石井進『鎌倉幕府』 解説
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 本書の位置を探る正統的な解説は、文庫版『鎌倉幕府』(中央公論新社、2004年)において五味文彦によって記されている。『鎌倉幕府』の学問的意義を明らかにする試みで、これ以上のものは望むべくもない。そこで筆者は少し違う角度から、石井進の歴史学と『鎌倉幕府』との連関を考えてみようと思う。

 石井進は歴史学者として、究極的には何を明らかにしようとしていたのか。それは人間のありようである、と答えたときに、異論はさほど聞こえてはこないと思う。中世の人々はなにを耕作し、なにを狩り、なにを食べたか。どのような道具を使い、どのような農法を用い、どのように交易したか。 いかにして神を祀り、いかにして家族を営み、いかにして死んでいったのか。人々の生の総体を復元しながら、石井の視線は人間存在の外縁からやがて内部へと、人間とはいったいなんだろうかという普遍的な疑問へと沈潜していく。

 石井の根源的な問いかけがそうしたものであったとすると、では本書『鎌倉幕府』は石井史学の中でどのような位置づけを与えられるのであろうか。陳腐な手法ではあるが、まずは次の有名な詩を見て欲しい。
 日出而作      太陽がのぼれば耕作し
 日入而息      太陽ががしずめば休む
 耕田而食      田を耕してご飯を食べて
 鑿井而飲      井戸を掘って水を飲む
 帝力于我何有哉 帝の権力?私には何の関係もない
あまりに有名な「鼓腹撃壌」の歌(『十八史略一所収)である。

 在地には在地の規範があり、そこには中央政府に容易に干渉されない「明るい生活」があった。そう説いたのは清水三男であった。石井は石母田正の『中世的世界の形成』(伊藤書店、1946年)について講義したときに、石母田の名著が唯一名前をあげて批判している清水の学説にもふれ、高く評価したのだった。

 もちろん「鼓腹撃壌」とは正反対の歌も存在する。
 普天之下     あまねく空の下
 莫非王土     王の土地でないものはなく
 率土之浜     地平の果てまでも
 莫非王臣     王の臣でない人間はない
律令制度の理念そのもののような歌(『十八史略』一所収)である。

 中央政府が在地を強固に掌握しているイメージ、筆者がこれに関してよく記憶しているのは、黒田俊雄が提唱した「権門体制」論の評価について質問したときのことである。石井は言葉少なに「黒田さんは、何でもかんでも体制、って言っちゃうんだもん」と述べた。「権門体制」論について石井は、同論は中世において(近代的な)国家の存立を前提とした理論であって、この前提自体に問題があるから成立しない、と批判していた。何でもかんでも、とは「権門体制」論とそこから生まれてくる「顕密体制」論を指している。

 言わずもがなのことではあるが、石井の言葉を補足するなら、こういうことである。日本の中世に本当に国家はあったのだろうか。それこそが熟慮しなければならぬ命題である。もし国家のようなものがあったとしても、たとえば朝廷が中心なのか、幕府なのか。あるいは人々をどの程度まで把握し、他の政治機構とどう影響しあっていたのか。そうした点を吟味していかねばならない。それゆえに「国家」を早急に立論の前提とすることは避けねばならない。

 清水と黒田の発想への評価を参考にするなら、中世の在地の人々の生活を、統治者が十全に掌握していたとは想定できない。石井がそう考えていたことは確実である。幕府や朝廷、将軍や天皇の動静は、その時代に生きる人々のそれと直線的に、あるいは短絡的に、結びつけることはできないのだ。

 それでは翻って、本書『鎌倉幕府』を見てみよう。ここには主に政治権力の消長、権力者の有為転変が詳述されている。源頼朝や北条義時の軌跡が丹念に跡づけられ、一つ一つの政治事件が鮮やかに解析される。けれども、多くの人に読まれることを期待した本書と、本書の平易な叙述の背後にある研究書『日本中世国家史の研究』(岩波書店、1970年)が発表された後、石井はついに、こうした国家史・政治史を書こうとはしなかった。

 筆者はここで、本書のオリジナル版には収録されていたものの、大隅和雄が叙述した箇所であるために今回は削除した、法然についての一文を想起せずにいられない。「(黒谷での念仏は)いろいろな行法をも極楽往生のための行法として認める立場をとり、阿弥陀如来の姿や極楽浄土の様子を心の中に描いてみるという方法を重んじていた。法然はどうしてもそれに満足できず、師の叡空に反対をとなえて叱責されたこともあった。極楽の木や花が美しかろうと阿弥陀如来が慈悲深い相好であろうと、そんなことは法然にはもうどうでもよかった。法然の救いを求める気持には、そんな余裕はなかったのである。」

 まさか石井が国家史はもうどうでもいい、と思ったとは筆者も考えていない。けれども、言うべきことはもうすでに言った。そういう思いがあったのではないか、と考えずにはいられない。国家史と人々の生との連なりが直接の因果関係で捕捉できぬなら、違う方法を試みねばならない。より人間の有りように接近できる手段は何だろうか。石井は試行錯誤しながら、それこそを懸命に探し続けたのである。『鎌倉時代』を書き切って、言葉を換えると、実証史学に手厚く礼儀を尽くして十分に足場を固めた後に、石井の新たな学問が始まる。

 人々の声なき声を求めて、文献資料から非文献資料へ。京都・鎌倉などの中央から、人々が生活する辺境へ。民俗学・考古学・社会学などを駆使したそうした画期的な試みについては、他の巻の解説がふれるであろうから、詳述しない。ただ筆者は、次々に新しい地平を切り開いていった先駆者としての石井が抱いていた孤独について、どうしても記しておかねばならないと考える。

 筆者が石井に指導を仰ぐようになったのは1981年、同年に『中世の風景』(中央公論社)、二年後に『中世の罪と罰』(東京大学出版会)が出版されており、まさに石井の精力的な活動が開始された時期に該当していた。それでは教室はさぞや活気に満ちていたのだろうと思いきや、それは全く逆で寒々としたものであった。石井が自らの関心のもとに意欲的な提案をすると、学生はそれが理解できずに一歩も二歩も退いてしまう。双方向性を有した意見交換などは夢のまた夢であった。停滞した雰囲気の中で緩慢なやりとりがなされ、時間だけが過ぎていくのが常であった。たとえば81年度初めのゼミにおいて、石井は「雲上公伝説」(「中世の山・川の民と境界」参照。石井進著作集第十巻、岩波書店)を分析しようと熱心に訴えた。学生の側はといえば、なぜそんな胡散臭いもの、お伽噺のようなものと真面目に向き合わねばならぬのか、下を向いて沈黙を守るばかりであった。しばしあって石井は言った。みんな興味を持てないようだから、昨年のように『政基公旅引付』を読みましょう。そのときの落胆した表情を筆者は忘れることができずにいる。

 学生たちがいわゆる学際的研究の重要性に目覚めない苛立ちは、石井の中に鬱積していったようである。「中世史と考古学」(石井進著作集第十巻、岩波書店)においてはこのようなことが語られている。「ただ、そういう、いわば学際的な研究が進んでまいりましたが、一方では、これは全体からみれば一部の反応かもしれませんが、こうした学際的研究の場に出ていく、あるいはその一翼を担う以前に、まず文献史学あるいは古文書学の研究自体が果たして独自の科学的研究として今まで既にあったのか。そういうところへ出ていく前に、文献は文献史料、古文書なら古文書をもっとしっかりやるほうが大事じゃないか。実は若い人の中に意外にそういう方がおられるように思うのです。」舌打ちしたいような思いで念頭に置いた顔の中には、間違いなく筆者がいたであろう。

 大学院に進学した筆者は、史料編纂所の教官であるA先生やB先生のゼミに出席するようになり、直ちに文献史学の奥深さに魅了された。古文書とは古記録とはこうして読むものだったのかと驚嘆するとともに、世間的な価値観から超然としていた先生たちの生き様にも、これこそ研究者の姿なのだと深く納得させられたのであった。加えて五味文彦が文学部の教官としてに東大に帰ってきた。国文学の成果を縦横に駆使する五味の学問は、文献史学の別の可能性を鮮烈に提示した。

 こうした中で、筆者は文献史学の素晴らしさに言及するとともに、石井に強く反発したのである。未熟な私たちが「あれもこれも」と無闇に勉強の手を広げていては、結局はどれもが不完全なものとなり、何ら得るところはない。私たちはいまだ、私たちにとっての『鎌倉幕府』をほんの数頁も書くことのできない状態にあるのだ。先生の方法は私たち初学者には有効とは思えない、と。石井は「Aさんがそんなにいいのかなあ」とつぶやいた。

 いつのことなのか、正確には覚えていない。けれども、ふと気が付くと、筆者と石井の間には深い溝ができていた。後年になってそのことを、どれほど悔やんだことだろう。私たちは石井を一人置き去りにして、孤独な戦いを強いてしまったのだ。ある時にそう自省の念を漏らしたところ、石井と多くの仕事をしてきた尊敬すべき編集者は、容を改め厳しい表情で頭を振った。「そうじゃない。そうじゃないよ本郷くん。君たちが先生を置き去りにしたんじゃない。先生が君たちを見限ったんだ。」

 晩年の石井は学際的な研究の成果として、連雀商人の姿をみごとに復元した。古文書学からは「筋が悪い」と認定されてしまう文書と中世考古学と歴史学の連携、まさに石井が常日頃から強調される方法論によって、紛う方なき日本中世の一部分が、息を吹き返したのであった。

 それでも、と私は疑問に思わざるを得ない。世の人々はこの成果をどう受け止めるのだろうか。果たして研究者が期待するように歓声を以て迎えてくれるのだろうか。残念ながら、おそらくは「否」であろう。人々は声を揃えるに相違ない。「だからどうしたの」と。「『むかし』のことが明らかになったんだ。なるほど。でも、それがどうしたの。『いま』の私たちの生活には関係ないよね。」と。

 歴史学を取り巻く状況に目を凝らしてみよう。日本史は高校の必須科目からはずされた。日本史は暗記モノ、との図式は、ますます定着する方向にある。中でも前近代史の凋落は凄まじい。良心的な文化人ですら「古代史など1500年も『むかし』のことを学ばされても、切実な感じがしない。日本史は現在の経済・外交と深く関わる太平洋戦争の頃からさかのぼる形で教えるべきだ」と堂々と発言している。大学では日本史の講座が削られ、教員を置くなら近現代史、もう一人置く余裕があれば、その人に前近代全体をカバーしてもらうというのが常態である。若い研究者の就職の機会は激減し、この意味でも前近代史は学生に人気のない学問分野となり果てている。

 なぜ日本の歴史、とくに中世史がこんなにも人気がなくなったのか。それは誤解を恐れずに端的にいえば、「いま」に関係のない、あるいは「いま」に寄与しない、机上の学問だと大方に認識されているからだろう。それは違う、と研究者は色をなして反論するが、一刀両断に蒙を啓くようには人々の心に響かない。減点法で採点すれば、無難にまとめて合格点をとれるかな、と言うほどのものである。「いま」と中世史とのダイナミックな相関関係を積極的に提示できなければ、中世史学は活力を失い、滅びを待つだけである。

 石井の度重なる注意の喚起とも相俟って、学際的な研究手法を取り入れる必要性は、多くの研究者の共通認識となっている。それはそれで間違いではないし、本当に中世史と相性がよい学問は何なのか、考古学なのか、民俗学なのか、と問いかけることも重要であろう。だが本当に、問題はそれで解決するのだろうか。おそらくそうではないだろう。

 文献史学、古文書学、考古学、民俗学、歴史地理学、それに美術史、建築史、城郭史、有職故実などなど。これらは、民俗学は少し性質が違うかもしれないが、等しく長い伝統を有する、いわば「育ちの良い」学問群である。これをまとめ上げて学際的学問環境を作り上げ、相互に補完しあって過去を総体として復元していく。それは、誰でもが考えつく

理想的な方法に違いない。もっとも、考えるのと実際に行うのとは全く別の行為であって、過不足なく実行に移せたのは、誰しも認めるように、あらゆる学問に精通した石井ただ一人だったのだけれど。

 しかしながら、学問を寄せ集めてみても、量が多くなるだけのことである。1たす1を2ではなく3にも4にもするのだ、と作文するのは容易だが、このときに質が変化するわけではないのを厳しく見据えておくべきである。同じ環境で育ってきた学問を積み重ね、過去を重層的に解明することができた。そのことで満足するのは研究者の側だけであって、世の人々は「『むかし』が前より明らかになったわけですね」というだけ、知識をインプットするだけであろう。現実の生活には、インパクトを与えることはできない。「いま」と中世史という問題関心には、依然として答えることができない。これでは中世史の凋落傾向に歯止めがかからない。

 では本当の学際研究とはどうあるべきなのか。それはベクトルの異なる学問の融合にこそ求められるのではないか。「むかし」をあつかう中世史ならば、さしずめ「いま」と向き合うべきではないか。たとえば文理融合を目指す諸科学においては学問自体がスクラップアンドビルドを繰り返し、新しい学問の方向性を模索している。「いま」この現実を、学問というカテゴリーですくい上げるにはどうしたらよいのか、そのためのツールをたえず工夫している。そうした新しい学問との連携にこそ、古き良き中世史の質的変換と活路は見いだせるのではないか。

 本郷くん、君が言ってるのは「いま」に従属し、「いま」にひきずられているだけのことだよ。足元を見つめずに、妙なものにかぶれてはいけません。石井先生はそう言われるかもしれない。それでもいい。かつての自分の愚かさをお詫びするとともに、いまこそ先生と話がしたいと無性に思うのである。