加地宏江氏の批判にこたえる


  加地宏江氏は『中世歴史叙述の展開』(1999,吉川弘文館)
 第U編付論二「『源威集』作者再論」において、私の論文を批判され、
 『源威集』作者は佐竹師義であることを再度強調されました。
  氏の作者=佐竹師義説を支える根拠は「鳩の杖」です。これは七〇才
 になると天皇などから賜るものであって、「既に齢鳩の杖を極ぬ」と記
 す作者は七〇才を超えていなければならない。だから作者=結城直光説
 は成立しないのだ、といわれるのです。
  私の恩師A先生は、鰻を召し上がりながら、「この批判に応えられな
 いと、本郷くんは史料編纂所員としての資質を疑われちゃうねえ」と嬉
 しそうにおっしゃったそうであります。罪が『大日本史料』に及んでは
 かなわないので、私の考えをいまいちど記しておきたいと思います。


 1,「鳩の杖」について
  鳩の杖については、鈴木小太郎さんが矢野憲一氏の『杖』を引用され
 ながら、言及されておられます。ご覧下さい。
 ○藤原俊成が90才で鳩の杖をもらっているように、70才で鳩の杖、
  という概念が本当に定着していたの?と疑問を呈する余地がある。
  (少なくとも近世であれば、80才で鳩の杖、が一般的であった。)
  70才で鳩の杖をもらっている例も確かにあるのだけれど、それを
  以て一足飛びに一般化できるのだろうか。いまのところ実例は見当
  たらないものの、60才で鳩の杖、ということすらあるかもしれない。
   そう疑問を持ってしまう本当の理由は、これは科学的な叙述にな
  りにくいのだけれど、古記録中に鳩の杖に関する記述を見た記憶が
  全くといっていいほどないからである。(おまえの古記録を読みが
  足りないんだよ、といわれると返す言葉がないが)
   鳩の杖が中世人の、それも貴族の、で構わないが、日常生活に確
  実に位置を占めていたとは私には到底思えない。それは慣習のレベ
  ルにまでこなれたものではなく、いまだ物事に精通した「物知り」
  による「よそゆき」の儀式だったのではないか。とすれば、「70
  才=鳩の杖」の等式がひろく定着していた、と言いきるには、実例
  が足りないように思うのである。
 ○『舞御覧記』の80才をすぎた作者は「鳩の杖にすがって」現れる。
  この実例でも明らかなように、やっぱり鳩の杖は「老齢」をシンボリ
  ックに表現している
と思われる。
   一方で、『源威集』はあくまでも物語である。ノンフィクションで
  はない。ならば、『源威集』の作者が「ああ、おれもじじいになった
  もんだ、みんな戦乱の中で死んでいったのに、おれはよくぞこの年ま
  で生きながらえた」そんな感慨をこめて「齢鳩の杖を極ぬ」と叙述し
  たとしても奇異ではない。このとき、作者の意識における「鳩の杖の
  年齢」=「老齢、というに相応しい年齢」が60才だとしても、50
  才だとしても、不都合はない
のではないか。なにしろ「人間50年」
  の時代なのであるから。

 2,『源威集』の伝来について
   『源威集』を研究して居られる方に、高橋恵美子さんという方がい
  らっしゃる。氏の論文を挙げておく。
   ●南北朝期における結城氏の存続(「日本女子大学大学院文学研究科
   紀要」第4号、1997)
    ●中世東国武士団と「軍記物」(「同上」第5号、1998)
  氏は後者において『源威集』への結城家、佐竹家それぞれの言及の様
  子を明らかにされている。それによると、
  ○結城家においては、結城政勝、晴朝(室町時代後期、戦国時代の人
  物)が確実に『源威集』を見ている。しかも結城家には現存する『源
  威集』とは別系統の写本も存在した。
  ○(このことは加地氏も言っておられるが)佐竹家に伝来した『源威
  集』は元禄年間に真壁甚大夫なる人物が佐竹家に献上したものである。

   真壁が献上する以前には『源威集』が佐竹家になかった、とは証明
  できないけれど、真壁本が現在に伝えられていることを考えれば、そ
  の可能性は極めて高い。もし佐竹師義が作者ならば、この事態をどう
  説明するのか。また、秋田藩はよく知られるように、歴史に対して格
  別の関心を寄せたている。そうした藩であってみれば、佐竹師義が書
  き残した書物であれば、もっと違った扱いが為されてしかるべきでは
  ないか。
   一方で結城家に『源威集』が複数伝えられていたことをどう説明す
  るのか。師義の家である山入家は師義の子の与義の代に滅んだので
  『源威集』は佐竹本家には渡らなかったのだ、結城家にあったのは
  たまたまだ、というのでは説得力に欠けないだろうか。

 3,『源威集』執筆動機について
   作者は問う「どの家だって元をたどれば王家に連なる高貴な血筋
  なのだ。それなのに何故、源氏だけがこんなに繁栄しているのだろ
  うか?」
。そして彼はその所以を、歴史とともに語り出す。
   私の説(かかる理由で源氏は繁栄している。だから今のところ、
  我が結城家も源氏の棟梁たる足利氏に従っておくべきだ。そう結城
  直光は、子供たち・孫たちに勧めているんだ、というもの)が妥当
  であるか否かは別として(但し、いいせんいっているんじゃないか、
  という自信はハッキリ言って、あります)、作者が藤原氏である結
  城直光であるならば、そうした問いかけを冒頭に置く理由は、他に
  も幾通りかの解釈が成り立つであろう。しかし、作者が源氏である
  佐竹師義では、これをどう説明するのか。
   『源威集』が語っているのは、源氏繁栄の理由としての同家の歴
  である。佐竹家が幕府を開いている、もしくは関東公方である、
  奥州探題に任じられている、等々、我が世の春を謳歌しているとい
  うなら話は別である。けれども当時の佐竹家が格別の繁栄を示して
  いたとは思えない。そんな状況で、なぜ師義は源氏の威勢を考える必
  要に迫られるのか。私には全く解釈の可能性が見えてこない。
   『源威集』を読む、とは畢竟、この問いかけの意味を考えること
  はないのか。作者はどうしてこういう問いかけを発し、源氏の歴史を
  語ることで何をいわんとしているのか。佐竹師義作者説では、この根
  本的な問いかけに答えられないのである。

   以上が、私が加地氏の批判に対して考えていることです。論文に
  して発表する予定は今のところありませんので、こういう形で読ん
  でいただければ幸甚です。