だ。
B:そう言えばそうかあ。三浦氏と北条氏じゃあ、源平内乱時では三浦の方がでかそうだよ
なあ。それでも義朝は貴族の娘をもらってるんだよなあ。なるほど、どうして頼朝は政
子のほかに妻をもたなかったのか、考える価値はありそうだねえ。あれ、でも待てよ、
最近では北条氏は伊豆国の小土豪ではなかった、という説もあるんだろう?
A:うん。北条時政の後妻の牧の方が、平清盛の義母の池禅尼の実の姪だ、ということが分
かったんだ。池禅尼・牧の方の実家は下級ながらも上皇の側近くに仕える貴族だ。
B:だとすれば、そんな「いいとこのお嬢さん」を妻に迎えられる北条氏は、かなりの勢力を
有していたと考えるのが自然だよな。
A:そうだね。土地をもっていたか、商業ルートを握っていたか、水運に関与していたか、
その辺は色々いう人がいるが、そういうことになるね。それで、二人の婚姻が行われた
のは平治の乱以前であり、池禅尼の嘆願で助命された頼朝は禅尼の姪婿、北条時政の監
視下に置かれた、と話は続くんだ。
B:そりゃあ、おもしろいね。
A:うん。話としては良くできている。ただね、時政と牧の方の間には1189年に生まれ
た政範という子がいる。平治の乱以前の婚姻とすると、どうしたって牧の方は40代後
半だ。こりゃあ無理だよ。人生50年の時代だぜ。そんな不自然な想定よりも、頼朝が
東国の覇者となった後、覇者の舅だからこそ牧の方が嫁に来た。このほうがしっくりく
るだろう?
B:かつては平忠盛に後室を送り込み、武士と結びつくのに積極的だった牧の方の実家は、
ここでも勝ち馬に乗ったわけだな。そういうふうに想定すれば、内乱前の北条氏が小土
豪でも、なんら問題はないわけだ。
A:昔から言われてることだけど、内乱時の時政は単に「四郎時政」だもんなあ。権勢を誇
る武士なら、何か官位・官職をもっているよな。「上総介」ほどじゃないにしてもさ。
B:じゃあ、話を元に戻すとしよう。たしかに頼朝は「糟糠の妻」を堂より下していないな。
どうしてだ?そうだ、身寄りのない頼朝にとって、北条氏はすでにかけがえのない「身
内」になっていたんじゃないか?
A:うん。それはかなり良い線だろうな。でも北条氏が絶対の身内か、というと、そんなこと
もない。たとえば比企氏だ。頼朝の乳母である比企尼の長女は頼朝の第一の側近、安達盛
長に嫁ぐ。彼らの娘が源範頼の室だ。二女は河越重頼の妻で、その娘は源義経の正室。三
女は源氏の名門、平賀義信の妻。すごいだろ。
B:ああ、そういえばたしか、その二女と三女は源頼家の乳母になるんだよな。で、頼家の妻
は比企能員の娘の若狭局か。なるほどね。比企氏だって北条氏に負けてないな。
A:そうなんだ。北条氏=源氏将軍家外戚、という図式は、この時点ではそんなに確固たるも
のではなかったんだと思うな。
B:じゃあ、時政の能力じゃないか。有名な文治の守護・地頭の設置の時、時政は頼朝の名代
として京都に赴いているんだろう?それに後年の政治的駆け引きからすると、時政の政治
力はかなりのものだと思われる。政治的に時政を高く評価したからこそ、頼朝は北条氏に
外戚の座を与え続けたんじゃないかな?
A:うーん、どうかなあ。京都における時政の活動については、いまだ評価が定まっていないん
だ。首尾良く守護・地頭の設置を朝廷に認めさせたから、まあうまくやったんだ、と言われ
てきたんだけど、最近では朝廷側の巻き返しを高く評価し、時政の政治手腕に疑問符を付す
研究者も多い。それから、幕府政治における時政だけど、そんなに重要な地位を与えられて
たわけじゃないんだ。大江広元ら吏僚こそが、将軍頼朝の補弼の任にあたっていたんだと考
えられている。いわゆる「将軍独裁」だよね。
B:それじゃあ、話はいっぺんに下世話になるけど、政子の猛妻ぶり、っていうのは考慮に値し
ないか?頼朝が亀の前とかいう女性に手を出したら、彼女の家を壊してしまったんだろう?
頼朝は個人的に、政子に頭が上がらなかったんじゃないか?
A:『吾妻鏡』が記す有名なエピソードだよねえ。そうだなあ、頼朝の子は、みんな政子の産ん
だ子だ、ってことになってるからなあ。ただ、『尊卑分脈』が頼朝の子として、貞暁・能寛
という人を記しているのは注意すべきかもしれないなあ。島津忠久や大友能直と並んで載っ
ているから、どうせガセネタだろうって、今まで言及されてこなかったけれど、この人、
『仁和寺諸院家記』にちゃんと記載がある。それによると初め能寛、のち貞暁と名を改めた
僧侶で、仁和寺勝宝院の院主だ。彼が頼朝の子であることを否定する材料は無いなあ。
B:へえ、頼朝、やることはやってるんだな。浮気は御法度ってわけじゃないんだ。まあ、あの
時代なら、その方が自然だよな。ところで、その貞暁って人、源氏正統の血を引いてるわけ
だよね。源氏将軍の廃絶後はどうなったの?
A:いや、それが経緯はよく分からないんだけど、1231年に高野山で自害している。
B:北条氏にやられたかな?
A:たぶんね。
B:おい、ちょっと待ってくれよ、そういう人物であれば、他にもいる可能性があるんじゃない
のか?頼朝の子供で、僧籍に入っていたが為に政治とは関わりを持たなかったけれど、やが
て人知れず北条氏に消されてしまったような、さ。
A:うん。そうなんだ。おれもそれを考えてたんだ。さっきも言ったように、北条時政は別に政
治的に重んじられていたわけじゃない。血縁を考えても、頼朝の弟の阿野全成なんかはとり
こんでいるけど、比企氏という強力なライバルがいる。そうなるとさ、頼朝が将軍になって
からの北条氏って、実は頼朝の正妻が政子であるってことにしか、存在意義を認められない
んじゃないかな。だからこそ、政子は、また北条時政は、頼朝が他の女性に関心を示すのに
細心の注意を払わざるをえなかった。そのことが『吾妻鏡』の記述にも影響していて、頼朝
周辺の女性や子供に関する記事は全部消されているんじゃないかな。もっともこれは、推測
にすぎないんだけれど。
B:なるほどなあ・・・。あ、それなら、君のそもそもの疑問が一層問題になると思うんだけど。
頼朝はなぜ、北条政子を堂より下さなかったんだ?
A:いやあ、分からない。結局「分からない」が答えなんだよな。予は君たち在地領主と共にあ
るぞ、という頼朝のメッセージだったかもしれないし、もしかしたら頼朝は本当に貴族が嫌
いだったのかもしれない。
B:だったら、娘を入内させようとはしないんじゃない?
A:うーん、そうだねえ。だけどそれは、政治・政略の話だからねえ。どうかなあ・・・。ま、
ともかく彼の個人的資質に帰するのが一番手っ取り早いような気がしているんだな、今は。
だからねえ、そんなこと言ったら笑うしかないんだけどさ、案外、頼朝は北条政子をとても
愛していたからです、というのが答えかな、とも思っているんだ。
B:そりゃあ、すごい結論だな。じゃあ何かい、北条氏の政権っていうのは、頼朝の政子への愛
が淵源になった政権だった、というわけかい。安手のドラマみたいだなあ。あははははは。
A:こんなこと言ってたら、いつまでもえらくなれないねえ。えへへへへへ。