鉢の木に見える武士の忠義について
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○霜月騒動
 1285(弘安8)年11月17日、武士の都鎌倉で武力衝突が起きた。鎌倉幕府の実権は将軍になく、本来は将軍の補佐役たる執権北条氏の掌中にあったが、その執権である北条貞時の外戚(母の実兄、かつ養父)安達泰盛の勢力と、貞時の第一の家臣平頼綱を支持する勢力とのあいだで戦いの火蓋が切られたのだ。先制攻撃を仕掛けたの頼綱側に対し泰盛方も直ちに応戦、争闘は鎌倉中で繰り広げられた。将軍御所までが炎上する六時間に及ぶ戦いの果てに、泰盛ほか安達一族は滅亡した。泰盛与党の御家人は次々と討たれ、その数は五百余人に及んだ。争いの規模の大きさ、対立の根深さを窺い知ることができる。鎌倉幕府の歴史上もっとも多くの犠牲を要した内乱、世にいう霜月騒動である。

 この騒乱の古典的な解釈は泰盛ら御家人と頼綱ら御内人の対立、御内人の勝利というもので、中世史の泰斗たる佐藤進一によって提起された。御家人は将軍の直接の家臣である。御内人は事実上の幕府の主たる北条氏の家臣で、将軍から見れば陪臣(家来である北条氏の、そのまた家来)である。格式はもちろん御家人が上位だが、北条氏が将軍を傀儡として権勢を振るうにつれて御内人の発言力も御家人を凌駕していく。御内人の台頭に反発する泰盛ら御家人層は事ごとに頼綱らと対立し、ついに干戈を交えるも敗北。御家人の勢力は一掃され、御内人の支持を得た北条貞時の専制政治が幕を開けると佐藤は説明した。

 佐藤説は長く定説となっていた。著名な中世史家、石井進も網野善彦もこれに賛同した。だが最近になって根本的な批判が浮上してきた。御家人と御内人とは明瞭に区分できるのだろうか。両者は分かちがたく存在しており、それゆえに二つの陣営を構成できる性質のものではないだろう。佐藤説は机上の空論にすぎないというのである。将軍の家臣御家人でありながら、かつ北条氏に仕える御内人でもある。そうした武士はけっして少なくない。そしてその端的な事例こそ、「鉢木」の主人公、佐野源左衛門常世である。

○御家人と御内人
 名も知らぬ修行僧をもてなしてから暫しあって、常世は千切れた具足を身に纏い、錆びた長刀を手挟み、痩せた馬に乗って急ぎ鎌倉へと馳せ向かった。鎌倉から関八州に向けて非常の招集が発せられたのである。綺羅星の如く居並ぶ武士たちの中で、ひときわみすぼらしい常世。だが『御前』(『  』は謡曲からの引用)にとくに召されたのは他ならぬ彼であり、先の修行僧は北条時頼その人であった。常世の偽りなき忠義の心を喜んだ時頼は本領である佐野荘を常世に安堵し、先だってのもてなしへの礼として新しい領地三ヶ所を与えた。常世は『喜びの眉を開いて』意気揚々と帰国していく。

 時頼は『合はせて三箇の荘、子々孫々に至るまで、相違あらざる自筆の状、「安堵」に取り添へ』常世に授けた。この表現が正確だと仮定すると、梅田・桜井・松枝の三つの荘園に関しては、下賜する主体は間違いなく時頼その人である。ではここで常世は時頼のご恩に預かり、北条氏に誠心誠意お仕えすべき御内人になったのか。それはそれで十分に成り立つ解釈だが、留意すべきは「安堵」則ち安堵状、佐野荘への常世の所有権を確認し保証した文書の存在である。それはおそらく図1のような形状をしていた。

 図1文書は将軍家政所下文という名称で呼ばれる。幕府の文書のうち、もっとも権威を有する、大切な文書である。政所は政治と経済を司る幕府の役所であり、職員として執権の貞時(左馬権頭兼相模守平朝臣)と連署の北条宣時(前武蔵守平朝臣)が署名し花押(サイン)を書く。では、文書を書き与えられた平(大見)家政の土地への権利を保証している主体は誰かと問えば、実質的には貞時と宣時なのだが、形式的には鎌倉幕府の将軍、この時は惟康親王という人なのである。

 朝廷と貴族だけが世の中を治めていたとき、武士たちは自分たちの権益を積極的に保護してくれる貴人をもたなかった。彼らの土地の領有権は、たえず貴族や国衙(現代の県庁)からの脅威にさらされていた。そこで彼らは手を携え、利益を代弁する権力を構築した。それが将軍であり幕府なのである。武士たちは将軍と主従の契約を結び、御家人となった。

 将軍は御家人の本領を「安堵」する。その土地はおまえのものと私が認めよう。もしその権利が侵されたら、私が守ろう。それが「安堵」の具体的な内容である。見返りとして御家人は忠節を尽くす義務を負う。一朝ことあり『さて合戦始まらば敵大勢ありとても、敵大勢ありとても、一番に破つて入り、思ふ敵と寄り合ひ、打ち合ひて死なん』。将軍の馬前で天晴れ討ち死にを遂げる。それが武士の誉れであり、「いざ鎌倉」の本質である。

 常世の「安堵」も将軍家政所下文でなされたはずで、その主体はあくまでも将軍宗尊親王であった。それゆえに常世は、宗尊親王に献身し、奉仕しなくてはならない理屈である。ところが図1文書でもう一度確認すると、そこにサインしているのは北条一門の執権と連署だけである。将軍はすがたを現さない。「鉢の木」にも将軍を連想させる記述はない。常世が召し出された右の『御前』は、本来は将軍に謁する場であるはずだが、そこに宗尊親王は坐していたのだろうか。かりにいたにせよ、その場を支配していたのは最明寺入道、北条時頼であったろう。実際には時頼こそが常世に本領を安堵し、新しい領地を与え(新恩の給与という)、忠節を要求する主人として振る舞う。この意味で常世は御家人でありながら、北条時頼に仕える御内人でもある。

○民の統治と武士の権益と
 御家人と御内人ははっきりと区分できる存在ではない。二つの陣営が自然と構成され、不倶戴天の仇敵としてにらみ合う性質のものではない。先の佐藤進一の解釈は、当時の武士の実情に鑑みて、成り立たないように思える。それでは、多大な犠牲を強いた霜月騒動とは何だったのか。武士たちの深甚な対立は、奈辺に由来するのだろう。

 私たちは武士に幕府と聞くと、江戸時代のそれを想起しがちである。江戸幕府は士・農・工・商の身分制度を布き、武士に社会のリーダーであることを強く求めた。武芸を怠らず、行政に励む。税を取り立てる代償として、武士は民百姓を保護する建前であった。だが、鎌倉時代初めの武士や幕府はそうした成熟したすがたを示さない。右に述べたように、武士たちは自分たちの利益を代弁してくれる存在を求めて幕府に結集し、将軍権力を創設した。彼らの目的は単純かつ明快であって、武士階層の権益を守ることに尽きる。源頼朝に仕えた彼らが国家や民衆とどれほど真剣に向き合っていたかを考えてみると、残念ながら否定的、消極的な発想しか思い浮かばない。

 はじめ幕府御家人たちの知的水準はきわめて低かった。おそらく字が書けない人が大半だったのではないか。だが経験を積むにつれ、次第に彼らも学習していく。とくに朝廷との折衝を行ううちに、京都の文物に触れたことが影響しているのだろう。そうすると、御家人の中から、われわれ武士は世の中を治める役割を負っているのではないか、民百姓の生活を守っていくべきではないか、そう考える者が現れてくる。

 信濃国の上原敦広という御家人が浄土宗の僧侶に疑問を投げかける。私は深く仏を信仰していて、寺院を建て仏像を造る。だがよく考えてみれば、その費用は荘園の民に支払わせたものだ。信仰心のために民に経済的な負担を強いているのだが、果たして神仏は喜んでくれるのだろうか。すると、僧侶はきっぱりと断言する。「喜ばない」。どんなに立派な供物でも、それが民を苦しめた結果であるなら、神仏はお受けにならない。領主であるあなたは、先ず民を労りなさい。それこそが則ち、仏の道なのだ(「広疑瑞決集」)。

 僧の教えも画期的だが、いまは敦広の方に注目しよう。幕府開設から30年ほど経つと、絶対善と認識されていた神仏への信心にすら自省的な目を向ける武士が出現してくる。彼は民衆を想い、自己の責任を痛感する。彼のような御家人が集まって認識を共有したとき、武士は世の中を穏やかに治めねばならない、そう考えるグループが生まれ、幕府政治に影響を与えるようになる。私はそう考え、これを「統治派」と名付けてみた。

 「統治派」と対置すべきは、武士の利益を第一とする「権益派」である。「統治派」の忠義の対象は、いわば日本の国であり社会であった。自己の利益を否定しても、正義の実現に向けて努力する。一方の「権益派」は武士階層に忠節を尽くす。その行き着くところは武士である自己の利益である。そういうと、「権益派」は利己的で貪欲に感じられるが、そもそも幕府は彼らの要求によって作られたのを忘れてはなるまい。

 もちろん論理的には、両者の共存は可能であった。だが、モンゴルが来襲して社会が変動する中で、「統治派」と「権益派」は政治的に激しくぶつかり合うようになる。日本全体の統治を重んじるか、幕府の利害を優先するか。守るべきは力弱き民衆か、仲間である武士たちなのか。教養にあふれた安達泰盛は「統治派」を代表する。一方で粗野(「とはずがたり」の筆者、二条の印象)だが実行力に富む平頼綱は「権益派」の旗頭である。

 両派は土地政策やモンゴルへの対応を巡って衝突し、ある有力武士は「薄氷を踏むが如き」毎日だと述懐している。執権北条時宗の在世中は、武力衝突は何とか回避された。泰盛の妹を正妻とし、頼綱を第一の家来として従える彼の仲介が役立ったのだ。だが時宗が1284(弘安7)年に病没すると、両派の抗争は最終的な局面に突入する。それが翌年の霜月騒動であった。私がいま学界に提案している解釈は、以上のようなものである。

○北条時頼の旅路
 「鉢木」の時頼は信濃国の大井・伴野を出発して、板鼻を経て、佐野の辺りに到着する。北関東で佐野といえば栃木県の佐野市であろうが、この佐野はそうではない。図2を見ていただきたい。上野国の地名であって、現在は群馬県高崎市に属している。高崎周辺は古くから上野国の中心地域として機能しており、守護所もこのあたりにあったかと推測されているようだ。鎌倉幕府は各国に守護を設置し、その国の御家人たちのリーダーたらしめた。守護所は守護の役所、執務をする場所である。

 上野国の守護は長く安達氏が務めていた。板鼻宿には由緒ある八幡宮があって、安達氏がこの八幡宮を領有していた明証がある。高崎市の北側に隣接する玉村町は玉村氏という武士の本拠地であったが、同氏は安達氏の有力な、江戸時代の家老にあたる家臣であった。これらから推測するに、現在の高崎市一帯は守護である安達氏の支配下にあったと推定してもいいかもしれない。常世は本領である佐野荘三十余郷を『一族どもに横領せられ、かやうに散々の体となりて候』と嘆くが、一族どもの背後にあって常世の領有を妨害していたのも、もしかすると安達氏かもしれない。

 伴野、大井という地名も気に掛かる。長野県の佐久地方は名馬の産地として有名で、古くから開けていた。伴野と大井はこの丘陵地に広がる広大な荘園で、全国を遊行して歩いた一遍がはじめて念仏踊りを催したのが大井であるという。当時この辺りに勢力を張っていたのは源氏の名門、伴野氏であった。同氏は礼儀作法の家として有名になる小笠原氏の本家にあたり、伴野時長の娘が安達泰盛の母であるという縁戚関係もあって、「統治派」の有力な一員であった。

 霜月騒動の結果、安達氏・伴野氏・玉村氏は滅び、その領地はみな「権益派」の手に渡った。平頼綱は晴れて幕府政治の先頭に立ったが、その権勢も長くは続かなかった。強引な政治運営が主人である北条貞時の忌避するところとなったのである。1293(永仁元)年、北条貞時の命を受けた武士たちが鎌倉・経師ヶ谷の屋敷を包囲、頼綱は自害に追い込まれた。このとき頼綱と共に討たれた数名の近親者の中に、佐野左衛門入道の名がある。佐野左衛門入道と佐野源左衛門常世。おそらくはこの人物が、常世のモデルなのだろう。

 このように見ていくと、「鉢木」に登場する地名は、霜月騒動に深く関連するものばかりである。騒動による武士たちの興亡を語り伝えた話が先ず成立していて、それに取材して「鉢木」は構想されたのではないか。ただし、かくも特定の地域に密接に根ざした話を、「鉢木」の作者が直接見知していたわけではないだろう。観阿弥とも世阿弥ともいわれる作者に、親しく語り伝えた人物がいるはずである。

 私ははじめ、作者は偶然に上野地方の伝承なり物語を耳にしたのだと想像していた。それも否定はできないが、もう一つの可能性も提案してみたい。図2をもう一度見てほしい。佐野のすぐ南に、山名とある。そう、室町幕府有数の守護大名である山名氏の本拠の山名郷は、実にこの地域に隣接して存在した。すると、こう考えられまいか。山名一族の誰かが故郷に伝わる話として、佐野を舞台とするの武士の物語を観阿弥もしくは世阿弥に話し聞かせた。これに興味を抱いた作者は、物語を「鉢木」としてまとめた、と。

 山名氏と能楽がまるで繋がらないようなら、この想定は容易に崩れる。だが、たとえば月庵宗光という禅僧を両者の間にあいだに置いてみれば、両者は容易に接合し得る。彼は但馬国を拠点として活動し、難解な法語を平易に民庶に解説した。世阿弥は『花鏡』第14条に「生死去来、棚頭傀儡、一線断時、落落磊磊」の語を載せるが、これは月庵の『月庵和尚法語』の「偈」からの引用であった。世阿弥と月庵はおそらく表現者として、思想的に共鳴するところがあったのだろう。一方で月庵は但馬国を領国とする山名一族の厚い帰依を受けた。とくに山名時煕(応仁の乱で西軍総帥の地位にあった山名宗全の父)は同国に、彼を開祖とする大明寺を建立している。むろん、月庵は山名氏と能を結ぶ可能性の、ほんの一つに過ぎない。

 北条時頼は、鎌倉幕府の指導者として初めて「撫民」を標榜し、民を大事にせよ、民を愛せよ、と唱道した人物であった。安達泰盛の叔母(倹約の逸話で有名な松下禅尼)を母とする時頼の時期までは、「統治派」と「権益派」の対立は顕在化せず、武士たちは一つになって様々なことを学び、貴族に負けじと意識を高め、朝廷を目標に統治者として覚醒していった。その意味で最明寺入道時頼は佐野常世をはじめ、御家人みなの忠義と敬愛の対象であり、廻国・世直し伝説の主人公となるに相応しい人物であった。武士を救い、民を救う。そうした幸せなあり方の付託が許される人であった。細かく見れば利害対立が著しい在地すらを、時頼は飄然と歩いていくのである。