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現場の人

現場の人   本郷和人(日本中世史)
 ちゃんと愛されて育ったか、愛情に飢えていたかで、その子の人格形成は全く別ものになるという。DVを振るう人のうちには、子どものころに虐待を受けた経験を持つ人が少なくないという。ともに、よく分かる話である。何でも吸収する幼少期・青年期の環境は、たいへんに重要なのだ。

 この観点を重視しながら「天下統一の三傑」を二つに分けると、信長・家康が仲間、それに秀吉、ということになろう。どんなに小規模でも、どんなに反逆者がいようとも、どんなに苛酷な運命が待ちかまえていようとも、「若君さま、若君さま」と育てられた信長・家康は私たち庶民とは異なるメンタリティを育んでいたのではなかろうか。同時に、どうみても貧しく生まれ育った(最新の研究では、もちろんそうしたものが現代にあることは断じて許されないが、差別を受ける階層の出自であった可能性も指摘されている)秀吉は、彼ら二人とは、精神の構造がまるで違っていたのではないだろうか。

 そんなことを前々から考えていたものだから、2000年に惜しくも逝去された安能務氏(快著『封神演義』講談社文庫で有名)の文章に触れたときには、目から鱗が落ちる思いであった。舞台は中国の呉・越国。時は紀元前500年頃の春秋時代。呉王夫差に敗北を喫し屈辱にまみれた越王勾践は、いつの日か会稽の恥を雪がんと、苦い胆を嘗めて(嘗胆)己を奮い立たせ復讐の機会を窺った。このとき勾践は美女を献上し、夫差が女色に溺れるように仕向けたという。彼女の名は言わずと知れた西施。中国4千年を代表する傾国の美女である。安能氏の筆は、ここで冴えわたる。

 『・・三十名ほどの美女が宮殿に集められる。その中から越王勾践は二人を選び出した。一人は西施で、一人は鄭旦である。朝臣たちは鄭旦が選ばれたのを見て、文句なしに納得した。しかし西施には首を傾げる。なるほど美しいが表情が暗くて陰鬱な影があるからだ。しかし越王勾践に限らずすべて後宮を持つ世の国王が、その道にかけては眼識が高いと承知している。・・さっそく西施と鄭旦は後宮で儀礼と作法と歌舞、それに楽器演奏などの特訓を受けて上品な「貴婦人」に仕立て上げられる。さらに巷の「妓楼」へ送り込まれて、秘技や嬌態、嬌声、善がり泣き(え?何のこと?ぼくこの辺よく分からないや。by本郷)などを習得し「千金の妓女」に磨き上げられた。それで卒業である。

 「西施を夫差(呉王)に、鄭旦を子?(呉の重臣)に送り届けよ」と越王勾践が大夫種(重臣の文種)に言い付けた。「送る相手方の名を言い違えられたのでは?」と大夫種は確認する。「そういう疑問を抱くのはシロウトだ。美女はただ眺めて楽しむための動く置物ではない。極楽浄土へ案内してくれる、役に立つ天使だ。西施は鄭旦よりも、おそらく倍以上の器量がある」と越王勾践は言った。その言葉にはカリスマ的な説得力がある。なにしろ経験がものをいう奥の深い世界のことだ。言われて大夫種は、いや朝臣たちも納得する(安能務『春秋戦国史(中)講談社文庫)。』そして勾践の目論見はまんまと図にあたり、夫差は西施の色香に溺れた。安能氏がいうところの「英雄は英傑を知り、行家(くろうと)は貨色(ほんもの)を知る」である。彼は政務をおろそかにし、諫言する伍子胥君を誅した。暗君と成り果て、勾践によって滅ぼされるに至るのである。西施は我が国にも「西施乳(味のうまいことを西施の乳にたとえていうフグの異称)」や「西施の顰みに倣う」などの言葉を残し、11世紀の和漢朗詠集には「西施が顔色(がんそく)は今いずくんか在る」と唱われた。

 ふうん。そうなのか。それで得心がいった。信長や家康の数多くの夫人のキャラが冴えない(ように感じられた)ことにである。家康は未亡人好きとして知られる。三男で二代将軍を継いだ秀忠と四男忠吉の母の西郷局、それに六男忠輝と七男の母の茶阿局は子連れの未亡人である。奥向きの取り締まりにあたった阿茶局も未亡人である。そういえば秀忠の妻は美人で名高いお市の方の娘、淀君の妹とはいえ、六歳年上ですでに三人も子を産んでいた。

 40代の筆者が青年の頃には、今となっては隔世の感があるが、「ヨメにするなら、そりゃあ処女だろう」「キミは処女にこだわる?それとも、こだわらない?」みたいなえげつない特集が週刊プレイボーイ誌や平凡パンチ誌上で堂々と盛んに展開されていた。そんな風潮にどっぷり浸かっていた筆者は首を傾げたものだ。家康は「上さま」だろう?若いときだって「お殿さま」だろう?若い女性でもお姫様でも、何でもありだろう?それがまた、どうして?
 ところが調べてみると、信長だって負けてはいない。信忠と信雄の母、正室の待遇を受けた生駒氏はこれまた未亡人。七男と八男を生んだ興雲院も子連れの未亡人。さらに特筆すべきは、信長・家康の夫人たちがみなさしたる名門の出身ではないことである。彼女たちは、直ちにそれと分かるような派手な装飾で自身を飾り立ててはいなかった。たまたま信長や家康によって見初められ、真価を開花させた。人の上に立つように生まれついた信長や家康はまさに「行家(くろうと)」であって、「貨色(ほんもの)」の「役に立つ天使」をきっちりと見極めることができたのである。

 これに比べて秀吉はどうか。『伊達世臣家譜』には、秀吉の側室は16人、とある。そのうち名前が明記されているのは次の通り。
  ○淀君(浅井長政とお市の方の娘。お市の方はいうまでもなく信長の妹)
  ○三の丸殿(織田信長の娘)
  ○姫路殿(織田信包の娘。信包は信長の弟で、お市の方は同母の妹という。そうすると姫路殿は淀君の従姉妹ということになる)
  ○松の丸殿(京極高吉の娘)
  ○三条殿(蒲生氏郷の姉妹)
  ○加賀殿(前田利家の娘)
 また、秀吉は甥の秀次に「私のように女性にのめり込んではいけない」と訓戒するほどの女性好きであったことが知られる。「日本史」の執筆者で宣教師のルイス・フロイスによると「主だった大名の娘を養女として召し上げ、彼女らが12歳になると自分の情婦にしていた。美人という評判が秀吉の耳に達すると、必ず連行された」とあり、「極度に淫蕩で、獣欲に耽溺していた」とまで書かれている。

 身分の高い女性。それに美人なら手当たり次第。先の安能氏の言葉を借りると、これは「シロウト」だな、どう見ても。誰しもそう思わずにはいられまい。それに織田氏関連の女性。秀吉は信長の一族を憧憬を以て仰ぎ見ていたんだろうなあ。かつての自分には、とても手が届かなかった「お姫さま」。彼女たちを側に侍らすことによって、「おお、おれはついにここまで来た」。そうした思いを新たにしていたんだろうなあ。容易にそう想像できる。

 秀吉の肖像がいくつか残っている。もっとも有名で教科書などに掲載されているのは秀吉の正室、北政所(高台院)が晩年の居所とした高台寺に残されたものである。狩野光信によって描かれたと伝えられる逸翁美術館所蔵の画稿は構図がそれとよく似ており、高台寺図のもとになったものかもしれない。それには「これが良く似申す由、聞いて候」と書き入れがあって、それが誰の感想かは定かではないのだが、秀吉の風貌をよく伝えていると考えられている。

 しげしげと眺めてみる。年齢を考慮しても、イケメンの面影はない。フロイスが言うほど「醜悪な容貌」だとは思わないけれども、まずは貧相な部類に入るだろう。ただ、そこには妙な力強さがあるようにも感じられる。そうか、これは「現場の人」の顔なのだ。強い陽の光や風雪に晒されてすっかり頑丈になった、大方の若い女性には人気がないものの、なんともアジのある風の。不釣り合いなほど大きな束帯を着せて堂々たる体躯を演出しているが、その衣服を引き剥がして野良着を着せれば、なんとも典型的な農民の姿が立ち現れる。

 この意味でも、秀吉は信長・家康とは明らかに異なる。乳母日傘で育った二人はおそらくは色白で、皮膚は血色が良く、なめらかであったろう。ああ、この人は生まれ育ちが我々とは違うのだな。土に生きる武士たちに、一目でそう思わせる「主人の容」を有していたのだろう。一方で叩き上げの秀吉は「現場の風体」をしていた。どんなに華麗な衣裳で飾っても、上品な装いをしても、なんだこいつは所詮は我々と同じではないか。間近に接する者は、自然と頭を垂れることがなかった。

 秀吉は大量の黄金で自らを演出した、とする説がある。黄金の大坂城、黄金の茶室、絢爛たる聚楽第、贅を尽くした花見の宴。他を圧する「もの」の質と量とを自己の存在意義とし、パフォーマンスを政権存立の基礎とした、という。自身が輝きを放たぬ秀吉としては、さもありなん。まことに傾聴すべき説である。かつて武家政権を開始した源頼朝は文官の華麗な袖を切り落とし、贅沢を戒めた。武士とは所領を一所懸命の地とし、土に生きる質朴な人々の呼称であった。ところが、13世紀第2四半期(1226〜1250)に中国大陸から銭が大量に流入し、日本各地に貨幣経済が浸透すると、「もの」への執着もまた目を覚ました。武士たちは次第に唐物を初めとする「もの」を愛好するようになり、流通が世情の動向に大きな位置を占めるようになった。秀吉のまばゆいほどに豪華な政権こそはまさにその達成点であると評価できるが、その中核に存するのは秀吉の貧相な身体であった。彼のコンプレックスこそが、金色の煌めきを維持し続けていたのである。

 これまで述べ来たったようなことどもを勘案して、私は秀吉の人物像を膨らませていく。勿論それは私の感想に過ぎず、そのままでは学術論文の態をなし得ない。だが、そうした理解を発想の基礎とし、そこに実証作業を加えることにより、いわば空想は新しい学問的な見地へと昇華していくのである。

 「センゴク」で、ゴンベエが木下籐吉郎に会ったばかりのころ、彼は「オレあ頭!べしゃりとおべっかで、出世すんだよっ!!」と言い放つ。うん、そうだろうなあ。前近代史においては生まれと育ちがこそがその人の身体を作り上げ、姿を一目見ればその人がどのような人生を送っているかが分かるようになっていた。門地もなく、槍働きも期待できそうもない、見るからに軽輩で弱そうな秀吉がのし上がっていくには、想像もつかぬような苦労があったに違いない。

 私は秀吉の天性の明るさを信じない。彼の陽気さ、親しみやすさは一生懸命な「べしゃりとおべっか」の賜物であった。本来いるべきでない場で生き残り、立身する。そのための必死で精一杯の演出。それが秀吉の陽気さであった。だから彼は地位を得て、絶えず明るく振る舞う必要がなくなったとき、人が変わったように、驚くべき残酷さを示すようになる。秀吉が兵糧攻めを得意としたことはよく知られている。「三木の干し殺し、鳥取の飢え殺し」のように城兵を容赦なく飢餓に追い込んだ。城兵をなで切り、皆殺しにした例も少なくない。なで切りといえば、太閤検地では、検地に応じない農民の皆殺しも命じている。

 神子田正治という武将がいた。軍学に優れていたという。桶狭間の戦いや美濃の斎藤氏攻めで功績を上げ、秀吉に請われて寄騎となった。秀吉の中国征伐に従い、三木城攻めなどで活躍、播磨で5000石。本能寺の変後も秀吉に従って、山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いに参加、一軍を率いて勝利に貢献した。1万2000石を領し、播磨広瀬城主となった。ただし小牧・長久手の戦いでは失敗。責任を問われて所領を没収され、高野山に追放された。その後に諸国を放浪して豊後にあり、天正15年(1587年)に九州征伐の陣にあった秀吉に帰参を懇願したが、許されなかった上に自害を命じられた。
 尾藤知宣という武将がいた。早くから秀吉に仕え、その長浜城主時代には神子田正治らと並び称された。彼も播磨国内に5000石を領する。天正13年(1585)、秀吉の弟秀長に従って四国征伐に参加して武功を挙げ、翌年、讃岐丸亀5万石に封ぜられた。けれども同15年(1587)、九州征伐に従軍した際に味方の救援を怠り、秀吉の怒りを買って所領を没収された。このとき讃岐半国を領していた小笠原貞慶は、知宣を庇護したが為に改易の憂き目にあったという。天正18年(1590)7月、小田原を平定した秀吉の前に剃髪して現れ、許しを請うたが認められず、そればかりか下総古河の路上において処刑された。

 純白の死装束で芝居気たっぷりに諸将の前に現れる伊達政宗。天晴れな心がけ、見所のある小僧だ、とからりと罪を許す秀吉。そうした物語にばかり触れていると、信長にも通じる秀吉の狂気を見逃してしまう。一流の文化人であった茶人山上宗二・千利休に死を命じ、甥の秀次を自刃に追い込み、罪のないその妻子39名を処刑したある種の「暗さ」は、早くからその姿を見せていたのである。

 秀吉古参の武将である神子田や尾藤に降りかかった苦難は、実はゴンベエにも無関係ではなかった。天下人となり、信長や先輩諸将の軛から脱した秀吉がどうふるまうか。ゴンベエが生きるも死ぬも、秀吉の機嫌一つにかかっていた。これから二人がどういう関係を構築していくか。手に汗握りながら見守っていきたいものである。