後醍醐天皇「自筆」綸旨について
現在は全く知られていないこの文書なのですが、実は戦前に
平泉澄博士が注目していて、博士もやはり後醍醐天皇自筆説
をとっておられます。(昭和18年『建武』8−1)
戦後、博士の歴史観が否定されるに及び、この文書も忘れ去
られてしまったということなのでしょうか。
後醍醐天皇というと、改革者として語られることが多い。この
文書にしても、天皇自筆なんてが前例がない、破天荒、といい
たくなるのではないでしょうか。でもよく考えてみると、この
文書には天皇の極めて保守的、形式主義的な一面がよく現れて
いるのではないか。
綸旨を出したい。でもそば近くに奉者として適当な人がいない。
本当に天皇が変化を指向する人であるなら、新しい文書様式を
作るなり、みずから書状を書くなりすればいいのです。人がいない
といったって、侍臣の一人や二人はいたでしょうから、蔵人や弁官
といった官職にこだわらずに、彼らを奉者にしてもよい。方法は
いくらでもある。でもそうはしない。あくまでも従来使われてきた
綸旨という文書形式を忠実に踏襲している。千種忠顕になりきり、
彼の花押を真似してまで。それがこの文書であると思うのです。
私は後醍醐天皇を改革者として捉える説には批判的です(詳細は
最近発表した論文を見て下さい)。簡単に異形だ、異類だ、と面白
おかしい、大向こう受けが期待できる方向に論旨を持っていかずに、
当時の脈絡の中で後醍醐天皇を捕捉する地道な試みを続けていこう
と思っています。