永井晋『金沢北条氏の研究』書評 

 日本中世史の認識と叙述には次の2つのあり方が考えられる。
@、史料を読んで、歴史事象を復元し、それを素材として「中世の家の構造は?」や「中世の官僚システムは?」
  等々の問題に言及し、これまでとは異なる考察を試みる。
A、「中世の家の構造」や「中世の官僚システム」について、現状こうした考え方がでてきている。新しい定説が
  生まれつつある。そこで、この考えを用いて、いくつかの歴史事象を新たに解釈し直してみる。
 @とAは等価値である。どちらを用いるかは研究者の自由であり、効果的な使い分けは研究者の力量の反映で
すらある。ただ、古文書などの良質な史料が他の国とは比べものにならぬほど数多く残存している日本の中世史
にあっては、多くの研究者が通常は@を用い、さほどAは試みない。定説とされる論理や解釈はやはり強固でしぶ
とく、衆目の一致するそれの置き換えが眼前で展開することはなかなかないからでもあろう。ある人々のあいだで
はこれこそ新しい定説である、と話題が沸騰しているように見えて、その背後に「本当にそうかなあ」と疑問を持ちな
がら当面はその議論に参加しない多くの声なき声がある、という状態はしばしば見ることができる。私もまた多数派
に属しており、社会学のような緻密な言説分析には慣れていないし、的確な研究史の整理をする才能にも恵まれてい
ないし、取り敢えず@を選択している。トレンドを見抜く眼力のなさ、Aを選択できぬ無能さを噛みしめながら。

 次に、政治や権力を通じて歴史的人間を考えようとすると、史料を読むにあたり何に依拠すべきなのかについて、実
は確たる定めがない。
、中世人も現代人も、同じように思考し、希求し、行動するだろう。たとえば無駄に死ぬのは好ましくないし、できれば
  豊かに、せめて安楽に日々を送りたいだろう。この意味で、今を生きる私たちの感覚を基準に、中世の事象を解釈
  することは有効である。
、いや、そうはいっても中世人と現代人はやはり異なるのだ。両者の感覚が同一であることを前提として安易に議論を
  進めると、時として思わぬ陥穽にはまりこむ。罪と罰の意識が相当に相違することは研究者のあいだでは共通の認
  識になっているし、「所有」の概念が未成熟だから、職の体系ができるのである。

 aもbも決して間違いではない。ただし、いかなる時にはaで考察を推し進め、いかなる場合にbに留意すべきなのか。
法則があるわけではないし、そうした方法論の定立が俎上に載せられることは期待できない。大事なのは、現状では
まことに茫漠とした指摘にとどまらざるを得ないが、個々の研究者のバランス感覚であるとかセンスのようなものかもし
れない。

 最後に、私が今頻りに強調しようとしているところだが、認識のありようにも二通りがあり得る。
、かくあるべし、当為(ゾルレン)を重視する。征夷大将軍という官職がある。この職を入手したから奥州藤原氏討伐、
  奥州の実効支配に正当性が付与される。
、かくあり、実情(ザイン)にこそ注目する。奥州藤原氏を滅亡させるような実力に見合う官職として、源頼朝の側が征
  夷大将軍を選択している。当然であるがこの見方に立てば、征夷大将軍の官職それ自体は、いかなる地位も権限も
  担保しない。

 さて3つの要素を提起したところで、伊賀氏事件を考察した第二章第一節を素材として、永井氏の政治史理解の方向
性を確認してみたい。事件は周知の如くである。幕府執権北条義時が急逝した。義時の後室である伊賀氏は三浦義村
と連携し、女婿の一条実雅を将軍に、実子の政村を執権にしようと企てた。尼御台北条政子が水面下で動いて義村を
取り込み、孤立した伊賀氏はとその一門は失脚、北条泰時の施政の幕が開くのである。

 永井氏の論考の特質は、Aとbとを多用するところに求められるように思う。様々な最新の研究動向を援用して、全く異
なる解釈を提示してみせる。多数派の中に安住しない、すぐれて個性的な研究者である。むろん、他の研究者と同様に、
理論の展開には検討すべき点がないわけではないのだが。

 たとえばこんな文章がある。「官僚の再生産システムとして官職請負制をとっている中世前期の国家の論理からすれば、
家長義時の急死によって家長権を代行する伊賀氏が家長交代の正当な手続きを行い、将軍九条頼経の後見人として鎌
倉幕府の経営を代行する北条政子が北条家の家長交代を承認すれば、問題なく済むことである」(七二頁)。幕府にも適用
できる「国家の論理」の「国家」とは何か?という疑問はここでは瑣事に属するのあえて取りあげない。永井氏は義時から
泰時への代替わりをbで捉え、Aで論を運ぶのだが、私ならばここではそうはしないと思う。私たちが優先的に考えるべきは、
遠藤珠紀氏や本郷恵子氏が疑義を呈されているように、「官司請負制」概念の妥当性の方だろうと考えるからである。代替
わりはaの範疇にいれておく。古代から連綿と続く「権勢者の父から子への交代」のよくある一つのバリエーションとして穏当に
解釈し、@を選択して佐藤進一氏の所説の再検討を求めていく。むろん、くどいようだが、ここでも@とAに優劣はない。

 こんな文章もある。「正室が家長の共同経営者として家内で高い地位を持つことは中世前期の家族の自然な形態であり、
六波羅駐留を経験した人々は、義時後家伊賀氏が北条家の儀礼の中で高い地位を占めることに違和感を覚えなかったの
であろう」(七八頁)。永井氏は北条政子の行動を越権行為として評価し、北条泰時以下がこれに強い嫌悪感を示したとされる。
政子はいうまでもなく幕府という存在全ての淵源となる源頼朝の正室なのだから、右の「正室の高い地位」論理に従う限り
彼女はまさにオールマイティーとして認識するのが「自然」では(「正室の・・」論理に賛成しない私はそうは思っていないが)
とも思うが、それもここでは瑣事に属するのであえて取りあげない。叙述の根拠となる「正室の高い地位」論理に検討の余
地があるのではないか。私は少しばかり当時の朝廷の政治史をかじったが、貴族の正室が家督の継承に関与した事例を寡
聞にして見知し得ない。後嵯峨上皇没後の大宮院の例があるが、あのときに本当の決定権を有していたのは大宮院ではな
く幕府である。徳大寺実基など、正室ではないだろう母を持つ貴族(実基の母は遊女)は何人も挙げられるが、少なくとも家を
継ぐことが朝政の最前線に立つことを意味するような特別な家では、そのような事例は抽出できないはずだ。他の研究者の
言説の援用は、史料を採用するときと同様に、慎重な批判を経て行わねばなるまい。

 永井氏は好んでbを選択する。たとえばこうである。義時の死に際し、嫡子である泰時は不在で、それゆえに正室であり後
家となった伊賀氏が北条家の家長の権限を代行した。いやそれは、嫡子が放蕩や不義理など、彼の側の都合で家を出てい
る時の話ではないのか。泰時は父の命で六波羅探題を務めているのであって、御家人たちも納得している。分けて考えるべ
きではないのか。aでしか発想をもてない私なら、そう思う。だがそこに永井氏は鋭く疑義を表明し、さらにAで叙述を進める
のだ。

 Aとb、ついでにいうとアで考察するのが永井氏である。アは多数派に属するが、Aとbは他者と異なり、実に特徴的である。
どういう経緯でかかる方法論を身につけられたのだろう?そう余計なことを考えたときに、ふと思いついたことがあった。それ
は氏のお仕事である。永井氏が金沢文庫に勤務され、文庫文書の解釈や整理に努めておられるのは周知のとおりである。
つまり氏の眼前には、常に圧倒的な文書群が存在し、より精緻な解釈を不断に求めている。この文書はどう読めるのか。読
み直せるのか。新しい解釈の余地はどうか・・。誠意を以て文書からの要求に応えてこられた結果として、氏はAの手法を体
得されたのかも知れない。

 そうした失礼な推測を思わずしたくなるほどに、文庫の文書を紹介しながらの金沢氏への言及はみごとの一語に尽きる。それ
についてはだれも異論はないだろうから、ことさらに述べる必要はあるまい。永井氏自身が自認しているように「質が高く読み
やすい」文章で書かれた、学界共有のすばらしい成果として、必ず備えておきたい一冊である。