「絵巻のなかの《伊予簾》」補注   藤原 重雄

 

(1) 本文中でうっかり触れそびれた、室井綽氏『竹と笹』(井上書店、一九五六年)に見える博物学・植物学的記述をご紹介します。(本稿注11参照)

 この笹[スダレヨシ、一名イヨスダレのこと]は節に長粗毛が水平に出る外には、葉にもどこにも、うぶ毛も絶えて持っていない種類である。稈は直径一・五ミリ内外の細いものである。筍は五月頃に糸のようなものが出て、その年には殆ど分岐せず、長いものは一メートル内外、節間最長十センチになるのである。晩秋の寒気に触れると葉は黄化して殆ど枯れ年内に落ちてしまう。この頃、稈は自然に晒されて白色の美しい色が出る。それを毎年一月から春の彼岸ごろまでの晴天に刈り取って干すか、または数日、水に浸して後に乾かすと一層美しい光沢が出る。この刈り取った竹稈を二尺八寸(八十五センチ)の縄で束ねて大阪、神戸の市場に出し、簾に編まれて、更に小売商人の手に渡るのである。…… (一八一頁)

 白い(少なくとも真新しいものについて)という属性は、図像に「伊予簾」という限定的なことばを結び付ける際に、決定的な点と思われますので補足いたします。

 本書によれば、この種は「本州、四国、九州原産」(四七頁)で、「市場には愛媛県全般の外、大分県からも優品が出されている」とのこと(一八三頁)。より新しい白方勝氏のご論文(一九七六年、本稿注12参照)では、「今僅かに上山物産で製造されている」とあります。モノに即した実地調査を、いずれ試みたいと思います。

 

(2) 注51で触れた『明月記』の記事は、前稿にて取り上げるべきものでした。この記事については既に、須田敦夫氏『日本劇場史の研究』(相模書房、一九五七年)第七篇第六章第二節で詳しく紹介されています。基本的文献といえる本書ですが、佐野みどり先生にご示教いただくまで存じませんでした。この場を借りておん礼申し上げます。

(以上2点は、一九九六年九月、抜刷に添付したご挨拶状の一部です。)

 

(3) 細かな修正点は多々ございますが、本文あるいは注にて触れるべきであった早い時期の文献史料を補足いたします。(一九九九年五月記)

 a:「太上法皇御受戒記」寛和二年(九八六)三月二十一日条
 (『大日本史料』第一編ノ二十四・二〇五頁、『東大寺要録』巻九にも所引〈国書刊行会本・三四一頁〉)
 (円融法皇、奈良御幸の途次、源重信の宇治別業にて休息。室礼に伊予簾がみえる。)

 b:『小右記』寛仁三年(一〇一九)正月九日条(大日本古記録本・第五冊一〇三頁)
 宰相来云、…次(小一条院)御堀川院、寄御車西対、相府(藤原顕光)在此対、御息所(藤原延子)又同所云々、
 件対懸伊予簾、又其他事甚見苦、致行朝臣外又無人、極多恥辱云々、不幾還給者、
 (伊予簾が格に劣る存在で、高貴な人物にはふさわしくないことのわかる記事。)

 c:『左経記』長元(一〇二八)五月十四日条(増補史料大成本・二二四頁)
 早旦参関白殿(藤原頼通)、今夜為違方、女院(東上門院)可令渡給者、仍寝殿御装束、其儀、御障子等如〔常〕〈唐絵〉、御簾伊予簾、御屏風黒絹、御几帳骨白木、帷黒絹、御座黒絹、縁辺敷絹青鈍縁、不立御帳、…
 (この時に東上門院は、前年十二月に父藤原道長が死したことにより服喪中で、その一環として、室礼が改められ、伊予簾が用いられている。) 

 

(4) 本稿発表後、加藤悦子氏よりおおよそ次のような趣旨のご指摘を頂戴いたしました。どうもありがとうございます。

 「久保惣本『伊勢物語絵巻』絵第七段(くたかけ)に描かれている簾は、伊予簾ではないのか。そして、鄙びた場面に伊予簾を描くことが隆兼系の絵画で認められることにならないか。また、この縁と同じ文様は、『春日権現験記絵』巻一五第五段(紀伊寺主の屋敷)にも見えている。」

 拙稿では、簾の図像を分節する際に、縁の有/無をわかりやすい指標として論じており、竹の部分は白・薄緑色であるものの縁取りを備えた簾の存在が、曖昧にされています。ご指摘戴いた場面についても、この問題を考える際には軽視してしまいました。しかしこの度、この場面に関する解説等を調べたところ、秋山光和氏によって大変重要な指摘がなされていることに気づきました。[秋山83四五頁および注19]

 すなわち秋山氏は、遠い陸奥で都の男を慕う女の住居という情景を示すための画家による配慮の一例として、簾の表現について詳しく記述されております。そのなかで、この簾は「伊予簾」ではなかろうかと指摘され、『春日権現験記絵』巻七第二段(尊遍母開蓮房の夜景)に描かれるのも同種との考えを明らかにしておられます。

 拙稿では、図像への名付けの点で、鈴木敬三氏の指摘のみを先行研究として紹介おり、論文執筆に際して参照可能であったはずの文献を見落したことになり、文字通り管見の不備をおわびいたします。ご指摘を踏まえて画面を見直すと、詳しくは秋山氏のディスクリプションに委ねますが、竹の部分は明らかに白く描こうとしており、拙稿で指摘した『春日権現験記絵』での伊予簾の描写と同類と考えてよかろうと思われます。

 また縁の文様に注目すると、ご指摘の他にも『春日権現験記絵』巻五第二段(繁栄する藤原俊盛邸)で、庭に近く、子女らの遊ぶ建物に懸かる簾を見いだすことができます。同じ場面の主屋には、濃い緑色の普通の「御簾」も描かれており、白みの強い緑色で描かれているこの簾も、やや特殊なものとして気にかかっておりましたが、この縁『伊勢物語絵巻』と(手を見分けるレベルでの)全くの同一文様とは言えないにせよ、白の花紋が剥落しているようで、青地に黒という配色など、大変似通ったものです(この部分の拡大図版[三の丸尚蔵館93三二頁])。ご教示賜った『春日権現験記絵』巻一五第五段を併せ考えると、縁の文様(裂の種類)にも格差があり(あるいは絵画表現上、使い分けがなされ)、この文様には〈本格的でない、ひなびた地、それに対する蔑み、またそれを逆手に取った装飾性〉といったニュアンスが込められていたと考えられます。

 縁を備えたものでも、こうした絵画表現の上での、また価値判断での共通性が確認できますので、秋山氏・加藤氏のご指摘に従い、これらも「伊予簾」と名付けることにいたします。そして、この縁の文様が名付け可能なのか、今後注意してゆきたいと思います。曖昧にしていた点につき、大変有益なご教示、どうもありがとうございました。  (一九九九年六月記)

  参考:
  秋山光和83 「解説」
    (日本古典文学会編『伊勢物語絵巻 久保惣記念美術館蔵一巻』〈復刻日本古典文学館第二期〉ぽるぷ出版)
  加藤悦子92・93 「和泉市久保惣記念美術館所蔵「伊勢物語絵巻」の考察(前・後)」
    (『美術史論叢』〈東京大学文学部美術史研究室〉八・九)
  三の丸尚蔵館編93 『宮廷文化の華』(三の丸尚蔵館展覧会図録No.1)

(5) 中世後期以降は本稿での対象としておりませんが、伊予簾が近世の祭礼行列の練物のモチーフとしてとりあげられている面白い例がありましたので、ご紹介します。近年、福原敏男氏によって検討の加えられた『東照宮祭礼賦物図巻』は、岡山の東照宮祭礼を描いた絵巻で、元文四年(一七三九)から四年間行われた、城下町六十二町の惣町参加による、『庭訓往来』に取材した練物「庭訓売物」の様子を窺い知ることができます。計61+1種の諸国名産・商人がモチーフとなっており、その中に「伊予簾」が見えます。カラー図版が下の参考文献に掲載されていますので、ご参照ください。   (一九九九年六月記)

  参考:福原敏男99 「祭礼の練物−−岡山東照宮祭礼−−」(『国立歴史民俗博物館研究報告』七七)


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録