本冊は、正親町天皇天正二年(一五七四)六月十七日より七月末日までの史料を収める。
中央の織田信長の動きとしては、まず高天神城赴援の出陣がある。信長は、武田勝頼によって包囲された遠江国高天神城を援護するため、子信忠とともに出陣した。しかし三河吉田まで赴いたとき、もとは家康方であった高天神城主小笠原氏助の降伏、高天神城落城の報を聞いて、撤兵している(六月十七日条)。そしてその返す刀で、懸案であった伊勢長島の一向一揆を攻めるため出陣、諸城の攻略に着手した(七月十二日条)。
なお武田氏対策に関して信長は、上杉謙信に書状を送り、九月上旬に両軍で武田氏を挟撃することを約束している(六月二十九日条)。
朝廷関係では、伊勢神宮仮殿遷宮の事始が行なわれた(六月二十八日条)が、実際の遷宮は天正十三年まで待たなければならない。またほかに、東国の真言宗衆徒の絹衣着用を許可し、天台宗側にそれを認めさせる内容の綸旨が発給されている(七月九日条)。いわゆる「絹衣相論」と呼ばれる真言宗と天台宗の対立である。これまでこの発端となった天正二年七月の綸旨は未紹介であったが、「実相院文書」「高野山光明院所蔵文書」にその写しが残されていることが判明し、今回それらを収めた。これによって絹衣相論の一連の経過を発端から追うことが可能となった。結果的にこのとき発給された綸旨は、のちに柳原資定による謀書と断定され、この相論は翌天正三年、同四年へと持ち越される。
地方に目を向けると、中国地方では、毛利輝元が北島久孝に出雲国造職を安堵した(六月十八日条)ほかは、目立った動きを示す史料はない。
九州地方では、後藤貴明が実子甫子丸(晴明)を嗣子に擁立しようとしたことに端を発する養子惟明とのいさかい、龍造寺隆信と貴明の盟約成立、貴明・惟明父子の和睦に至る史料を収める(七月十日条)。この父子間対立は、八月十七日に至って収束を見せるが、この間多くの無年号文書を騒動に関連するものとしてすくい上げたことにより、肥前国人衆の合従連衡の内実が立体的に浮き彫りにされた。またこれに関連して、龍造寺隆信は、後藤惟明と結んだ平井経治を須古城に攻撃している(七月二十二日条)。
関東地方では、北条氏の動きは急で、北条氏政が由良国繁の要請によって上野厩橋城を攻め(七月二十六日条)、弟氏照は謙信に属する簗田晴助・持助父子が守る下総関宿城攻めを開始する(七月二十七日条)など、関東における上杉氏の拠点の攻撃をさらに強めている。
上杉謙信は、それに対して援兵を出すいっぽうで、自身は越中・加賀攻略のため出陣、加賀朝日山城を攻略している(七月二十八日条)。この合戦に、吉江家から中条家に入嗣し、前月に軍役を定めたばかり(六月二十日条)の景泰も従軍したが、鉄砲の前へ駆け出すなど、剛勇ゆえの突出ぶりを危ぶんだ謙信は、景泰を「いまにおしこめ」、両親(吉江景資夫妻)に宛てて「さためてあんすへく候」と心遣いにあふれる書状を送っている。
東北地方では、四月に伊達実元が二本松城畠山義継の属城八町目城を攻めて以来交戦状態にあった伊達氏と畠山氏であるが、田村清顕を介して畠山氏側から和睦の申し入れがあったのにもかかわらず、伊達輝宗はそれを拒絶した(六月二十二日条)。また、出羽寒河江城の寒河江兼広が輝宗に背き、最上義光に属するという報を受け、輝宗はさっそく最上領口に位置する新宿まで出馬し、最上氏を威嚇している(七月二十五日条)。
死没・伝記として、下総臼井城の臼井景胤(七月五日条)、義昭の旧臣三淵藤英・秋豪父子(七月六日条)、南禅寺・相国寺などの住持をつとめた禅僧仁如集堯(七月二十八日第二条)を収録した。
三淵藤英は、前年七月、信長に対し抵抗を企てた義昭に与して二条城を守ったが降伏、その後居城の伏見城も廃城の憂き目にあい、近江坂本城に預けられていたと思われ、当所で子秋豪とともに切腹させられている。血縁的には細川藤孝の異母兄に当たり、義輝以来奉公衆として将軍に仕えた近臣であった。本冊では、前名藤之時代の発給文書や奉公衆としての活動、義昭入京前後における京都周辺地域の支配者としての活動を示す史料を収録した。最末期の室町幕府奉公衆の活動形態を見るうえでも興味深い。
仁如集堯は、「中世五山文学者の掉尾を飾る人」という評価(『国史大辞典』)が与えられている著名な五山禅僧である。彼の詩文集『鏤氷集』を中心に、彼の詩作、師弟関係、交友関係、詩文の講義に関する史料などを収めた。
(目次六頁、本文二九九頁、本体価格六、七〇〇円)
本条では『史料綜覧』の綱文を上記のように訂正した。『史料綜覧』『越佐史料』、および「上杉輝虎公記 下」(架番号4144.35-2)の綱文は以下のようになっている。
「編年史料稿本」および1では、中条与次を景資に比定するが、この拠って来たるところは『上杉年譜』の記述にある。『上杉年譜』は、天正2.6.20謙信朱印状を引用して、(A)中条越前入道藤資の家督は与次景資であること、(B)この与次は吉江常陸介宗信の子息であること、以上二点に触れている。
いっぽう2では、「吉江系図」(未見)を援用して、(A)藤資を継いだのは景資ではなく景泰であること、(B)景泰は吉江景資の子息であること、を綱文で述べる。
さらに3では、中条系図を根拠として、(A)景泰が継いだのは景資跡であること、(B)2と同じ、のように主張する。
以上まとめると、
(A) | (B) | |
(1) | 藤資=与次景資 | 吉江宗信―与次景資 |
(2) | 藤資=景泰 | 吉江景資―与次(景泰) |
(3) | 景資=景泰 | 吉江景資―与次(景泰) |
となる。ポイントは、吉江氏(宗信〜景泰)の系譜関係、および、中条氏の系譜関係(とりわけ中条景資の存在)である。
まず吉江氏。『越佐史料』巻六(p222)所収の「吉江系図」では、宗信(1505〜82)―景資(1527〜82)―景泰(1558〜82)。三人とも同時期、越中にて戦死している。 文書上で確認すると、景資の官途は織部佑。永禄3(1560)から戦死した天正10(1582)まで及んでいる。景資死後の天正10.8.15付景勝書状(新3680号)で景勝は、吉江与橘(長忠…景泰弟、1566生)に対して、「亡父織部佑」と書いているから、官途織部佑のまま戦死したものと思われる。すなわち与橘(長忠)の父は織部佑(景資)であることが確認できる。
またその前年天正9.11.晦に、「常陸入道宗〓(もんがまえ+言)」が中条越前守と吉江与橘に対してほぼ同内容の書状を出している(新1904,3672)。これは同日発給された景勝安堵状(新3678)の内容を報告したものだが、新潟県史は名宛人をそれぞれ中条景泰・吉江長忠に比定する。上の考証を勘案すれば、この二人は兄弟で、かつ宗信の孫に当たるとする「吉江系図」の記述は正しいと見て間違いはないのではあるまいか。
次に中条氏。「中条文書」中に残された系譜類では藤資―景資=景泰とする。ところが景資に該当する人物が登場する文書が管見では一通もないため、景資と景泰を同一人と見たりする状況が生まれたのではないだろうか。
◆関連文献本文書(以下Aとする)は、下山治久氏によれば、同じく田中氏所蔵文書中に含まれる6.4付伝馬定朱印状(戦767号 以下Bとする)の添状として理解され、月日の上に書かれている「戌」と「如意成就」の印文によって永禄5年のものと比定されている(下山治久「後北条氏の伝馬制度」,『後北条氏の研究』所収)。
この下山氏の理解は、『戦国遺文』でも踏襲され、通説といってよいものであろう。『新編武州文書』では、Bのみが「永禄五年カ」の傍注を付されている。いっぽう『大日本史料』10-22において、Bが採録されているので(p255)、ここでは永禄5年ではなく天正2年「甲戌」のものと断定していることになる。
問題は、(1)これら二つの文書はセットなのか、(2)そのうえでそれぞれの年次はいつなのか、の二点に分けて考えることができる。
Aは、その文言から、伊那・平井両郷の伝馬役負担に関して発給された「虎御印判」を受けて発給されたことがわかる。いっぽうBは、平井郷伝馬奉行に宛てて、平井郷の伝馬負担を定めたもので、日付はAより二週間早い。
下山氏は、「氏照もこの伝馬掟(B)が平井郷に出されると、すぐ、平井・伊奈両郷の代官・百姓中に「如意成就」の印判状でもって(…Aを引用…)と添状をしている」と、A・B二つがセットであることを論じる。その理由として、謙信の小田原侵攻によって国中が不安定になり、平井郷など分国の境目の郷村が疲弊していたから、Bで通達された平井郷の負担をとなりの伊那郷との隔番へと軽減したもの、と考えられている。時間的な差はこれで説明ができる。内容的にも、伝来状況を見ても、二つをセットと考えるのが自然であろう。
次に年次比定の問題。下山氏が永禄五年と比定する根拠は、この当時の平井郷一体は氏康の二男氏照が滝山城の大石氏の跡を継いで滝山城に入城(永禄二年前後)して城領支配をはじめた初期の頃とされ、先述のように、謙信の侵攻などで青梅一帯の郷村が疲弊していた、という事情による。
文書に書かれた十二支の「戌」は、この永禄5年壬戌(1562)、天正2年甲戌(1574)、天正14年(1586)丙戌の三ヶ年が考えられる。相田二郎氏によれば、氏照使用の印章は、永禄2年から「如意成就」の印文をもつ方形朱印であったが、元亀の末年ころ印文未詳の方形朱印に改めたと論じられている。すなわち「如意成就」印を使用する「戌」の年は、永禄5年しかなく、上の政治状況とからめて考えても、下山氏の論は妥当なものということができよう。
したがって不採とする。10-22収録のB文書もまた永禄五年のものと訂正しなければならない。
〔参考〕相田二郎「北条氏の印判に関する研究」(『後北条氏の研究』所収)
◆「如意成就」印
上部に象の形像を、下部に印文として「如意成就」の四字を刻む。大きさは縦二寸四分、横二寸三分ある朱印。その印判状の遺存する地域が滝山を中心としている事実等から、氏照のものと断定できる。永禄2年頃から同12年頃までの間に使用
◆印文未解の印判
方一寸四分二厘の朱印。この印判の捺してある印判状と、氏照の書状ならびに判物等と各右筆の筆跡が同じであること、この印判状の遺存している地域が、氏照の居城を中心とした方面であることから、氏照の印判と断定。元亀3年頃から天正18年までの間使用
◆まとめ
氏照は、永禄の末年から元亀3年迄の間において、「如意成就」の印判を廃して、印文未解の印判を新しく用いはじめる
天正2.6.21 大宮社人中宛 評定衆勘解由左衛門尉康保署判朱印状(「東角井文書」3071.34-18,2丁/「氷川神社文書」6171.34-11,p1)
上記のように、影写本では「東角井文書」、写真帳では「氷川神社文書」と呼称を異にする。
奥書から推測すると、明治19年の時点で氷川神社祠官東角井氏の個人蔵として影写され、文書名も「東角井文書」とされたが、のち氷川神社の所蔵に移され、現在に至っているものと思われる。
本文書とともに影写された「東角井文書」の中に、元亀三年卯月朔日付「北条家掟書写」(文書名は『戦国遺文』1588号による)があり、すでに10-9(p1元亀3.4.1条)に採録されている。文書名は「東角井文書」。もっともこれは写真帳には収められていないことから、影写以後に散逸したものと推測される。この場合、『戦国遺文』も「東角井文書」としている。
元亀三年の文書は、影写本でしか見られない以上「東角井文書」でいいが、本文書の場合、写真帳に含まれ、かつこれが現在の所蔵者を現わすものであるから、文書名は「東角井文書」ではなく、「氷川神社文書」○武蔵とすべきであろう。
潮田出羽守・同左馬允
寿能城主。寿能城は現在の大宮市寿能町一丁目から二丁目にかけての台地上に築かれた平城(『大宮市史』二,p382)。『新編武蔵風土記稿』五(活字本1041.34-62-5,p978)には、「永禄天正の頃北条の麾下潮田出羽守資忠、其子左馬允資勝居住せしに、天正十八年小田原落城の時、彼地に於て父子ともに討死し、当城には家人北沢宮内等籠城せしか、防戦力及はすして民間に落隠れたりと云」
とある。
出羽守=資忠/左馬允=資勝に比定してよかろう
10-9, p1(元亀3.4.1条)「北条氏政、諸人の、武蔵足立郡大宮境内及び寺家・社家に違乱を為すを停む」の連絡按文に本条が掲げられている。そこでは、「氏政、大宮社人の、領主潮田左馬允と、社領に就きて争ふを裁すること」となっている。
たしかに『史料綜覧』の綱文「武蔵大宮社の条規を定む」は誤りではないのだが、漠然としすぎている感がある。よって上の連絡按文に準じて綱文を訂正する。そのさい、「潮田左馬允」は実名が明らかになっているので、「潮田資勝」にする。
『大日本史料』『静岡県史料』など古いものは氏堯、『戦国遺文』『静岡県史』など最近のものは氏光とする。これは黒田基樹氏の研究成果によるものであろう(黒田基樹「北条氏堯と北条氏光―「桐圭」朱印の使用者をめぐって―」(同著『戦国大名後北条氏の領国支配』岩田書院、1995年、初出1988年))。
ここでも黒田氏の見解にしたがい、「桐圭」朱印を北条氏光のものとし、綱文に「尋で、北条氏光、之を北条家の将与一郎に渡さしむ」を追加する。
(1)天正2/6/26 右中弁中御門宣教奉綸旨 → 円通寺良迦上人御房
(2)年未詳6/28 勧修寺晴右 → 益子右衛門尉
「円通寺記録」一(6115-4-1)所収「円通寺起立並由緒書」中に、(1)の宛所となっている良迦について、「是中興也、姓氏益子右衛門殿一家、源氏孫ニ御座候由、此代ニ勅願所成、本堂三門額字勅状末〔朱カ〕印」
とあり(p16)、益子氏に出自をもつ人間であることがわかる。
また、円通寺と益子氏の関係については、「右、此益子城主当寺直檀越ニハ無之候得共、中興良迦上人エ因為御一家、境内亦勅願所ノ添状等出情、外護之檀越也、依之代々過去牒載之候」
とある(p20)。こうした関連を示すため、本記録の当該部分を新たに採録した。
『益子町史』第二巻(以下『益』)では、(1)−294号・(2)−295号として収載(p470〜)。
(2)の「益子右衛門尉」を治宗と比定。根拠は、「佐八文書」所収の「右衛門尉治宗書状」四通(『益』370〜72号)で、内容は、初尾治宗が佐八神主に初尾などを献上するというもの。このうちの一通(371号)年未詳正月十七日付書状の封紙に「益子右衛門尉治宗」とあるので、この「右衛門尉治宗」は益子氏であることが確認できる。
これらは本所架蔵のレクチグラフ「佐八文書」一(6800-115-1)でも確認済。
『益』では、益子右衛門尉を治宗と比定しておきながら、「益子系図によれば、勝宗の子勝忠がこれに当るものと思われる」
と蛇足を加えている。とくに益子系図に依拠する必要はないと思われるのだが、天正14年前後の時点での右衛門尉治宗と、天正2年の右衛門尉を同一だと判断することも慎重にすべきなので、「治宗カ」程度か。
卒伝編纂時に得た知見などについては、金子拓「室町幕府最末期の奉公衆三淵藤英」(『東京大学史料編纂所研究紀要』12、2002年3月)にて別にまとめてあります。そちらをご覧下さい。
本綱文は、『史料綜覧』にはないものであり、今回新たに追加した。
1.「寛延旧家集」○清州越由緒有之町人/本町唐本屋 市右衛門(6175-26,p7)
2.『名古屋市史』地理編(1041.55-3-5,p107)
3.『名古屋叢書』第六巻地理編(1041.55-90-6,p363)
2・3はいずれも1の翻刻
3では「金鱗九十九之塵」という史料の中に収められている
相互に若干字句の異同があるが、写真帳1がある以上、それに拠る。
元亀三年十二月二日条2;信長、尾張伊藤惣十郎を、尾張・美濃両国の商買司と為す、(10,p362)
天正二年正月是月条;織田信重、伊藤宗十郎に、尾張・美濃両国に於ける商人司を安堵す、(20,p605)
元亀条では伊藤宗十郎をわざわざ「惣十郎」と傍注しているが、天正二年条ではそうした措置をとっていない。いかなる理由か不明だが、天正二年条に依拠するべきか。
本綱文は、『史料綜覧』にはないものであり、今回新たに追加した。
いわゆる「絹衣相論」と呼ばれる、常陸国内の真言宗衆徒と天台宗宗徒の争いに関連するものである。本件に関する研究として、古くは宮田俊彦「戦国時代常陸国天台・真言両宗の絹衣争論」(『歴史地理』91-1、1964年)、最近では鈴木芳道「戦国期常陸国江戸氏領絹衣相論に窺う都鄙間権威・権力・秩序構造」(『鷹陵史学』25、1999年)がある。
天文年間にはじめて歴史上にあらわれるこの相論は、天台宗僧が、関東の真言宗僧(東寺門徒)が絹衣を着用していることを訴えたことに端を発したものと思われ、このときは東寺門徒の絹衣着用を禁ずる後奈良天皇綸旨が発給されている(「薬王院文書」『茨城県史料』中世編2所収)。
その後しばらく本件に関する争いは史料上に見えなくなるが、再び問題となるのが、今回の天正二年である。本件はその後翌年天正三年、翌々年同四年へと解決が持ち越され、織田信長の介入を見る。詳しい経緯は、上掲鈴木論文を参照されたい。
天正二年、絹衣相論に関して発給された正親町天皇綸旨は柳原資定の謀書とされている。鈴木論文によるとこの「柳原謀書綸旨は伝存していない」
とされていたが、今回この「謀書綸旨」と思われる綸旨およびそれに類する文書が複数見いだされたので、新たに採録した。以下これらの綸旨を簡単に紹介する。
本条では『史料綜覧』の綱文を上記のように訂正した。『史料綜覧』の綱文は、「陸奥寒河江城主木下勘十郎、伊達輝宗に背き、最上義光に属するに依り、輝宗、之を撃たんとし、是日、同国新宿に出陣す、」となっている(太字部分訂正箇所)。
(1)「長谷文書」(3071.23-25)年未詳7/16輝宗書状 → 亘理修理助
(2)「長谷文書」(3071.23-25)年未詳8/10輝宗書状 → 亘理修理助
これらの書状を天正二年七月の対寒河江戦のものとできるかといえば、むずかしい。
→いずれにせよ天正二年とは断定できないので、不採。
『寒河江市史』上巻、第八章「国中の乱逆」第三節「最上氏との確執」では、城主を寒河江(大江)兼広とする。同上書所収「安中坊系譜」に拠ってみても、この時期の寒河江氏当主は兼広でほぼ間違いない(同上書p982)。「安中坊系譜」とは、山形県西川町吉川安中坊に伝存し、奥書によると、寛永20年(1643)に作成されたものである(同上書p340)。
『史料綜覧』が載せる寒河江城主木下勘十郎とは、兼広の養嗣子となった高基の弟で、寒河江氏の執政とされる橋間勘十郎頼綱のことであろうと思われる。以下臆説に過ぎないが、軍記『最上義光物語』(『続群書類従』二十二輯上、p476)には「寒河江の領主羽柴勘十郎」、同『奥羽永慶軍記』巻三(『改定史籍集覧』8)には「羽柴勘十郎」とあり、この姓「羽柴」を豊臣秀吉がまだ羽柴姓を名乗る前の木下姓であったことから、「木下」と読み替えてしまったのではなかろうか。
したがって、寒河江城主を木下勘十郎から寒河江兼広に変更する。
「千葉文書」(『山形県史』資料編15上古代・中世史料1所収)年未詳二月四日輝宗書状写 → 中ノ目宛
本来天正二年正月二十五日条(第20冊)に入るべき史料であった。内容を読むと、『伊達治家記録』正月二十九日条の典拠となっていることがわかるからである。将来「補遺」として収録することを期したい。
参考文献:青柳重美氏「天正二年の最上家内紛について」(『山形県地域史研究』17、1992年)
本条では『史料綜覧』の綱文を上記のように訂正した。
『史料綜覧』の綱文は、「北条氏政、由良成繁の請に依り、弟氏照を遣し、上野厩橋城を攻めしむ、是日、上杉謙信、兵を遣し、同城を赴援せしむ、」となっている(太字部分訂正箇所)。訂正理由については以下に述べる。
※文書頭の番号は収録順序
(3)(4)について、黒田基樹氏は、氏政の花押型から天正2年のものと推定。「来調儀」を厩橋攻めとする(「北条宗哲と吉良氏朝」、同著『戦国大名領国の支配構造』岩田書院、1997年)。二つの文書の宛所、江戸氏と大平氏は吉良氏家臣とする。
(2)の宛所治部少輔は、最近長塚孝氏・黒田基樹氏によって北条氏秀であることが判明(長塚「江戸在番衆に関する一考察」『戦国期東国社会論』所収、黒田「玉縄北条氏の族縁関係」前掲書所収)。氏秀は武蔵岩付・江戸・下総関宿の城将をつとめた北条氏の一族。長塚氏によれば、天正2年夏頃氏秀は、北条氏の関宿攻略のため岩付に在城していたと推測されている。文献の上では天正2年から活動徴証があらわれる。
○(2)と(3)(4)との間の比較
・日付が同日
・(2)「来調儀、当家之是非与深思給候」⇔(3)(4)「来調儀、当家可為是非之動」
・(2)「同心衆へも二三通別紙ニ遣候、是者一人も人衆渦上ニ召連候へ与之儀ニ候」⇔(3)(4)「於此一廻ハ無足衆迄被召連様、可有馳走候」
もちろん江戸・大平の両名は吉良の家臣であって氏秀と主従関係にあったわけではなく、相互に連動していたとは見なせない。しかし、(2)から、氏秀の家臣に宛てて(3)(4)のごとき文言をもつ文書が発給されたこと、(3)(4)から、吉良氏朝に宛てて(2)のごとき文言をもつ文書が発給されたことは推測できる。(2)で予告されている「出馬盆前後」は、北条氏厩橋攻撃と時間的に矛盾しない。
→以上、(2)(3)(4)を採録
「常陸誌料」所収「後佐竹氏譜」(2041.31-6-7)によれば、「(天正元年)七月、義重将攻木田余〈胤信筆記、小山孝格与那須資胤書〉」とある。本史料は、天正元年七月二十五日条(16-p358)、佐竹の宍倉・戸崎攻めに〔参考〕としてすでに引用されている。
このうち前者の「胤信筆記」はその性格など不明であるが、後者(下線部)の文書は、この常陸遺文所収文書を指していることは間違いない。
この8/9小山秀綱書状を天正元年のものと比定するならば、その後段で触れられている「将又氏政去月廿八出馬、忍・羽生之間、号小松与所ニ被陣取之由」もまた、当然ながら天正元年のこととなる。つまり北条氏政は天正元年七月二十八日出馬し、忍・羽生の間の小松に在陣していたのである。
この事実を裏付けるものとして、天正元年7/23北条氏政書状がある。7/23書状は、天正元年七月二十三日条(16-p352)に根拠としてすでに引用されており、この文書は天正元年のものとしてほぼ間違いないようである。
このなかで氏政は、「然者、来廿六七之間、必令出馬候」と七月二十六日あるいは二十七日に出馬すること、かつ、「先利根川端へ打出、各味方中相談」ととりあえず利根川端へ出陣することを蘆名盛氏に確約している。このことは8/9書状の事実とおおよそ合致する。
以上より、8/9小山秀綱書状は天正二年のものではなく、天正元年のものとすべきである。したがって不採
となると、天正元年・二年、北条氏はいずれの年にも七月から八月にかけて北関東に向けて出陣していたことになり、他の関連文書も慎重に検討していく作業が必要となる。
(5);氏照7/15出陣、十余日上野国大胡・厩橋を攻略の後撤兵、8/12の時点でまもなく再出兵する予定であることを告げる → 天正二年
(7);7/26以前に氏政出兵の報が謙信にもたらされる、謙信が関東出兵を行なう予定を告げる → 天正二年
(1);7/21以前に氏政が厩橋に向けて出兵したことがわかる → 天正二年
(8);8/3以前に北条氏が厩橋に向けて出兵したことが告げられ、謙信も出兵する決意をあらわす → 天正二年
本条では『史料綜覧』の綱文を上記のように訂正した。
『史料綜覧』の綱文は、「北条氏政、弟氏照をして、上杉謙信の党簗田晴助を下総関宿城に攻めしむ、尋で、晴助、宇都宮広綱に憑りて、謙信の出兵を求む、」となっている(太字部分訂正箇所)。訂正理由については以下に述べる。
『史料綜覧』には、次の四つの典拠があげられている。
(1)「安得虎子」
(2)「宇都宮氏家蔵文書」
(3)「楓軒文書纂」
(4)「常陸誌料」
以下、この四点の史料を検討する。
(2)のみ採用。(2)より、綱文を訂正する。
刊本(二−p334)では七月晦日条になっている。『多聞院日記』の天正二年分はところどころに錯簡が存在するため調べたところ、『史料綜覧』の日付六月二十九日は誤りであることが判明した。よって七月三十日条に新たにかける。
以下、刊本と本所架蔵写真帳(『興福寺史料』二十三函 6170.65-7-25)との対照表を掲げる。
刊本(頁数) | 写真帳の所在 |
---|---|
3.20〜29(p322〜23) | 7.26の後に(p110〜13) |
6.22〜29(p331) | 10.28の後に(p104) |
7.1〜26(p331〜34) | 3月と4月の間に(p105〜10) |
7.27〜30(p334) | 6.21の後に(p127〜28) |
10.24〜28(p335〜36) | 3.19の後に(p102〜04)< /TR> |
10.29〜30(p336) | 8.3の後に(p129) |