後醍醐天皇「自筆」綸旨につい

2000年11月に米子地方に出張したのですが、その時に出会った
文書です。形式からいえば後醍醐天皇綸旨で、隠岐島を脱出した
天皇が巨勢宗国に出した感状です。
千種忠顕が奉じているよう
ですが、
忠顕は軍事行動に従事していて、船上山にいません。

もしかしたら、
と思って、他の後醍醐天皇の筆と比べてみると、
どうやら
天皇が自分で、千種忠顕になりきって綸旨を書いて
いるようです。
こうした後醍醐天皇「自筆」綸旨は出雲大社等に
二通ほど
例がありますが、在地領主に充てられている点でも、
極めて珍しい文書であるといえましょう。

今回は現蔵者の許可をいただきまして、画像を載せました。

 
現在は全く知られていないこの文書なのですが、実は戦前に
平泉澄博士が注目していて、
博士もやはり後醍醐天皇自筆説
をとっておられます。(昭和18年『建武』8−1)

戦後、博士の歴史観が否定されるに及び、この文書も忘れ去
られてしまったということなのでしょうか。

 

後醍醐天皇というと、改革者として語られることが多い。この
文書にしても、天皇自筆なんてが前例がない、破天荒、といい
たくなるのではないでしょうか。でもよく考えてみると、
この
文書には天皇の極めて保守的、形式主義的な一面がよく現れて
いるのではないか。

綸旨を出したい。でもそば近くに奉者として適当な人がいない。
本当に天皇が変化を指向する人であるなら、新しい文書様式を
作るなり、みずから書状を書くなりすればいいのです。人がいない
といったって、侍臣の一人や二人はいたでしょうから、蔵人や弁官
といった官職にこだわらずに、彼らを奉者にしてもよい。方法は
いくらでもある。でもそうはしない。あくまでも従来使われてきた
綸旨という文書形式を忠実に踏襲している。千種忠顕になりきり、
彼の花押を真似してまで。それがこの文書であると思うのです。

私は後醍醐天皇を改革者として捉える説には批判的です(詳細は
最近発表した論文を見て下さい)。簡単に異形だ、異類だ、と面白
おかしい、大向こう受けが期待できる方向に論旨を持っていかずに、
当時の脈絡の中で後醍醐天皇を捕捉する地道な試みを続けていこう
と思っています。