『禁秘抄』
○うそ偽りのない感想
 恥ずかしながら私は、本当にモノを知らない。これは何なのか、どんなものなのか、どうしてそうなのか。「存じません。分かりません」を繰り返し、我ながら、情けなくなることが度々ある。
 そんな私に、順徳天皇が著した『禁秘抄』について書きなさい、という課題が与えられた。さて困った。たしかに以前、目を通したことはある。うっすらと記憶にはある。でも、どんなものか、まるでおぼえていない。昔のノートを引っ張り出してみても、たいしたことは書いていない。論文に使った形跡もない。
 取り敢えず読んでみよう。活字は『群書類従』にあるし、故実叢書の中に『禁秘抄考註』がある。それほどの分量ではないので、目を通すことはさほど難しくなかった。ところが。率直に言って、政治史を一応の専門とする私には、全くわからない。合点がいかない。なぜなのか。答えは簡単明瞭で、有職故実の書だからである。様々な蘊蓄が盛り込まれているのだが、どの情報も私の粗雑な頭を素通りしていってしまう。モノを知らない、モノにこだわりをもてない私には、理解がきわめて困難な書物である。

○解題に代えて
 呆然と立ちつくしているだけでは、所定の枚数を埋められない。何とか項目だけでも書き記してみよう(数字は便宜を図るために、私が付したものである)。

1,賢所     2,太刀契    3,宝剣・神璽    4,玄上   5,鈴鹿
6,竈神     7,清涼殿    8,南殿       9,草木   10,恒例毎日次第
11,毎月事   12,御膳事   13,御装束事    14,神事次第
15,臨時神事  16,仏事次第  17,可遠凡賎事   18,諸芸能事
19,御書事   20,御使事   21,被聴台盤所人事 22,聴直衣事
23,近習事   24,御持僧事  25,御侍読事    26,殿上人事
27,蔵人事   28,蔵人所雑色 29,同衆      30,滝口
31,出納    32,小舎人   33,地下者     34,医道   35,陰陽道
36,凡僧    37,御匣殿別当 38.尚侍      39,典侍   40、掌侍
41,女房    42,得選    43,采女      44,刀自   45,女官
46,主殿司   47,女嬬    48,詔書      49,詔書覆奏   
50,勅書    51,宣命    52,論奏      53,表    54,勅答
55,改元    56,廃朝    57,天文密奏    58,焼亡奏  59、薨奏
60,配流    61,召流返人  62,解官      63,除籍   64,勅勘
65,召人    66,召怠状事  67,召籠事     68,給馬部吉上   
69,内裏焼亡  70,追討宣旨  71,奉振神輿    72,赦令   
73,御物忌   74,日月蝕   75,雷鳴      76,止雨   77,祈雨
78,御占    79,解除    80,御祓      81,護身   82,御祈
83,御修法   84,御読経   85,殿舎渡御    86,交易御馬御覧
87,南殿儀   88,帥大弐諸国受領赴国        89,明経内論議   90,雪山
91,犬狩    92,鳥     93,虫
 これを大まかに分類すると、
@ 1〜9 神事・宝物・殿舎   A 10〜19 行事・芸能
B 20〜36 官人(男性)   C 37〜47 官人(女性)
D 48〜72 文書ほか     E 72〜89 天変と祭祀
F 90〜93 その他

となろうか。かなり無理はあるのだが、七グループに分けてみた。
 この本には三巻本と二巻本がある。 三巻本は慶安の刊本と滋野井公麗の階梯本で、上巻1〜12、中巻13〜37、下巻38〜93となる。二巻本は群書類従に収めたもの、近衛本などで、上巻1〜47、下巻48〜93となる。先の分類と比較すると、三巻本の分け方はいかにも無理がある。女性の御匣殿別当を男性の官人に付してしまう、などの点である。二巻本が古い形態をよく残していると考えるべきであろう。
 この本は順徳天皇が項目ごとに書き記したものである。題名はほかに順徳院御抄、建暦御抄、禁中抄などとある。前二者は作者に因る(順徳天皇は後述するが、建暦年間に即位した)。また、本の書き出しに「禁中の事」とあるので、禁中抄と呼ばれたのであろう。この呼称は光明天皇の日記に見えている。和田英松博士は禁中秘抄を略称して禁秘抄となったものと推定しており、こちらの呼称も南北朝時代に例がある。すなわち、貞治五年十二月に二条良基が判詞を記した「年中行事歌合」に記されている。薩戒記・実隆公記・江次第抄など、この後の書物には多く禁秘抄として見えており、この名が定まったものと推測される。
 右記1には「触穢の時は恒例の供物、先例同じからず、(中略)さんぬる年、内大臣の穢、禁中に及ぶ時これを供す、今度諸社の祭延引すといえども・・・」の文章(原漢文。適宜読み下す。以下同じ)がある。内大臣は建保4(1216)年に没した坊門信清であるから、「今度」はその三年後、承久元年(1219)八月の天下触穢と解釈すべきである(この間には天下触穢なし)。つまり、禁秘抄は承久元年ころには、すでに書き始められていたと考えられる。
 また3には「承久譲位の時」の語句がある。これは承久3年(1221)4月20日の順徳から仲恭への譲位と受け取るべきだから、このころにも書き継がれていたことが知られる。同年6月半ばには関東の大軍が京都を占拠し(承久の乱)、順徳上皇も身柄を拘束される。そうすると、禁秘抄が今の形になったのは、4月末から6月初めの頃と考えられる。もしも順徳上皇が戦乱に飲み込まれることがなかったら、禁秘抄はもっと大部なものになっていたに違いない。

○「順徳天皇の空間」
 グループ分けをして強く感じたことだが、本書の構成は、きわめて緩やかである。たとえばDを見て欲しい。いろいろな形式の文書が並ぶのであるが、文書を分類して整合的に並べてみよう、という意識は見えてこない。気の向くままに文書を記し、やがて文書の作成を必要とする政務に関心が移り、さらに思い出したように文書に戻ってくる。
 仮に承久の乱がなく、あるいは乱に勝利し、上皇としての穏やかな生活が続いていれば、順徳上皇は文章を推敲し、構成を考え直したのかも知れない。けれどもいま残された状態に限定していうならば、順徳天皇・上皇が実際に目にしていることどもを、緊密な整合性などは取り敢えず措いて、緩やかに順序立てて書き記した書物、という評価にならざるを得ない。いわば「順徳天皇の空間」が文字化されているのである。
 ここで、順徳天皇について見ておこう。名は守成。建久8年(1197)生まれ。父は後鳥羽天皇、母は修明門院藤原重子。彼女の父は高倉範季である。承元4年(1210)に即位。父に愛され、兄の土御門上皇を却けて、天皇家正統の座を与えられた。父の倒幕事業に協力するため、承久3年(1221)仲恭に譲位。だが幕府との戦いに敗北し、佐渡に配流された。仁治3年(1242)、四条天皇が後継ぎなく亡くなると、皇子の忠成王が次期天皇の最有力候補となった。ところが後鳥羽本流の復活を忌避する幕府の強力な干渉により、土御門上皇皇子の邦仁王が後嵯峨天皇として即位する。この事件が順徳上皇を甚だしく傷つけたことは想像に難くない。上皇は同年9月、配所の佐渡で没した。
 諸芸に秀でていた、と評される順徳天皇であるが、行政に関与できる部分は多くなかった。順徳天皇の父である後鳥羽上皇が院政を布いていて、政務を掌握していたからである。天皇は、皇位が身に纏う古代的・伝統的な部分にもとづいて、淡々と業務に携わるだけであった。
 後鳥羽上皇は白河上皇に始まる「院政」の伝統を体現し、強烈なリーダーシップを発揮した帝王であった。上皇がいまだ若年の頃、源頼朝と連携した九条兼実が政務を掌握したことがあった。兼実は合議を重視し、律令に準拠する、システマティックな朝政運営を目指した。ところが、上皇が廟堂の主となるや、状況は一変する。上皇の専制的な意思決定がそのまま朝廷の意思に置換され、廷臣たちは汲々として上皇の意を迎えた。貴族の合議は形骸化し、かろうじて上皇の近親者と近臣のみが、補弼の任に預かることができた。 
 近親者とは、上皇の生母の家である坊門氏、それに乳母の藤原兼子の高倉氏を指す。近臣とは、葉室光親・葉室宗行など、上皇が才幹を認めた有能な官人をいう。とくに卿二位こと藤原兼子の権勢はたいへんなものであった。順徳天皇生母の従姉にもあたる彼女に対し、貴族たちは競って奉仕した。彼女に接近する機会に恵まれなかった藤原定家は、「無縁の者、さらにその計らいなし。まさにいかんせん」と身の「無縁」を嘆いている。
 ある庄園での権利を侵害された定家は、高倉清範を頼った。清範は能筆で知られていたらしいが、しかるべき官職に任じていたわけでもない。身分がとくに重視されていた貴族社会にあっては、定家がお願いをするに値しない若輩であった。ただ、彼は兼子の甥だったのである。定家の訴えは、首尾良く「上皇のお耳」に達し、裁判が動き出す。かくて、人々は上皇や兼子への縁を追い求める。組織的・機能的な朝政運営はさしおかれ、偶発的な「縁の政治」が展開される。
 このように後鳥羽上皇が朝廷に君臨していたから、「順徳天皇の空間」は、「朝廷行政の空間」とほとんど交わることなく、乖離して存在した。とはいえ、順徳天皇が後鳥羽上皇の意に反して行動できないように、「順徳天皇の空間」は「朝廷行政の空間」の影響下にあった。このとき「朝廷行政の空間」の性質は、「順徳天皇の空間」に流入せざるを得ない。
 「朝廷行政の空間」の性質とは何だろう。後鳥羽上皇の院政が基本的には古代以来の伝統を継承して存立していたものであったため、機能的で明快な形状をとらず、「時の沈殿物」とも呼ぶべき様々な要素が付着していた。整理不能な複雑なかたちを有していた、という一点に代表させ得ると私は考える。そしてそれは、「順徳天皇の空間」をも強く拘束する。いきおい、「順徳天皇の空間」は古くからの伝統やら慣習やらが整合性を持たずに混在していながら、政務の実際も反映されていない、という何とも奇妙な性格を帯びることになる。

○では『禁秘抄』はどう読めるのか
 具体的な例を挙げてみよう。たとえば70、「追討宣旨」にはどんなことが記されているか。実に魅力的な命題であるから、期待に胸をふくらませて読んでみると、
 僉議あり、三関警固、諸衛弓箭を帯し、追討使に宣旨を給う、陣の辺に於いて、大外記
 その人に給う、その人立ちながらこれを給うか、また御前に召すの時、弓場の南の戸を
 開きて参入するなり、ただの時はこれを開かず、直に職事、宣旨を給う、
これだけである。『禁秘抄』が成立するのは、承久の乱前夜であると記した。まさに鎌倉を追討するその時が到来しているのに、追討使に宣旨を与える儀礼のことしか書かれてないし、順徳上皇の念頭にはそれしかないらしい。儀式などどうでも良いではないか。検討すべきはどうやって将を選び、兵を集め、兵站線を構築して、鎌倉を打倒するかではないのか。そんなことを言ってたら負けてしまうよ、と大声を出したくなる。だが、『禁秘抄』のテーマは、そういうことではないし、史実として朝廷軍は大敗したのである。
 おそらくは、こうした点にこそ、先に記した「私にとっての分かりにくさ」の原因があるのだろう。私は一応、政治史を標榜しており、現代の合理性を基礎とするロジックで朝廷の行政行為の分析を試みている。順徳天皇は「古代」に縛られ、さらに現実の要請にもさらされていない。だから、話が噛み合わない。
 承久の乱の敗戦により、朝廷は現実と向き合わざるを得なくなった。伝統にあぐらをかいていては、もはや権力者として立ちゆかなくなったのである。劇場的に行事を繰り返すのではなく、統治の技術を磨かねばならなくなる。天皇や上皇にも、君主としての合理的な才能が求められる。そこでは『禁秘抄』的な日常は、再検討を求められざるを得ない。
 もしも私が「モノを知る」人間であったなら、有職故実の世界に遊ぶ余裕をもてる知識人であったなら、『禁秘抄』をもっともっと楽しめただろうに。効果的に自分の学問に取り込めただろうに。ここでもまた、情けなさが胸に迫ってくる。とまれ、『禁秘抄』は、読み手を厳しく選ぶ書物である。少なくとも、そうした評価は成立するであろう。