『源威集』を読む
ー一武人の目に映じた足利尊氏についてー

はじめに

 『源威集』は南北朝時代の末に書かれた、所謂軍記物の一つである。その存在は大正年間
から知られていながら、現在に至るまでほとんど注目されることのなかった珍しい書物(1)である。

 本書に正面から取り組んだ研究者は、これまでにお二方しかおられない。はじめにこの書を
研究対象として取り上げたのは、国文学の増田欣氏であった。氏は本書を『太平記』と比較し
ながら分析を行い、東国の有力武士である結城直光を作者に比定した(2)。

 増田氏の研究を批判的に継承したのが中世史家の加地宏江氏であり、氏は一連の論文(3)の中で
以下のことを指摘された。

○作者は結城直光ではなく山入師義である。
○作者師義は文化・儀礼・有職故実に深い関心をもっており、本書は軍記物でありながらこう
 した諸事を詳述する。
○作者は史実に忠実であろうとしており、創作は加えられていない。それゆえ本書は歴史史料
 として用いることができる。
○本書が記された嘉慶年間(1387〜89)は長年の内乱が終息し、平和が到来しようとす
 る時期であった。動乱期を生き抜いた作者は、一つの時代の節目を迎えるにあたり、源氏の威
 を語り伝え、足利氏政権の正当性を主張した。
以上が加地氏の明快な論旨であり、これが現時点での学問的考察の到達点である。

 近年、加地氏は東洋文庫の一として本書の全文を翻刻し、丁寧な校注を付された(4)。本書は元来
章段を設けずに連綿と書き継がれているのだが、これを序章と一〜一二段の一三項に分けられた。
この整理はたいへん理に適ったものであり、以前に比べて読解は格段に容易になった。

 加地氏の労作が出版されたことにより、おそらくこれから『源威集』を考察する研究者は急増
することであろう。かく言う私もその一人であり、加地氏の業績に導かれながら本書に接し、ま
た自分なりに考えをまとめてみた。その結果、いくつかの点については、加地氏とは異なる見解
に到達した。そこで試みに本稿をまとめ、大方の批判を仰ぎたく思う。

1、『源威集』の構成について

 まず初めに、各段がいかなる内容をもつのかを私なりにまとめてみよう。各段の分かち方につい
ては、先述した加地氏の整理に拠ることにする。

表1
序  本書を叙述するにあたって
一  八幡大菩薩と源氏との関係
 二  前九年の役のこと
 三  後三年の役のこと
 四  源義光の簫の秘曲伝授のこと
 五  足利尊氏・基氏と簫曲のこと
 六  源義家の武勇のこと
 七  源義親の怪異のこと
 八  源頼朝の奥州攻めのこと
 九  源頼朝初度の上洛のこと
 一〇 源頼朝再度の上洛のこと
 一一 足利尊氏上洛のこと
 一二 尊氏上洛後の東寺合戦のこと

本書は孫や曾孫の問いかけに対し、祖父たる作者が答える、という叙述方法を採用
している。そこで次に、各段でどのような問いかけが為されているかを原文のまま抜
き出してみる。また、これに関連することであるが、各段がどうような文言で終わる
か、換言すれば、作者がどのように問いに答えているか、という点についても注目し
てみよう。

表2

 一  問、八幡大菩薩御当家祖神濫觴、如何、
 或時ノ御託宣ニ他ノ国ヨリ我国、他ノ人ヨリ我人トアリシハ、
    国ハ日本、人ハ源氏一流ニ限処歟、

 二 問、昔ヨリ誰家カ王家ノ相門ヲ不出、雖然御当家限テ代々権柄
      ヲ執リ、朝家ヲ守護シ、朝敵等ヲ平ゲ、今モ諸侍ニ首頂ト仰カレ
      給故如何、

 三 問、後三年ノ合戦ノ事如何、
    頼義・義家父子二代、戦将蒙勅、冷泉・白川、両将奥州ノ凶
    徒ノ跡ヲ削、叡感ノ間、諸家輩、源家将軍ヲ代々仁王ト奉仰
    ハ此故也、(あ)

 四  不問事ナレトモ後三年ノ物語ノ次ナレハ、(い)

 五  一、簫曲ノ物語ノ次成間申也、(う)

 六   一、此問答ノ始ハ、八幡源氏ノ祖神ノ事ノ次ニ、諸家ノ輩誰カ
       王孫ニアラサル、雖然御当家清和ノ御流、諸侍ニ仰カレ、代々
       朝家ヲ守、朝敵ヲ平給、(え)

 七 是モ源氏ノ威勢ヲ申サンカ為ノ物語依申也、(お)

 八 問、文治五年奥責謂如何、
 奥責ハ三ケ度也、
一、後冷泉天皇御宇、永承年中、将軍頼義為戦将、貞任・宗
      任等責給事、
一、白河天皇御宇、永保年中、将軍義家・舎弟義光合力、武
      衡・家衡等責賜事、
一、後鳥羽天皇御宇、文治五将軍頼朝、泰衡追討給事、
 是源氏将軍代々為戦将、逆徒ヲ平ケ、天下治賜フ、威勢ノ諸
     家ニ超越シ給謂申也、(か)

 九  問、右大将頼朝御京上何ケ度ニ候哉、

 一〇 問云、後御京上ノ事如何、

 一一、一、問云、文和弐年御京上事如何、

 一二、問云、東寺合戦濫觴何事ニ候ケル哉
 仍洛中之貴賎、天下泰平喜悦、弥武将威風洛中ノ凶徒塵ヲ払
     ヒ平ク、是モ源氏ノ威勢也、仍諸家ノ輩、各勲功ノ賞浴、
    (中略)各預御感暇給ヒシカハ下国せシ也、是ヲ文和ノ東寺合
     戦ト申也、(き)

 本書は一段において源氏と八幡神の関係が述べられる。文章の始めに神仏を語ることは、
当時の武家法令や新制にもみられる一形式である。それに一段の問いに対しては段内にお
いて応答が完結している。この二点から、一段は他と区別して考えたい。

 二〜一二段において、問いかけは通常、xとは何か、という形で為される。過去・同時
代の事件の説明を求めるのであり、三・八・九・一〇・一一・一二段の問がこれに該当す
る。こうした問いは叙述を円滑に進展させる媒体としても、効果的に用いられている。

 ところが実は、問いにはもう一つ、xであることは何故か、と作者の思惟を問いただす
ものが用意されている。それが「どの家も天皇家から出た名門なのに、なぜ源氏ばかりが
武家の棟梁として君臨しているのか」という、二段冒頭に置かれた現代の私たちも是非と
も知りたい疑問である。これをいま問Aとする。

 二種類の問い、そして答え。これを手掛かりとして、以下二〜一二段について具体的に
まとめ、各段相互の関係を探ることとしよう。

○二段 まず問Aが記される。平将門の乱時の経基王に少しだけ言及したあとに、前九年
の役について詳述する。源頼義は「勅を蒙って」「東八カ国の輩相従えて」戦いに赴いた。
源氏と東国の武士との主従関係の定着をこの戦役に見出し、これを以て問Aへの解答に一
定の方向性を提示する。

○三段 奥州清原氏は源氏の恩顧を忘れ、違勅の非法を働いた。そのため源義家が「勅を
蒙って」「前九年の役に準拠し」「東八カ国の輩を従えて」討伐に向かった。義家は弟義
光の助けを得て所期の目的を果たす。これが後三年の役であるとする。周知のごとくこの
戦いは実際には私戦であった。だが作者はあくまでも朝廷の命によるとし、両戦役を並置
している。ゆえに二段と三段もまた、並列の関係にある。表2の(あ)の表記はそれを端
的に示す。

○四段 『時秋物語』として有名な源義光と豊原時秋のエピソードを紹介する。時秋は「某」
として登場。(い)の如くに書き出されており、三段の付論たる役割を担わされている。

○五段 (う)で明らかなように、「源氏と簫曲」という四段の主題を受けて、足利尊氏・
基氏父子のエピソードが紹介される。四段と並列の関係にある。なぜこうした説話が挿入さ
れたかは、一一段で考えることとする。

○六段 (え)の如くに、話は本筋に戻る。後三年の役の主役である源義家の武勇を語る。
彼が武士の棟梁たるに相応しい人物であったことを強調し、問Aへの解答を補足する。

○七段 義親の首の怪異を述べるが、それも(お)、源氏の威勢をいう一方便であった。問
Aに対する性格は、六段に等しいと考えられる。

○八段 源頼朝による奥州藤原氏討伐が、頼義・義家の前九年の役・後三年の役と同様の性
格を有するものとして語られる。段末には(か)が記され、問Aに整理された解答が示され
る。すなわち、「三度の奥州合戦に見られるように、源氏は代々戦将として逆徒を平らげ、
天下を治めてきた。だからこそ、その威勢は他家に抜きんでているのだ」というのである。
とすれば、この段は二・三段と並置すべきである。また二段の問Aはこの段までを拘束して
いるのであるから、二段から八段までを一グループとすべきであろう。

 ここで以上の整理をもとに二〜八段を図に示す。

表3 二、前九年の役
三、後三年の役   四、義光の簫
問A    五、基氏の簫
  六、義家の武勇
  七、義親の怪異
八、頼朝の平泉攻め

○九段 頼義・義家の後継者であり、武家の棟梁である頼朝の上洛の様子を示す。

○一〇段 頼朝再度の上洛の様子を示す。段の性格は当然ながら前段に等しい。

○一一段 足利尊氏の上洛が描かれる。このとき注意すべきは、純粋に軍事行動であった
尊氏の東上を、全く性格の異なる政治的な頼朝の上洛と同列に叙述している点であろう。
ここでは尊氏は頼朝の後継者として描かれる。尊氏の人間像は頼朝のそれと重ね合わされる。

 かかる手法は実はこれ以前にも用いられていた。四・五段がそれである。簫を媒介として、
四段の義家・義光兄弟は五段の尊氏・基氏父子に結びつけられる。足利氏が「威勢ある源氏」
の正統であることが強調されるのである。

 加地氏が指摘されている(5)ように、本書においては、有名な義光の秘曲伝授説話は重要な部
分が書き換えられている。すなわち秘曲伝授の場所は足柄山から奥州の戦場に。曲も太食調
入調から荒序に。これもおそらく、足利氏と源氏、という観点から説明できる。

 まず曲が荒序でなくては、四段から五段へ、自然に話を進められない。本書にとっての同
時代人たる尊氏・基氏は荒序を修得していた。この事実は曲げられない。ならば秘曲を以て
四段と五段を接合するには、義光の秘曲も荒序でなくてはならない。また伝授の場が足柄山
であっては、源氏の当主たる義家の出番が無くなってしまう。庶子である義光と尊氏・基氏
を比べてみても意味がない。尊氏はあくまでも義家との対比を通じて語られねばならない。
それでこそ足利氏の卓越した貴種性が際立つのである。それゆえに伝授にはどうしても義家
の臨席が不可欠であり、場は奥州に改められたのである。

○一二段 この段は前段の結果として語られる。東国の武士たちは、あたかも過去三度の奥州
攻めのように、武家の棟梁たる足利尊氏に供奉して戦場に赴いた。そして(き)に記されるよ
うに見事に敵を平らげ、東国に凱旋する。「足利氏=源氏の威勢」によって天下は泰平を取り
戻した。加地氏が指摘される(6)ように、「めでたし、めでたし」で本書の記述は終了する。
九段から一二段までを図示してみよう。

表4 九 頼朝上洛
一〇頼朝再上洛
一一尊氏上洛 一二東寺合戦

 表3、表4から本書の構成を再度確認する。源氏は代々天皇の命により朝敵を平らげてきた。
頼義・義家・頼朝は戦将となって奥州攻めに従事し、その過程で東国の武士たちは源氏を主と
仰いだ。それゆえに源氏の威勢は他家を超越している。頼朝は二度上洛しているが、その頼朝
を想起させる人物こそは足利尊氏である。「源氏の威勢」を体現する尊氏は東国の武士を率い
て上洛し、朝敵を討伐した。いま足利氏の世は泰平の期を迎えようとしている。

2、『源威集』の作者について

本書の執筆動機の一は、作者が自らの武勲を伝えるためである。増田氏、加地氏はともにそ
う主張される。私もこの点については全く異論がない。このことを作者の比定に役立ててみよう。

 本書で(作者にとっての)現代史を扱っているのは五・一一・一二段であり、このうち五段
には然るべき人が登場しない。残りは一一、一二段であるが、私の整理によれば、より重要な
役割を与えられているのは一一段である。尊氏は頼朝と同じく上洛するのだが、このとき栄光
ある任務を任されたのは誰か。そうした視点で読み進んで行くと、一人の人物に到達する。上
洛の先陣に抜擢された、結城直光である。本書の現代史おいて最も晴れがましく叙述される彼
こそは、本書の作者にふさわしいのではないだろうか。

作者は結城直光であろうとは、すでに増田氏が主張されていることである。これに対し加地氏
が山入師義説を提起され、私はまた増田氏説に回帰することになる。加地氏に反論しながら、以
下にその根拠を述べてみよう。

まず第一に、これこそが増田氏説の根拠でもあるのだが、結城直光への言及は非常に頻繁であ
る。東洋文庫本を用いて索引風に記すと、205、213、214、215、220、225
(以上一一段)、238、251(以上一二段)の各頁に登場する。しかも251を除いては、
「結城中務太輔直光」とフルネームで記される。この注目度の高さは尋常ではない。これに対
し師義への言及はただ一カ所、239頁のみである。

 加地氏は言われる。作者は尊氏の九州への敗走に供奉し(序章)、多々良浜の戦いに参加(八段)
している。直光はこのとき七才、本書の叙述に合致しない(7)。私はこの問題は、武士の「家」概念
の強固さをもってすれば、たやすく反論できるように思う。直光の父朝祐は箱根・竹の下の合戦
当時から尊氏に従い、尊氏とともに京都・九州に赴き、多々良浜で戦死している。兄の直朝も足
利方として行動し、関城合戦で戦死した。これを考慮に入れれば、序章の「建武ノ初ヨリ武将ニ
奉従」った主語は「我が結城家」でよいだろうし、八段の「少弐頼尚の腹巻きに付られた、黄威
の鎧の袖部分(加地氏がこれを菊の器と干飯としているのは完全な誤読。両者は少弐貞経の戦死
時に失われた)」を実際に見て、結城家中に語り伝えたのは父朝祐でよいだろう。

もう一つ、師義説の根拠となるのは、「鳩の杖」である。鳩の杖は七〇才の賀に贈られるもので
あるから、「齢鳩の杖を極ぬ」と記す作者は七〇才前後でなくてはならない。しかし直光は本書執
筆時六〇才ほどであるから、適当でない。そう加地氏は言われる(8)。そこで改めて調べてみると、実
際には鳩の杖と七〇才という年齢を積極的に結び付ける資料はほとんど無い。唯一の資料が『後漢
書 礼儀志』で、訳してみると「七〇才の者に玉杖を授ける。八〇、九〇才の者には礼を加え、玉
杖を賜う。それは鳩の飾りのあるものである」とある。加地氏は「それ」を記事中すべての玉杖を
指すと考えられたが、「礼を加える」を「より価値ある玉杖を授ける」ことと解すれば、鳩の杖は
八〇才にならないともらえないことになる。私のような門外漢にはどちらの解釈も成り立つように
思える(ちなみに『国史大辞典』は後者をとっている(9))。更にいうと、仮にこの漢の歴史書が七〇
才=鳩の杖をいったのだとしても、それが日本に正確に伝わる可能性は非常に低いであろう。平安
朝廷は高齢者に鳩の杖を与えているようだが、七〇才を基準にしている例は見当たらない。たとえ
ば『拾芥抄』は八〇才説をとるが、とりあえず、鳩の杖は高齢者に与えられる、それゆえ鳩の杖は
老人を象徴する。これくらいの説明が無難であろう。ならば二〇代で戦死した父、一〇代で戦死し
た兄をもつ直光が、六〇才に近づいた自分を「老人=鳩の杖の齢」といってもあながち不思議では
あるまい。

 このように加地氏の師義説の根拠は、他の解釈も成り立つ余地が十分にある。とすれば、本書の
作者は、最も頻繁に言及される結城直光である、と素直に考えるのが妥当であろう。

 蛇足ながら、これまで関心をもたれなかった箇所を一点だけ付け加えたい。一一段によると、直
光は尊氏上洛の先陣の賞として「先代・平方」の地を得たという。加地氏が比定される(10)ように、先
代は現在の埼玉県大里郡江南村先代、平方は上尾市平方を指すと思われる。戦いの褒賞ではないの
だから、広博な土地でないことはむしろ当然であったろう。問題はこの地の表記である。これも加
地氏が指摘しているが、続群書類従本『結城家譜』はこの地を「千台・平方」とする。ところが
『結城系図 全(11)』によると、「千太・大方」になってしまう。結城家の内部史料でも差異が生じる
無名の地を、どうして山入家の人が正確に把握できただろうか。やはり作者は結城家の人とするの
がよいだろう。

3、『源威集』の構想

 さて、いよいよ本題に入る。本書の作者が結城直光だとして、ではなぜ彼は本書を著したのか。
なぜ問Aのごとき問題を立て、自己の考えをまとめねばならなかったのか。換言するならば、源
氏でもない彼が、なぜ源氏の威光を説かねばならなかったのか。本書を一読した時から、私はそ
のことばかりを考えていた。これまでの整理・分析を素材として、以下この問題に取り組んでみよう。

 まず問題にすべきは、本書成立期の評価である。嘉慶という時期(1387〜89)について加
地氏はいわれる。「著作年次の嘉慶年間とはすでに南朝は政治的にも軍事的にもその存在意義を失
っている時期であり、足利氏の『威風』は『海夷』の国にまで及び、『弓矢ヲ袋ニ納ル時』であっ
た。(12)」

 果たしてそうだろうか。直光にとってのこの時は、けっして「六十年余に及んだ内乱の末期、換言
すれば平和の到来期」などではあり得なかったのではないか。それは関東一円を震撼させた小山義政
・若犬丸の乱の余燼が、いまだ燻り続けていたからである(13)。

『源威集』一一段で足利尊氏の寵臣饗庭命鶴丸は言う「小山左衛門佐氏政ハ分限ト申、多勢ト申、
不可余儀歟」。平安時代以来の名族小山氏は、当時関東随一の勢力を誇っていた。康暦二(138
0)年、かの氏政の嫡子義政は、関東公方足利氏満の制止をきかず、下野国の宇都宮基綱を攻め滅
ぼした。この事件が乱の発端となった。かねて小山氏の勢威に脅威を感じていた氏満はこれを機に
小山氏討伐に動き、京の幕府の許可を得て関東の軍勢を動員する。義政は二度まで帰順を許されな
がらも、鎌倉府への反抗を繰り返した。三年に及ぶ戦いは永徳二(1382)年の義政の自害で一
旦終息するが、至徳三(1386)年には義政の子の若犬丸(隆政)が小山祇園城に挙兵する。氏
満は自ら出陣して小山地方を制圧、若犬丸は常陸国の小田氏の許に逃亡する。鎌倉府の軍勢は嘉慶
元(1387)年から翌年にかけて常陸国に戦い、若犬丸の勢力を打ち破った。敗北した若犬丸は
陸奥国に逃亡、のち同国白河に挙兵して再度敗れ、応永四(1397)年に自害した。これが小山
義政・若犬丸の乱である。嘉慶年間、結城氏は祇園城に派兵(14)、若犬丸逃亡後の小山周辺の治安維持
に腐心していた。結城直光は『源威集』を書き記しながら、まぎれもなく戦乱の日々を生きていた。

乱の直接の勝利者はいうまでもなく鎌倉府であった。ところが実はその他に、乱によって非常な利
益を得たものがいた。それが他ならぬ結城氏であった。結城氏は直光の嫡子基光が祇園城に駐屯(15)、
その勢力は小山周辺に伸長した。そればかりか基光の二男泰朝が小山氏を継承(16)することになり、こ
ののち小山氏の遺領は基光の管轄するところとなった(17)。さらには下野国守護職までが、上杉氏を経
由して結城氏に与えられた(18)。泰朝の小山氏相続、基光の下野守護職獲得の正確な時期は明らかで
はないが、そうした方向性は、若犬丸が小山を去った時点でおおよそ決定していたと思われる。(19)

 『源威集』が作成された丁度その時に、結城氏は本宗小山氏の勢力を併呑しつつあった。また結
城氏のこうした重用は、鎌倉府、さらには京の幕府によって定められたことであった(20)。この二点に
留意するならば、作者結城直光の真意は、「足利氏は天下を制した。そして『いま』足利氏は我が
結城家に実利をもたらしてくれている。だから今のところは、結城家は足利氏に従うことが得策で
ある。」そう読めるのではないだろうか。

 この推測が成り立つならば、『源威集』の本質に関しても、従来とは全く別の解釈が導き出され
ることになる。『源威集』は広範な読者を想定した所謂「文学作品」ではない。それは「小山氏反
乱直後」という特定の状況下にある「結城直光」という特定の武士が、「結城家繁栄」という特定
の目的のために「孫や曾孫や結城家中」という特定の対象に「教訓する」ものであった。当時にい
う家訓あるいは置文の要素を色濃くもつ、極めて具体的で現実的な書物であった。

 右の推測は、かかる直光の教訓、ごく簡単に要約すると「足利氏に逆らうな」というもの、が平
板な一般論以上の意味を有していなければ成立しない。そこで史実に当たってみると、有力武家に
よる足利氏に敵対する軍事活動は、思いのほか多く見ることができる。場を関東に限定しても、小
田氏、白河結城氏と宇都宮氏の一部は南軍として活動していたし(21)、小山氏、宇都宮氏は鎌倉府と戦
闘を交えている(22)。関東管領であった上杉氏、畠山氏さえも、鎌倉公方に反旗を翻している(23)。

 豊臣氏や徳川氏の強力な覇権が確立した後は、私的な軍事行動はその家の滅亡に直結した。ところ
が足利氏の拘束力は極めて漠然としたものであったから、武士たちは頻繁に戦闘力を行使した。軍事
はまさに政治行動の一環であり、自家勢力の伸長を図るため、彼らは将軍や鎌倉公方との戦いをも辞
さなかった。小山氏は帰順の機会を生かせずに滅びたが、戦果をもとに新たな交渉の場を設定し、幕
府、鎌倉府の譲歩を引き出した者も少なくない(24)。

 東国有力武士の意識にも注目したい。『吾妻鏡』は次の事件を伝えている(25)。宝治二年閏一二
月、足利義氏が結城家の祖朝光に書状をもたらした。ところがそれが薄礼のものであったから朝光は
激怒、同様の書式で返事を送り付けた。この行為に義氏もまた激昂し、両者の確執は幕府に持ち込ま
れる。義氏は主張する。「私は頼朝公の『御氏族』である。おまえは直に頼朝公に仕えていたのに、
それを忘れたか」。 一方の朝光は「頼朝公の御判が据えられたこの御家人交名を調べてみろ」と証拠
文書を提出した。幕府は「証拠の交名を調べたが、足利氏と結城氏は同列であった」と結城氏を支持、
ただし「なお名簿の首座は北条義時であった」とも付言するのだから、これは特定の証拠だけを採用
した、主観的もしくは政治的な裁定であったろう。

この事件には当時の源氏一門への意識が反映されており、極めて興味深い。源頼朝の時代が踏襲す
べき規範となる、いわば「聖代」であることについては、足利氏、結城氏、幕府ともに異論がない。
けれども源氏の名門足利氏に対しては、有力御家人たる結城氏は「御家人として我々と同格である」
と強く主張、これに北条氏の幕府も同調するのである。彼らは源氏の貴種性は十分に認識しつつも
(この点については次章で述べる)、「頼朝のもとでの対等」を根拠に、源氏が上位に位置するこ
とを許さない。こうした源氏一門、また足利氏への視座は、自家への誇りとともに後代に継承され
ていく(26)。室町幕府草創期の東国有力御家人は「足利なんするものぞ」という気概を秘めていたので
はないか。彼らの活発な軍事活動の根底には、こうした強烈な意識があったのだろう。

 以上のような東国での史実と意識とを考慮するならば、結城直光が子孫に足利氏への従属を説く
ことは、決して単純な一般論などではあり得なかった。彼は状況を観察し、「結城家のために(い
まのところは)足利氏に従え」と時流への対応を指示している。そしてかかる判断の正当性を根拠
づけるために、源氏は武家の棟梁である、足利氏は源氏の正統である、だから足利氏は武家の棟梁
である、と論理を展開する『源威集』を作成したのではなかったか。

 あるものは従い、あるものは背き、東国有力御家人は足利氏に対し複雑な反応を示す。足利将軍
家とは、あるいは足利尊氏とは、それでは一体いかなる存在であったのか。『源威集』の論理をも
とに、次にこのことを考えてみよう。

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