『吾妻鏡』への招待

 かつて歴史家は身命を賭して史書を編纂した。
 古代中国の春秋時代、晋国の名宰相趙盾は暗君霊公(有名な重耳=文公の孫)と佞臣屠岸賈にたびたび暗殺されかけた。趙盾の弟の趙穿はたまりかねて霊公を暗殺したが、非難する者は誰もなかった。急を聞いて駆けつけた趙盾は霊公の葬儀を執り行い新しい国公を立てたが、その趙盾を太史(歴史官)の董狐が激しく糾弾する。史書(竹簡)に「趙盾、その君を弑する」と大書し、廟堂に掲げた。趙盾は「主君を殺したのは弟の穿であって私ではない」と抗議し、訂正を求めた。ところが董狐は一歩も退かない。「あなたは宰相であり、事件のときに国内にいた。しかも犯人である弟を処罰していない。よって霊公を弑したのはあなたに他ならない。」趙盾はやむなく引き下がり、記述はそのままになった。
 60年ほど後、司馬遷が絶賛した晏嬰(孔子の就職活動を拒否した人物としても有名)が宰相になる以前の斉国。荘公は好色で、大臣の崔杼の妻と密通を重ねていた。それを知った崔杼は部下に荘公を殺させ、政権を握った。崔杼に頭を垂れぬのは晏嬰だけという状況下、斉国の太史は堂々と「崔杼荘公を殺す」と竹簡に記述する。激怒した崔杼は太史を殺した。すると彼の弟が出てきて、同じことを書いた。再び崔杼はこれを殺す。そのまた弟が出てきて、また同じことを書いた。崔杼は恐ろしくなり、文章の削除をあきらめた。
 二つの説話は、南宋の遺臣文天祥の「正気の歌」において「斉にありては太史の簡、晋にありては董狐の筆」の名句となった。日本でも維新の志士の間で愛唱され、人口に膾炙した。しかし何とも凄まじい話ではある。現代の史書編纂といえば史料編纂所だろうが、かの所員にはこうした気概のほんの少しでも、分かちもって欲しいものだ。あ、私もか。
 歴史を編纂し叙述することへの強靭な意思は、いったい奈辺に由来するのだろう。それは一つには、「とき」を強く意識した、人間の精神を土台にしている。東晋の桓家といえば画聖・顧ト之や詩人・陶淵明を保護した名門であるが、なかでも帝位を望んだ桓温は次のように言っていた。「男子たる者、百世に芳しきを流せずんば、まさに臭きを万年に遺すべし」。令名を残せないなら、悪名でも良い、後代に我が名を刻みたい。自分が確かに存在したという証拠が欲しい。そうした苛烈な欲求が歴史への強い執着を形成する。
 もう一つ、社会的な厳しい生存競争を忘れてはなるまい。中国大陸では次から次に新しい王朝が勃興し、異民族が頻りに侵入してきた。王朝は自らの正統性を積極的に明示する必要があった。その努力を怠っては、易姓革命に根拠をおく簒奪者が続々と出現し、安定的な政権運営などなし得なかったのである。
 翻って、我が日本国を見てみよう。894年、周知のように遣唐使が廃止された。海外との関わりにネガティヴである方向へ舵は切られたのである。こののち東アジアの辺境に位置する日本は外敵の侵略もなく、反乱もなく、国風文化咲き乱れる安逸な日々を送る。朝廷が編纂する歴史書は901年に成立した『日本三代実録』をもって永遠に終了した。
 時は流れ、鎌倉時代。日本は二度にわたる元寇を経験した。いつまた来襲するかもしれぬモンゴルの影に恐怖しながら、人々は「国家」認識を新たにしたことだろう。ここは日本という国で、自分はそこに生活する日本人だ、という基礎的な確認が広範に為されたに相違いない。1250年頃までには大量の銭が国内に流入し、銭による簡便な取引が行われ始めた。経済活動を通じて日本全国が有機的に結合し、海外との交易が更に活発になる条件も整いつつあった。そこにモンゴルはやって来た。
 国家を意識し始めた人々は、政権担当者に対し様々な局面において、「国家の統治者」であることを要求する。これに応えることができたのは、もはや朝廷ではあり得ず、北条氏の鎌倉幕府であった。1285年の霜月騒動で統治に積極的であった安達泰盛らを失い、幕府は満身創痍になりながらも、一定の「国家モデル」の構築にむけて歩を進めていく。
 一つは領土の確定である。北は外が浜から道南。南は喜界が島。領主である安藤氏と千竃氏はともに御内人であり、北条得宗家は外国との境界の掌握に努めている。
 二つは禅宗の受容である。国家を経営するに際し、宗教の助力は不可欠であった。だが既存の天台・真言宗は朝廷と密接な関係を有し、幕府の影響力はなかなか深化しない。そこで禅宗と唐物をあわせて移入して、従来と全く異なった宗教・文化が創造された。
 そして三つめ。新しい「国の歴史」が編纂された。それこそが『吾妻鏡』である。草深い鎌倉に呱々の声を上げた幕府は、本質的に東国の政権であった。守護・地頭を設置し、承久の乱に勝利し、勢力は西に伸張していったが、その本質は不変であった。しかし東アジア世界との戦争・外交・交易が焦眉の急となった段階では、幕府は日本を代表する政権であらねばならず、そのために存立の正統性を内外に明示する必要があった。かくてできうる限り客観的に、読者を納得させられるよう、『吾妻鏡』の編纂が進められたのである。
 幕府の真の王たる北条得宗家には、致命的な弱点があった。悪名でも良いから、と桓温が固執した「名前」を、北条氏の祖先は何一つ遺していなかったのである。源氏将軍家には奥州征伐の壮大なストーリーがあった。小山氏は将門追討の、千葉氏は平忠常の説話を仲間たちに誇ることができた。ところが北条氏は家の歴史・物語を持たなかった。
 『吾妻鏡』編纂は、この意味においても、すなわち家の物語の構築という観点からしても、北条氏にとって意義深い作業であった。どのような道程を経て北条氏は御家人の支持を獲得し、政権を樹立したのか。歴史を高く掲げて北条氏政権の正統性をアピールする。ただし、この点が重要なのだが、『吾妻鏡』の第一の目的が新しい「国の歴史」の叙述である以上、それは単純な「北条氏礼賛」に堕することはなかった。『吾妻鏡』が語りたいものは幕府の歴史であり、国の歴史であって、北条氏の歴史ではなかったのである。
 さて。いま五味文彦先生を中心として、吉川弘文館のご協力を得、『吾妻鏡』を現代語訳するプロジェクトが動き出そうとしている。本書を平易な文章に訳して、歴史に興味を持つ方に気軽に読んで戴くことを目的とするものである。中世とはどんな時代であったのか、日本とはどんな国であったのか。本書を介して想いを「とき」のかなたに馳せてもらえれば幸いである。それはまた、「いま」を問い直す行為に他ならないのだから。
 五味文彦監修・現代語訳『吾妻鏡』は、丁寧に訳をつけるため、15冊を超えるものになる予定である。作業を担当する私たちは、いにしえの歴史家のように「身命を賭して」、これは流石に大仰かな、背筋を伸ばして机に向かわねばなるまい。どうぞご期待下さい。