鎌倉後期の知行国制 

                             遠藤基郎

はじめに

 本稿は鎌倉後期の公家政権の権力機構及び後醍醐政権の歴史的意義を考察する一作業として、知行国制を取り上げ、その実態を明らかにせんとするものである。
 鎌倉時代の公家政権論の意義は二点に集約される。そのいちは中世国家論のための基礎的作業としてである。中世国家なかんずく中世前期に関しては、それを権門結合体として理解する黒田俊雄氏の「権門体制論」及び、王朝国家・幕府の二つの国家の並存状態とする佐藤進一氏の「二元的国家論」の二つがある(1)。いずれの立場を取るにせよ、個別実証的研究の蓄積が重要であることは言うまでもない。特に公家政権論は、近年優れた研究が現われてきてはいるものの、実証的制度分析の面ではなお追及すべき課題が多い(2)。このような研究史の状況を鑑みる時、朝廷独自の構造分析は、なお意味のある作業と言わねばならない。
 いまひとつは後醍醐政権理解のための基礎的作業としての意義である。最近、後醍後政権に関わる研究史の整理をされた市沢哲氏は、後醍醐政権像の再構築のため、その前提となる公家政権からの連続的側面に注目すべきであろう、という示唆的な指摘をされている。(3)確かに従来の議論においては後醍醐政権の特殊性に注目するあまり、前代との断絶を強調し過ぎる傾向にあった。市沢氏の提言を受け止め、今一度鎌倉時代の公家政権の問題を洗い直し、後醍醐政権と比較することは、後醍醐政権理解にとって有意義な作業となるはずである。
 鎌倉期公家政権論は以上の意義を有する。本稿は以上の研究史の要請に応えるためのモノグラフであり、ここでは知行国を取り上げよう。
 知行国についての研究史は決して薄いものとは言えない。その流れは大きく二つに分類される。そのいちは吉村茂樹・時野谷滋・橋本義彦氏らによるものである(4)。このグループは、知行国成立のしくみを解明すべく知行国内部の構造分析に力点を置く。その到達点は橋本氏の研究である。氏は、知行国制を、国主となる人物がその子弟を国守に申任することで、国務沙汰の実権を握り、国守の所得を家産に取り入れる仕組みであった、とされた。
 これに対して政治制度としての知行国制を論じたのが、石丸煕・五味文彦氏による院政期知行国制の研究である(5)。そこでは、院には知行国主決定権があり、その行使によって院近臣に多くの知行国分配されたことが明らかになった。すなわち知行国制は院権力にとっての権力基盤のひとつであったのである。本稿は公家政権論の立場から、石丸・五味両氏の視点を継承したい。ところで、ここで留意せねばならないのは「知行国制」という用語の扱いである。知行国をめぐる二つの研究史は、それぞれ次元の異なる問題を対象としながらも、それを論ずるにあたっては「知行国制」という同一の用語を用いているため、混乱を招く危険性がある。そこで本稿では混乱を避けるために、前者の言う「知行国制」については「知行国の形式」と表現することとし、知行国制は専ら政治的制度の意味で用いることとしよう。
 さて、このように豊かな成果を持つ知行国研究ではあるが、多くは十一~十二世紀を分析対象とするものであって、本稿が取り扱う鎌倉時代については、専論が乏しく村田正志氏の研究が通説的地位にある(6)。氏は、天皇家・東大寺・西園寺家・中院家における知行国相伝に注目され、「かくの如く国々は権門勢家社寺に私有され、その主なるものは子孫歴代に相伝継承せられていたのが実状であった。」とされた。ここで氏は、国衙よりの一切の貢納物がすべて知行国主の取得となり、完全に中央政府との関係を断たれ、知行国主が自由に処分できる私有地として知行国を理解された。また佐藤進一氏は、村田説を踏まえ、後醍醐政権下での国司制度改革の意図を、知行国を否定し地方支配の要たる国司制度を再び中央政府が掌握しようとする点に求めている(7)。以上のような知行国理解をここでは「相伝私領化」説と呼びたい。
 「相伝私領化」説は、朝廷権力の排除を知行国の本質と捉えるものであって、政治構造との関係を度外視している。換言すれば、政治制度としての知行国制は鎌倉時代、存在しなかった、と理解するのである。村田氏の研究は戦前のものであるが故、公家政権の理解について一定の限界があり、近年の公家政権論の進展を勘案すれば修正が求められる。そこで本稿では、第一の課題として「相伝私領化」説が否定する政治制度としての知行国制の存在を提示することを挙げよう。そのために知行国給付・国役収取・訴訟における朝廷(治天の君)と知行国主の関係を検討する。
 政治制度としての鎌倉時代の知行国制を検討する本稿にとって、見過ごすことのできない問題として皇統分裂状態がある。この政治的問題が公家社会にもたらした矛盾については市沢氏の研究があり、本稿は氏の成果に学びつつ皇統分裂が知行国制に与えた影響を考察することとしよう。これが第二の課題である。以上二つの課題の検討を通して得られた成果をもとに、再び後醍醐政権下での国司制度改革を読み直す時、いかなる意義が見い出されるのであろうか。本稿では最後にこの問題に考察を及ぼす。
 なお本稿では、以上の課題設定の故、後嵯峨院政期以降の時期を対象としたい。
【註】
(1)黒田俊雄「中世の国家と天皇」(『日本中世の国家と宗教』岩波書店 一九七五年 所収。初出一九六三年)。同「中世における地域と国家と国王」(『日本中世の社会と宗教』岩波書店 一九九0年 所収。初出一九八七年)。佐藤進一『日本の中世国家』(岩波書店 一九八三年)。
(2)鎌倉時代の公家政権研究については、さしあたって橋本義彦「貴族政権の政治構造」(『平安貴族』平凡社 一九八六年 所収。初出一九七六年)、美川圭「院政における政治構造」(『日本史研究』三0七 一九八八年)、本郷和人「鎌倉時代の朝廷訴訟に関する一考察」(『中世の人と政治』吉川弘文館 一九八八年所収)など。
(3)市沢哲「後醍醐政権とはいかなる権力か」(『争点日本の歴史』第四巻 新人物往来社 一九九一年 一四三~一四四ページ)。後醍醐政権をめぐる研究史についても本論文を参照のこと。同様の指摘は近藤成一・福島正樹「書評 佐藤進一『日本の中世国家』」(『歴史学研究』五三七 一九八五年 四二ページ〈近藤執筆担当〉)にもある。
(4)吉村茂樹『国司制度崩壊に関する研究』第三編第五章「領国知行制の展開」・第四編第一章「国衙領の私領化」(東京大学出版会 一九五七年)。時野谷滋『律令封禄制度史の研究』第三編「御分国・知行国制度の研究」(吉川弘文館 一九七七年 所収。初出一九六二年・一九七二年)、同「再び知行国制の成立について」(『日本歴史』三七八 一九七九年)。橋本義彦「院宮分国と知行国」(『平安貴族社会の研究』吉川弘文館 一九七六年 所収。初出一九六九年。橋本A論文とする)、同「院宮分国と知行国再論」(橋本前掲註 著書所収。初出一九七八年)。なお若干視点はことなるが竹内理三「寺院知行国の消長」(『寺領庄園の研究』吉川弘文館 一九八三年復刊。初版一九四二年)も知行国を網羅的に論じている。
(5)石丸煕「院政期知行国制についての一考察」(北海道大学文学部紀要二八 一九七一年)。五味文彦「院政期知行国の分布と変遷」(『院政期社会の研究』 山川出版社 一九八四年 所収。初出一九八三年)。
(6)村田正志『増補南北朝史論』第二章第二節「国衙領制度」九四~九七ページ(『村田正志著作集』第一巻 思文閣出版 一九八三年。初出一九四0年)。個別的研究としては信濃を取り上げた小林計一郎「国司検注についての一考察」(『日本歴史』一九七 一九六二年)、田中健二「大覚寺統分国讃岐国について」(九州大学国史研究室編『古代中世史論集』吉川弘文館 一九九0年)などがある。また知行国主を知る上で『日本史総覧』Ⅱ(新人物往来社 一九八四年)所収の「国司一覧」(宮崎康充・菊池紳一編)が便利であり、本稿もこれに負うところが多い。
(7)前掲佐藤書一八五~一九一ページ。
(8)市沢哲「鎌倉後期公家社会の構造と『治天の君』」(『日本史研究』三一四 一九八八年)。
 

第一章 知行国給国権の所在

 本章では、鎌倉時代における知行国制の存在を提示するため、知行国給国権及び安堵権が治天の君にあった事実を明らかにしたい。

(1) 治天の君による給国行為

 「はじめに」でも触れたように、院政期知行国研究においては、知行国主決定権が院(治天の君)にあったこと、院はこの権限を行使し近臣に知行国を給付することで自らの権力基盤としていたことなどが指摘されている。この権限は鎌倉後期以降どうなるのであろうか。
 まず前提となる後鳥羽院政期について見ておきたい。後鳥羽院政期における知行国については赤羽洋輔氏の研究があり、坊門家・高倉家など後鳥羽院近臣に知行国が集中したことが確認されている(1)。院近臣への知行国集中傾向は前代より継続するものであり、知行国給国権は治天の君にあったと考えられる。また丹後知行国主藤原範朝が勅勘の故、国を召されたという事例も参考となる(2)。没収権も治天の君に具わっていたのである。
 知行国決定に関わる治天の権限は、その強大な権力に支えられたものであった。したがって、承久の乱後治天の権力が弱まる道家政権期においては、この権限も低下したものと考えられる。次いであらわれるのが後嵯峨院政ということになる。この後嵯峨院政こそは院政の制度的完成と言われるものであって、治天の君はその権力を支える制度的基盤を獲得する(3)。いうなれば治天の君を頂点とする朝廷内の政治構造が確立するのである。
 ではこの時期の知行国主と治天の君の関係はいかなるものであったのか。表1は後嵯峨院政期に確認される知行国主を列挙したものである(寺社・幕府は除く)。史料上確認される時点でのものであるため、断片的である感はあるものの、おおよその傾向はつかみうると思われる。ここでまず注目されるのは、西園寺家・村上源氏諸家など後嵯峨院の姻族、あるいは吉田為経など要職である伝奏についた院近臣が国主であったことである(4)。確認件数最多の四条隆親もまた院近臣であった(5)。また蔵人弁官の国主も目立つ。蔵人弁官は、治天の君の権力機構上、中核をなすものであり、院との強い関わりが想定される(6)。院別当・判官代の国主も多く、総じて知行国は院近臣・院司を中心に分配されている。後鳥羽院政以前に確認される治天の君と知行国主の関係は、後嵯峨院政期においても該当するのである。
 次に給国手続きを検討する。先に触れたとおり、知行国とは国主となる人物が自らの子弟・家司を国守に申任することで国務を掌握するものである。よって国主が知行国を獲得する手続きとは国守を申任する場、すなわち除目であった。知行国の発生した当初においては、かかる方法が知行国獲得の唯一の法的保証であった、と考えられる。しかるにすでに先学が指摘されるごとく、鎌倉後期以降南北朝期にかけて、知行国給国に関する院宣あるいは綸旨がいくつか確認されるようになる(7)。一例をあげよう。
 参内、河内国拝領、頭内蔵頭奉行也、朝恩之至、自愛、
  河内国令知行給之由、天気所候也、仍執達如件、
   六月七日             内蔵頭〈在判〉
  謹上 右中弁殿    (吉続記文永十年六月七日条)
 本件は吉田経長が河内を拝領した際のものである。ここでは、治天の君が亀山天皇であるため綸旨であるが、治天の君が上皇の場合は院宣が使用される。表2は鎌倉後期以降南北朝期にかけての給国あるいは知行国安堵の院宣・綸旨発給例を示したものである(8)。必ずしも事例が豊富であるとは言いがたいが、南北朝期においても発給が認められることより、寺社・公家ともに知行国拝領の際はかかる院宣・綸旨が発給されたと言える。鎌倉時代後半には、この院宣・綸旨を受け取ることが知行国獲得の法的保証になっていたのである。かかる事実は給国権の治天の君への帰属を意味する。この問題について、現実の給国を例に検討してみよう。ここではあえて治天の君が一元的権力を保有しなかった時期のものを取り上げる。というのは、給国権が制度上治天の君にあった事実を明確に示しうると考えるからである。
 安貞元年閏三月藤原定家は信濃を成功によって拝領している(9)。その折、複数の成功希望者の中から定家採用を決定したのは関白近衛家実であった。承久の乱直後、家実は朝廷の実権を握っており(10)、知行国主の実質的決定は家実に委ねられていたと言えよう(11)。注目されるべき点は、この決定の後に後堀河天皇の綸旨が発給されたことである。いわば形式的なものに過ぎないこの発給は、制度の上で、給国権が治天の君に属したことを逆説的に物語っている。
 後堀河天皇の場合は極めて形式的であったが、後嵯峨天皇にあってはより積極的に給国に関与している。道家が朝廷内になお権力を保持していた段階(12)の寛元二年四月、道家の息子二条良実は備中を獲得する。この給国に際しては良実以外にも西園寺公経・久我通光が所望しており、良実側では天皇へ申し入れをすべく、その近臣土御門定通のもとに使者として平経高を再三遣わしている(平戸記寛元二年四月五日条)。さらに拝領した後は「備中国間事、尚々畏申之由」を天皇へ奏聞するよう経高に命じているのである(十二日)。ここでの国主決定の主体は明らかに治天の君後嵯峨天皇であった。
 以上のごとく治天の君権力が制限された状況においても、なお知行国給国権は治天の君に属していたのである。したがって、朝廷内部における治天の君権力がもっとも安定する後嵯峨院政以降、給国権は治天の君が十全に行使するところとなったと見るべきであろう。後嵯峨院政における執事以下の国主補任はそれを物語っている。

(2) 知行国長期領有における治天の君の安堵

 ここでは治天の君による知行国安堵について検討することで、「相伝私領化」説の根拠となる知行国の長期領有が治天の君の保証の下に成り立っていたこと明らかにしたい。
 後嵯峨院の近臣であった吉田為経は建長八年五月二十日、子息経藤への知行国譲与のことを院に奏聞した。それを示すのが次の史料である。
 参院、黄門所労危急之間、泉州可譲補経藤之申入之、以卿局申一品被申入云々、可被留江州之由有叡慮之旨語之、於江州者有名無実、遺跡難安堵之申之、一品被相計云、明日猶可参、其次重可令申入也、(経俊卿記同日条―以下同記による)
 為経の奏聞に対して、院の意向は近江をというものであったが、翌二十一日には、この要求が容れられ、「勅定云、誠以不便、然者和泉国不可有相論、其由経俊早可書遣御教書」と安堵の院宣が下されることなった。本件より、知行国譲与にあたっては治天の君の認可が必要であったことがわかる。
 またかかる譲与が認可されるためには、譲与者と治天の君の関係がポイントとなる。例えば、正嘉元年九月、葉室定嗣の養子高定が、養父定嗣との不和を理由に知行国河内及び伝奏の職を没収されたおり、後嵯峨院は次のように述べている。
 此事年来中納言入道子息之義也、仍被許伝奏、又被譲河内国、不可為中納言入道子息之義者、於伝奏者可被止、河州又如元可被返中納言入道、
            (経俊卿記正嘉元年九月四日条)
 すなわち、高定の河内知行は定嗣子息であるが故に認められたのであって、今やそうでない以上没収するというわけである(13)。つまり河内譲与は定嗣が院の近臣であることを理由に院に認可されたのである。給国権が治天の君に帰属する以上、譲与もまた治天の君との関係が重要な条件であった。
 以上、相伝のためには治天の君の保証が必要であることが示せたと思われる。徳治三年閏八月三日後宇多上皇譲状案における「凡諸国相伝之法、雖乖正理、人臣猶称之」という文言は(14)、廷臣による知行国相伝の盛行を示すものとして周知のものだが、ここで語られた相伝も、以上の二つの事例のごとく治天の君によって認められたものと解すべきであろう。次に寺院知行国の例を検討する。
 寺家による知行国長期領有の事例として有名なものは東大寺の周防あるいは東寺の安芸などがある。この内、東大寺知行国周防において実際に国務にあたったのは、大勧進職であった。大勧進職は、平重衡による治承四年の焼打後の東大寺復興のため、翌養和元年重源が朝廷より補任されたのを始めとし、鎌倉時代を通して二十三名の歴任が認められる(15)。東大寺知行国とされる周防・肥前は、堂舎修造のための造営料国として大勧進職に給付されたものであった。大勧進職は朝廷より補任されるものであって、それに付された知行国も大勧進職補任時に治天の君より安堵される。
 A知行周防・肥前両国、東大寺事、殊可被致其沙汰者、
  院宣如此、仍執達如件、
    十二月二十九日        参議〈花押〉
   寶渚(實緒カ)上人御房
 B 東大寺大勧進職圓乗上人申造国周防・肥前所務事
  右、如下被下圓乗上人去年十二月 九日院宣上者、知行両国造営事、殊可致其沙汰云々者、守護・地頭・御家人等停止自由違乱、任先例、可相従国務之状、依鎌倉殿仰、下知如件、
    正應三年三月廿五日
                 前武蔵守平朝臣判
                 相模守平朝臣判(16)
 まず史料Bより検討する。内容は院宣を受けて、東大寺知行国における守護以下の違乱停止を命令したものである。ここにある「大勧進職圓乗上人」は、第十三代大勧進職に補任された圓乗(実緒上人)である。さてA・B二つの史料の関係について、史料Bの傍線部より判断するに、Aの院宣案を受けてBの関東下知状が発給されたと考えられる。したがってAの発給年は前年正応二年に比定される。またAの宛所は「寶渚上人」となっているが、これは「實緒上人」の誤りと思われる。すなわちAの院宣は圓乗を大勧進職に補任するに際して、発給されたものと考えられるのである(17)。東大寺大勧進職補任において、知行国を給付する旨の院宣が発給された事例として他に時期は遡るが、寛元四年定親補任の際のものがある(民経記寛元四年五月二十一日条)。東大寺知行国は、代々の大勧進職ごとにかかる給国の院宣ないし綸旨を発給され、治天の君から保証されることによって、長期領有を実現していたと見るべきであろう。
 今一つ事例をあげたい。元亨二年七月十三日の「高野山大塔料所文書御影堂奉納目録」には(18)、知行国備後に関する文書として「備州十个年後被延四个年 院宣一通」があったことを記している(19)。知行国の延長に当たっては院宣の発給、つまり治天の君による認可が必要であったと考えられる。また本目録には「大覚寺殿御代」のものとして「備州安堵 院宣一通」をあげている。最初の給国は伏見院であり、知行延長は持明院統よるものと考えられるから、この安堵は治天の君の皇統の交替によって発給されたと見られる。両統迭立が知行国領有に与えた影響については後述するが、ここではとりあえず治天の君交替においても治天の君の安堵が必要であった事実から、長期領有が治天の君の保証無しには成り立ちえなかった事実が確かめられればよい。
 以上、公家・寺家を問わず、知行国の相伝・長期領有のためには治天の君による保証が必要であった事実を示した。前節で検討した治天の君による給国行為とこの事実を踏まえるならば、この段階における知行国は原則的には次のように理解される。すなわち、知行国主による、上級権力を排した私的所有ではなく、治天の君によって給付された領有地であった、と(20)。政治制度としての知行国制は鎌倉時代を通してなお存続していたのである。
 なお知行国の長期相伝の事例そのものについて付言しておきたい。現段階において、国主補任状況を最も網羅的に調査した「国司一覧」を検討する限り、同一の家による長期相伝の事例は、西園寺家など先学が長期相伝の最も顕著な事例と指摘したものに限定される。したがって、西園寺家などの事例はむしろ特殊であって、一般的に知行国は「遷替の職」であったと言うべきであろう(21)。
 本章では給国・安堵の面から知行国と治天の君の関係を検討した。次章では国主の役割を検討することで知行国と公家政権全体との関係を考察することとしたい。
 【註】
(1)「後鳥羽院政期の知行国に関する一考察」(『政治経済史学』一00 一九七四年)
(2)『仁和寺日次記』承久元年五月三日条(『続群書類従』二九下所収)
(3)「はじめに」註(2)橋本論文、美川論文。
(4)伝奏の性格については美川圭「関東申次と院伝奏の成立と展開」四七~八ページ(『史林』六七ー三 一九八四年)を参照。
(5)本郷前掲「はじめに」註(2)論文二0六ページ参照。なお四条家の性格については、秋山喜代子「乳父について」(『史学雑誌』九九ー七 一九九0年)六四ページに言及がある。
(6)院政支配における蔵人・弁官の重要性については、富田正弘「中世公家政治文書の再検討②」(『歴史公論』四ー十一 一九七八年)、藤原良章「公家庭中の成立と奉行」(『史学雑誌』九四ー十一 一九八五年)を参照。
(7)橋本前掲「はじめに」註(4)論文二二三~二二四ページ。
(8)表中には文暦二年三月二0日摂政家御教書のごとく、摂政家御教書による給国の事例もある。これは道家政権期特有の在り方と言える。この時期の知行国の問題については機会を改めて論じたい。
(9)『明月記』安貞元年閏三月二0~二九日条。この給国をめぐっては、村山修一『藤原定家』二三八~二四0ページ(吉川弘文館 一九六二年)に記述がある。
(10)本郷前掲論文一六九~一七0ページ。
(11)家実に決定権があったことついては、同じく成功を申請した源定平を「其力定不可叶歟」と家実が退けた事実も参考となる(二十日条)。
(12)本郷前掲論文二0一~二一二ページ。
(13)不和の原因は、高定が実父光俊との結び付きを強めたためであった。本件については『経俊卿記』正嘉元年七月六日・十一日条参照。
(14)東山御文庫文書(『鎌倉遺文』三0巻ー二三三六九号 以下「鎌三0ー二三三六九」と略す)。
(15)永村眞『中世東大寺の組織と経営』第二章第一節「東大寺大勧進職の機能と性格」(塙書房 一九八九年)。
(16)A古簡雑纂(鎌二三ー一七五〇五)、B同上(鎌二二ー一七二九五)。
(17)永村氏は、圓乗の大勧進職就任を正応四年としているが(永村前掲書三四六ページ)、本文の検討より正応二年十二月まで在任を遡りうる。
(18)高野山文書(鎌三六ー二八〇九六)。
(19)延慶二年四月十一日伏見上皇院宣(高野山文書、鎌三一ー二三六六四)が最初の寄付を示す。
(20)鎌倉時代における公家の処分状において知行国が現われない事実はこのことを示していると言ってよいだろう。例えば、九条道家は建長三年の段階まで讃岐を知行していたが、建長二年十一月の九条道家惣処分状には、讃岐は記載されていない(九条家文書 鎌十ー七二五〇。また讃岐知行は岡屋関白記建長三年八月十日条)。処分状に知行国のことが見えるのは唯一天皇家のみであって、知行国に対する治天の君の卓越した地位を示す。なお公家において知行国を記載した処分状の事例として、南北朝期観応二年正月十四日付「勧修寺経顕処分状」がある(中村直勝著作集第四巻『荘園の研究』所収「勧修寺家文書」五五三ページ〈淡交社 一九七八年〉)。
(21)かかるあり様は今正秀氏が検討された内蔵頭の場合に近い(今「平安中・後期から鎌倉期における官司運営の特質」〈『史学雑誌』九九ー一 一九九0年 二三~二八ページ〉)。
 

第二章 国制上における知行国の位置

 さて鎌倉時代の知行国は国制上においていかなる性格を与えうるのであろうか。ここで問題となるのは朝廷による国衙支配における国主の機能である。そこで収取と訴訟における国主の役割について見ていく。

(1) 国主の中央進納義務について

 国主の朝廷に対する進納義務の問題を論ずるにあたって、まず院宮分国と一般知行国の違いを指摘される橋本義彦氏の議論について触れておかねばならない(1)。氏によれば、両者の違いは中央政府への進納義務の有無に求められる。上皇・女院・中宮など皇族が領有する院宮分国においては国衙からの進納物の一切を分国主が取得できる、つまり進納義務がない。一方知行国主は中央への進納義務を負い、国守の得分を取得するに過ぎなかった。かかる指摘に従えば、知行国主の場合、収取システムにおける機能は国守と全く変わらないと言ってよい。
 鎌倉時代においてもこの点については変化はない。例えば十三世紀半ばの仁治二年正月の真言御修法用途は、表3に示されるように、西園寺公経以下十二名の国主に宛て課されている。かかる事実は十四世紀においても確認される。ここでは寺知行国の事例を挙げておこう。
 安芸国役事、賀茂祭二千疋・新日吉小五月会合袴二腰・
 伊勢幣之外、不可有他役、殊可被専修造沙汰之由、院宣所候也、仍執達如件、
   〈正安三〉八月十九日          俊定
  覚一上人御房(2)
 本院宣は東寺大勧進職覚一上人に対して発給されたものであり、本史料より東寺知行国安芸においては賀茂祭以下の用途が国役として存在したことが判明する。これより後、東寺は賀茂祭用途の免除を朝廷に申請するが、朝廷側では「恒例有限役、爭可被申子細候哉」としてそれを却下している(3)。東大寺でも事態は同様であり、季御読経用途が課されている(4)。以上の諸例より、朝廷側が国主に進納義務を課していたことは明らかである。
 では進納義務がなかったとされる院宮分国の場合はどうであったか。前掲の仁治二年正月の真言御修法においては女院安喜門院分国への賦課が認められる。同じく女院に用途が課された例としては、天福二年正月御斎会召物が北白河院分国越前に課されたというものがある(5)。また星野公克氏が明らかにされた鎌倉時代の長日如意法月宛国々中には、院分国美濃が含まれている(6)。院政期における院宮分国の中央進納の事実については、勝山清次氏が指摘されており(7)、鎌倉時代においてもそれが継続していたのである。
 以上のように鎌倉時代の知行国・分国は共に朝廷へ進納義務を負っていた。次に具体的な進納の在り方について簡単に触れておく。
 大原野祭幣物、大蔵省勤(切カ)備前国、右少弁向前相国許(西園寺実氏)、殊触子細、領状云々、而目代知茂無沙汰之、       (葉黄記宝治元年二月七日条)
 これによれば大原野祭幣料について備前に賦課したところ、知行国主西園寺実氏は領状したが、目代が未進したとある。また正応二年二月の祈年穀奉幣では、石見分の幣料未進に関して「国司三条大納言領状請文雖分明、雑掌不法之間無其実」(公衡公記正応二年二月十三日条)、つまり国主は諒解したが雑掌が調進しない、とある。知行国主による用途進納では、まず国主に請文を提出させ実際の進納は目代・雑掌があたっていたわけである。
 ところで進納の実態であるが、十三世紀後半にいたると、国衙領の減少・在地の抵抗などにより、知行国の如何を問わず国衙の機能は低下し、それに伴い進納は十分に果たされなくなる(8)。したがって、国主の進納に対しても過大な評価を与えることはできない。しかし制度上とは言え、国主にかかる義務が付されたこと、すなわち国守と違いがなかったことは強調しておきたい。

(2) 訴訟・命令施行における国主の機能

 次に訴訟・命令施行において治天の君と国主がいかなる関係にあったかを見たい。すでに富田正弘氏は、国宣を論じた際に院宣を施行する国宣の存在を指摘され、治天の君ー国主ー国衙という命令施行ルートについて言及された(9)。国主ー国衙間の施行ルートはすでに明確となっているので、ここでは治天の君ー国主の問題のみを取り上げる。
 A南禅寺領加賀国徳橋郷加納徳南・益延・長恒三名事、
  任去年七月 院宣、寺家管領永代不可有相違者、院宣如此、悉之、以状、
    延慶二年六月十日   権中納言(花押)
   如鏡上人方丈
 B南禅寺領加賀国徳橋郷加納徳南・益延・長恒三名事、
  任去年七月 院宣、寺家管領永代不可有相違之由、被仰如鏡上人方丈了、可得御意旨、
  院御気色所候也、以此旨、可令申入章義門院給、仍執達如件、
    六月十日        権中納言定資
   左中弁殿
 C     昨日問答坊城大納言入道候之處、所被申無相違由、令申候、仍如此申沙汰候也、
  加州三名事、院宣両通〈定資卿奉行〉、申献之、随分早速申沙汰候也、一通ハ可被付国司候、他事期後信之状如件、
     六月十日       (花押)
   南禅寺方丈
 本史料はいずれも南禅寺文書に収められたものである(10)。三通の内容が同寺領加賀国得橋郷内三名に関すること、A・Bの伏見院院宣が発給日・奉者を同じくすること、また「院宣両通〈定資卿奉行〉」とあるように、CがA・Bの伝達に関するものと考えられることなどから、この三通は一連の文書群と見られる。Aにある「去年七月 院宣」とは加賀国衙領得橋郷内三名を南禅寺へ永代寄付した徳治三年七月十九日付後宇多院院宣を指す(11)。この寄付の直後徳治三年八月に後宇多から伏見院への治天の君交替があり、Aは治天の君皇統の交替に伴う安堵と評価される。
 次に三通の文書の関係について詳しく検討してみよう。この内A・Cは所領を安堵された南禅寺宛であり問題はない。問題はBである。Bの宛所は左中弁吉田国房となっているが、本文において章義門院への披露を命じていることから真の宛て先は章義門院となる。ところでCの傍線部には、二通の院宣の内一通は国司に伝えるべき旨が記されている。とすればCが国司への院宣であり、章義門院はこの時加賀の国主であったと推測することが可能だろう。南禅寺文書に得橋郷内益延・長恒名での国衙違乱停止を命ずる南禅寺本元上人・加賀守宛ての二通の後醍醐天皇綸旨が残されていることも参考となる(12)。すなわちBは加賀国内部の南禅寺領安堵を知行国主に命ずる院宣なのである。なおCの尚書部分に坊城俊定に問答した旨が記されているが、俊定は正安三年二月に加賀国主となっており(13)、再度寺領を安堵するにあたって前国主に事実を確認したと解される。
 本件のごとく、国衙に関する治天の君の命令は国主に伝達された。本件では、史料が残存しないため、国主以下の施行ルートについては不明であるが、国司庁宣・国宣の発給によって目代へさらに国衙へ伝達されたと考えられる。つまり治天の君ー国主ー国衙の命令施行ルートの中に国主は位置づけられるのである。
 以上のごとく、朝廷への進納及び命令施行において知行国主は中央(朝廷・治天の君)と国衙をつなぐ位置にあった。これは国守(受領)の場合と同一であって、以上の面においては国制上、国守(受領)と国主この両者は全く違いがないと言ってよい。行論において紹介した事例のうち、正応二年の石見国主三条実重、延慶二年加賀国主章義門院はそれぞれ「国司」と称されている。十・十一世紀の国司制度での「国司」が国守(受領)であるとするならば、知行国制が成立する十二世紀以降の国司制度での「国司」は知行国主(及び知行国以外の国での国守)であった。
 この両者の最大の違いは、補任対象者・補任手続き・任期にある。前者の場合、対象者=官位相当制に基づく五位六位のもの、手続き=除目、任期=四ないし六年であるのに対して、後者においては対象者=位階による制限なし、手続き=治天の君による補任、任期=(治天の君の保証の限り)無制限、となる。すなわち前者が官僚制的(太政官制的)であり、後者が封建制的(院政的)であると言える(14)。すでに先学は、鎌倉時代の知行国をもって国衙の所領化と指摘された。この指摘は、以上の意味において正しい。
 知行国制は、その発生時期である白河院政期より封建制的(院政的)国司制度への志向を示しているのであるが、なおこの段階においては太政官制の規制を大きく受けている。というのは第一章で述べたとおり、除目において国主自らが申任する人物を国守とすることで知行国獲得を果たしていたからである。また知行期間は国守の任期内に限定される。この段階の知行国制は封建制的(院政的)国司制度への志向を持ちつつも、それを露にすることなく、太政官制への介入という手段をとっていたのであり、まさしく「かくれみの」と言うべきであった。
 ところで後嵯峨院政の前後では、知行国制の在り方に大きな違いがある。それは院分国の性格である。後嵯峨院分国であった播磨・美濃は、すでに後白河院の時以来、歴代上皇の院分国となっており、一定の継承関係がある。しかし後嵯峨院以前は、いずれもが院庁開設によって院分国化されていたのであって、前上皇から譲与されたものではない(15)。これに対して、文永九年正月の後嵯峨院は両国を後深草院・亀山天皇に譲与した(16)。この処分こそ天皇家における分国相伝の始まりであり、この時初めて院分国が譲与可能な所領となったのである。この事実は、知行国そのものの性格変化、すなわち国衙の所領化(治天の君による宛行対象化)の結果と言えるのではないだろうか。後嵯峨院政こそ院政の制度的完成とする近年の後嵯峨院政評価を加味するならば、封建制的(院政的)国司制度の制度的確立をこの時期に求めるのが最も適切であると思われる(17)。
 治天の君は十三世紀後半にいたり、みずからの国司制度を確立する。しかしこの制度は現実の地方支配においては、極めて制限されたものであった。知行国主の権限の及ぶ範囲は減少した国衙領域に過ぎなかったと考えられるからである。その国衙領域ですら幕府による支配の進展により、権限縮小が進みつつあった(18)。さらに十三世紀末には朝廷内部の矛盾が、知行国制に重大な問題を生じさせた。その矛盾とは皇統分裂であり、次章ではこの問題を取り扱う。
 【註】
(1)橋本前掲「はじめに」註(4)A論文八一ページ。
(2)伏見上皇院宣案(東寺百合文書 鎌二七ー二0八四0)。
(3)年欠十一月十日伏見上皇院宣案(東寺百合文書 鎌三一ー二三四四九)。
(4)年欠三月六日東大寺大勧進知義書状(東南院文書 鎌三五ー二七三九五)。
(5)経光卿御斎会奉行記天福二年正月十日条(『大日本史料』五編九巻四八八ページ)。
(6)星野公克「太政官厨家料国と便補保」『史学研究』一八二号 一九八九年)七~九ページ掲載の表参照のこと。また川本龍市「切下文に関する基礎的研究」(『史学研究』一七八 一九八八年)は、鎌倉時代の用途国宛の内、切下文方式によるものを論じている。
(7)勝山清次「書評 橋本義彦著『平安貴族』」(『日本史研究』三0一 一九八七年)。なお「院分国」=「院の料国」という理解が成り立たないことについては菊池紳一「『院分』の成立と変遷」(『国史学』一二八 一九八六年)を参照。ここで菊池氏は白河院政期に多く見られる「院分」が、院による受領推挙を意味することを指摘されている。
(8)承久の乱以後、諸国よりの用途未進が顕著となることについては、前掲星野論文、本郷和人「鎌倉時代朝廷経済の一側面」(『日本歴史』四九五 一八九八年)などが実証的に明らかにしている。
(9)『日本古文書学講座』第三巻古代編Ⅱ(雄山閣出版 一九七九年)「国務文書」一二九ページ(富田正弘執筆)。
(10)A伏見上皇院宣(鎌三一ー二三六九七)、B伏見上皇院宣(鎌三一ー二三六九八)、C西園寺実兼(?)書状(鎌三一ー二三六九九)。
(11)南禅寺文書、鎌三0ー二三三一七。
(12)鎌四0ー三一二四0・三一二四一。
(13)後掲『実躬卿記』正安三年二月十六日条
(14)治天の君を封建的とする理解については、近藤茂一「中世王権の構造」六0ページ(『歴史学研究』五七三 一九八七年)。
(15)後堀河院については、民経記貞永元年閏九月二九日・天福元年正月二五・二八・三0各日条、後嵯峨院については岡谷関白記寛元四年二月一日条をそれぞれ参照のこと。また後白河院の遺領処分において神埼・豊原などの荘園が後鳥羽天皇に譲与されているにも関わらず、院分国播磨・美濃がその対象となっていない点も注目される(玉葉建久三年二月十七日条)。なお村田正志「院宮御分国の研究(上)」(『国史学』三二 一九三七年)も参照。
(16)後嵯峨上皇処分状案(伏見宮記録 鎌一四ー一0九五三)。
(17)もちろん、この問題については今取り上げた角度からの検討のみでは不十分である。「封建制的(院政的)国司制度」という概念も含め今後さらに検討する必要がある。
(18)石井進『日本中世国家史の研究』二〇一~二二三ページ(岩波書店一九七〇年)参照。
 

第三章 両統迭立期における知行国制

(1) 皇統の分裂の影響

 近年市沢哲氏は皇統分裂がもたらした朝廷内部の危機に関して興味深い指摘をなされている(1)。すなわち、治天の君は荘園諸職における秩序を保証する地位にあったが、皇統の分裂は保証機能を低下させ、公家社会内部に深刻な問題を生じさせた、と。知行国領有は治天の君の保証の下に成り立っていたのであり、皇統の分裂がもたらした公家社会内の混乱は、当然知行国にも及ぼされる。第一章において、高野山知行国備後における代替安堵の事実を指摘した。政治上朝廷とは一定の距離を置く寺社の場合においても、治天の君皇統の交替が影を落としている。したがって朝廷内部ではより大きな問題が発生していたと推測される。
 正安三年正月、後二条天皇即位によって大覚寺統は十四年ぶりに治天の君の地位を得る。後宇多院政の開始である。院政開始直後の二月十六日の院評定において、次に示すごとく知行国主の大幅な交替が決定された。
 今日評定云々、後聞諸国分給人々、当時就朝家要項之仁・伝奏・職事・弁官等浴恩云々、其人々、
  関白〈上総国、元猪隈前摂政知行、後日左大弁宰相請之〉、右府〈飛騨、元坊城前中納言知行〉、土御門前内府〈常陸、前玄輝門院御分国〉、吉田前中納言〈土佐、元帥知行〉、帥〈出雲、元藤中納言知行〉、坊城前中納言〈加賀、元関白知行、後日宣孝請之〉、頭経継朝臣〈河内、元前平中納言知行〉、頭中将実香朝臣〈能登、元花山院中納言知行〉、左中弁定房朝臣〈伯耆、元実香知行〉、右中弁定資朝臣〈伊勢、元堀河前宰相知行〉、左少弁頼房朝臣〈筑前〉、権左少弁光定朝臣〈出羽、元別当知行〉、右少弁光方〈肥後、元按察知行〉、五位蔵人仲高〈越中〉、此外備前国〈元永福門院御分国〉、遊義門院為御分国、滋野井中納言拝領云々、(2)
 傍線部によれば、今回拝領の朝恩を賜った人物は二つに分けられる。それは「就朝家要項之仁」と言われるような近臣と、蔵人・弁官などの実務官僚の二つである(伝奏は近臣に属する)。治天の君権力は蔵人・弁官を要として政治を取り行っており、ここでの給国はこれら実務官僚の取り込みを目的としたものであった。したがって、本件の給国行為は、新たに朝廷内部での実権を獲得した後宇多院による権力基盤の強化策と位置づけられよう。
 さて本記事中、割注部分に前知行者が認められる。換言すればこれらの人物は本給国に先立つ知行国被没収者である。ここで本件に関係する人物を給国・没収を基準に分け、さらに大覚寺統・持明院統それぞれとの関係をまとめると表4のようになる(3)。被没収のみの場合、すべてが持明院統派と見られる点は注目してよい。伏見院分国播磨の没収こそ免れたものの、一族である女院分国にいたるまで没収の範囲は及んでおり、この措置は持明院統にとっては極めて苛酷なものであった。以上の点から、本件においては持明院統派廷臣・女院の知行国を没収し、それをもって大覚寺統派の廷臣あるいは今後政権を支える実務官僚に給付した、と考えられる。
 本件のように、両統間での治天の君交替によって国主交替が行われたケースは、必ずしも多く確認されるわけではない(4)。しかるに次にあげる後伏見院の書状からは、当事者にとって、かかる国主交替が極めて切迫した問題であったことが窺い知られる。
   面ゝ一所御分国ハ候ハても、又不可叶事候、脱履之儀も、其足博大可入候之間、如然事、内々可存儲候か、凡無足無申斗候、仍御分国事も、若無子細候ハゝ、給主等にも、不可有改動由仰候ハゝ、朕安堵思致候ハゝ、可宜之間、如此存候也、
 先日以実衡卿申合候御方々御分国等間事、可申談大覚寺殿時分事、承申談之条ハ、不可然歟、至其期候ての沙汰にて候へき歟之趣、承候之間、関東御返事到来、事治定露顕時、可申談由存候か、倩廻案候ヘハ、関東御返事到来以後ハ、やかて毎事其沙汰候て、践祚大儀、其足も可罷入之間、諸国以下早速に被附給主なとして後は、縱申所存も、彌若可為難儀候乎、然者、不可有正躰候ぬと存候へハ、今明申談之条、可為何様候哉、(以下略)(5)
 本史料は文保二年二月の後醍醐天皇即位に伴う治天の君交替の直前に出されたものである。残念ながら宛名は不明であるが、内容から見て『鎌倉遺文』編者が比定するように関東申次西園寺実兼であろう。やや難解ではあるが内容を要約すると次のようになろう。本文で問題となっているのは、「御分国」すなわち上皇・天皇・女院の分国のことを大覚寺統側と相談するタイミングであった。後伏見院は本日中にとの意向を示している。関東より譲位の旨が告げられた後では、践祚以下の用途を賄うため「被附給主」つまり国主補任を早々に行うであろうから、そうなっては院分国確保はかなわない、というのがその理由であった(傍線部)。かつて弘安十一年伏見天皇即位の折、その用途を賄うため河内・加賀の国主交替が行われており(6)、かかる事態を懸念したものと思われる。追書部分においては、院分国の必要性を述べその維持を訴えると共に、それ以外の諸国についても国主を改めざるよう、配慮の程を懇望している。
 ここでの後伏見院の懇願が果たされたか否かは、残念ながら定かではない。ともあれここでは、両統間での治天の君交替が知行国領有にとって重大な障害であり、院分国すらも没収の憂き目に会いかねない程の深刻さ帯びていた点に注目したい。
 かかる状況の下、双方の皇統はその分国領有の正統性を主張し合うようになる。
 A播磨国御管領勿論候、分国譲付太不可然事也、然而文永別譲賜已可謂相続也、
 B凡諸国相伝之法、雖乖正理、人臣猶称之、况哉代々由緒、容易難改、仍任先皇代々例所載譲状也、(7)
 この二つはAが後深草上皇から伏見上皇への、Bが後宇多上皇から尊治親王(後醍醐天皇)への、それぞれ分国譲与を記した処分状・譲状の文言である。いずれも知行国「相伝私領」化の展開を示すものとして周知の史料である。ここでそれぞれの史料の記された状況に注目するならば、前者はすでに紹介した後宇多院による国主交替の三年後嘉元二年であり、後者は徳治三年八月の後二条天皇の急逝による両統交替の直後である。いずれも非治天の君の時期に記されたものであり、一方の皇統による院分国没収の危険性の高い状況にあったと言える。とするならば、かかる文言の真の意図は、他方の皇統の介入を排除するため院分国領有の正当性を主張する点にこそあったと言わねばならない。その正当性の根拠が「相伝」であった。「相伝」の行き着く先は、両者とも文永九年の後嵯峨上皇による処分なのであって、皇統の分裂状況が継続する限りにおいては、双方とも否定しえない筈のものであった。
 かくして、本来知行国与奪の権限を一元的に保有すべき治天の君権力は、その権限の及びえない領域を朝廷内部に存在させることとなったのである。例えば文保年間二条道平が知行国を後伏見院に所望した際、「聊事宜国々、或為御方御有国、或又為寺社造営修造之料国」によって、給付が見合わされている(8)。後伏見院の言う「御方」とは大覚寺統を指すと見てよい。寺社造営国が主に経済的理由によって没収しえないとすれば、他皇統の院分国は政治的理由のゆえ没収できなかった、というべきであろう。
 とは言え、先の後伏見上皇書状における後伏見の懇願は、「相伝」の強調のみでは御分国維持にはなお十分でなかったことを示唆している。維持のためには治天の君の上位にある権力、すなわち幕府にコミットせねばならない。後伏見院が、幕府の権力を背景とする関東申次実兼に分国安堵を懇願した事実は、その現われであった。次節では幕府の知行国制への影響について見ていく。

(2) 幕府権力介入による影響

 嘉元三年九月の亀山法皇の死は、後宇多上皇と、法皇の寵子恒明親王の立太子を目論む昭訓門院・その兄である関東申次西園寺公衡グループとの大覚寺統内部における対立を表面化させた。その結果同年閏十二月、西園寺公衡は、治天の君後宇多上皇の院勘を蒙り、伊予以下の知行国・所職を没収される(9)。次にあげる『実躬卿記』嘉元三閏十二月二十二日条はこの一件に関するものである。
 今日関白土御門入道相国・別当等祇候、前右府(公衡)朝恩等・被召放云々、
  伊予国〈関白〉、鳥羽殿御廐〈吉田中納言雅長〉、伊豆国〈権大納言師信〉、御廐別当〈別当定房〉、左馬寮〈源中納言有房〉、
  如此支配之由申斜伝聞、未知其故、於予州者自承元比知行、鳥羽御廐等又自西園寺入道相国〈公経公〉相伝、乍朝恩如家領、①為関東口入事歟、軽難召放者哉、於左馬寮者後嵯峨院御時被放室町大納言〈公藤〉、山階左府拝領、洞院入道相国相伝知行、而故亀山院被召放云々、西園寺入道相国拝領、造禅林寺御所、可相伝之由被下 院宣云々、至豆州者自前御代前右府拝領、②然於此両事者実可被任叡慮歟③至自余事者、無左右難有御沙汰之由、世所称也、
 すなわちこれによれば伊予・鳥羽殿御廐・御廐別当・伊豆・左馬寮など西園寺家重代の知行国・所職が没収され、関白以下の人物に新たに与えられた。傍線部②③の内容に従えば、没収された知行国・所職は次のように二分される。没収が正当な行為とされる<伊豆・左馬寮>(傍線部②)、そして没収は後宇多上皇の越権行為とされる<伊予・鳥羽殿御廐・御廐別当>(傍線部③)、この二つとなる。後者については問題を残すが、治天の君による没収がすべて否定されていたわけでないことは行論のとおりである。
 さて本件で没収された知行国・所職は、「伊予伊豆両国・御廐・鳥羽院(殿)・左馬寮、以五通院宣返賜之、依関東執申也、」(『公卿補任』徳治元年西園寺公衡項)とあるように、没収後わずか二ケ月にして返付される。従来の学説においては、没収後短期のうちに返付された事実にのみ注目されてきたが、むしろ幕府の介入によって返付された点こそが注目されねばならない。治天の君の没収行為は幕府によって否定されたのであって、幕府の存在は治天の君の給国権行使にとって、規制要因となっている。
 ここで、治天の君の没収行為が否定された<伊予・鳥羽殿御廐・御廐別当>について今一度考察したい。これらの知行国・所職は公経以来重代にわたって領有し「朝恩ながら家領のごと」き存在となっていた。治天の君の没収権は及びえない理由は、表面上長期相伝の事実に求められよう。かかる事態は知行国の「相伝私領化」を示すものと言える。ただし傍線部①の示すごとく、関東申次として幕府と強い結び付きを有していたがゆえに、西園寺家は伊予以下の所職を家領のごとく領有しえたのであって、現実には幕府の存在が長期相伝を可能としたのである。
 西園寺家による知行国重代相伝は、幕府との関係によって実現した。同じく知行国上野の重代相伝を実現した中院家の場合も幕府との関わりが指摘される。「当国代々関東吹挙之地也、当家重任異他者也」(10)とあるように、名国司推挙を通して幕府と中院家は密接な関係を保持していたと考えられる。また中院通頼(正和元年没)の母が、有力御家人宇都宮頼綱女子であり、幕府との人的関係を持ったことも長期領有には好因となったであろう。(11)
 以上の廷臣知行国のみならず院分国領有においても幕府は強力な権限を有していた。それは大覚寺統分国越前に顕著に見られる。越前が大覚寺統分国であった事実は前節で取り上げた徳治三年閏八月三日の後宇多上皇譲状案より確認される。それによれば後宇多天皇が譲位したおりに「関東計らい申すによって」分国に定められたとある。この件について、『公衡公記』には、後宇多譲位の翌年弘安十一年正月、幕府が「新院御分国事」として「無御知行国者可為難治歟、被進之条可宜歟、」の旨を朝廷に申し入れたとあり、幕府による後宇多上皇の分国設定を提案は明らかである。これに対して、時の治天の君後深草院よりは了承の旨の返答が出された(二十六日条)。後宇多院分国の設置が幕府の指導に基づくものであったこと、これは知行国給付に幕府が積極的に関与し、治天の君もそれに従わざるをえなかったという事実を物語っている。のち元弘の変の直後、後醍醐天皇分国であった因幡・越前の処分について、幕府に指示を仰いでいる事実も、幕府の優位を示すものである(12)。
 政治力学上、治天の君の上位に存する幕府は、知行国の給国・没収の点でも治天の君権力を規制するものであった。このような状況のもと、天皇家・西園寺家・中院家などは幕府に依存することで、治天の君権力の及ばない知行国私領化を展開しつつあったのである。治天の君を頂点とする知行国領有秩序、すなわち知行国制は崩壊の危機を迎えていたと言えよう。後醍醐天皇による国司制度の改革は、かかる危機的状況を前提とする。次章において、従前の検討を踏まえ後醍醐天皇による国司制度改革の意義について考察を加えたい。
 【註】
(1)市沢前掲はじめに註(8)論文。なお両統迭立期の概略については龍粛『鎌倉時代』下 四九~七0ページ(春秋社 一九五七年)、三浦周行「鎌倉時代史」三五七~四二九ページ(『日本史の研究』新輯一〈岩波書店 一九八二年〉所収 初出一九一六年)による。
(2)『実躬卿記』正安三年二月十六日。内閣文庫所蔵本の写真版による(史料を提供して下さった明石治郎氏に感謝します)。
(3)双方の皇統との関係を見極める基準として、院司のいかんを中心とした。なお羽下徳彦「家と一族」(『日本の社会史』第六巻 岩波書店 一九八八年)一0六ページも参照。
(4)弘安十年十月後深草院政開始後、伏見天皇即位用途を賄うため、亀山院伝奏日野資宣の河内、同院執権吉田経長の加賀が没収され、頭弁坊城俊定・頭内蔵頭平信輔に給国された例(勘仲記弘安十一年二月二十九日条)、第二章で示した延慶元年八月の後伏見院政開始に伴う加賀国主の交替(坊城俊定から章義門院へ)などがあげられる。
(5)文保二年正月付後伏見上皇書状(木下収所蔵文書 鎌三四ー二六五二八)。
(6)本章註(4)参照。
(7)A嘉元二年七月八日後深草院処分状(伏見宮所蔵 鎌二八ー二一八八八)。B徳治三年閏八月三日後宇多上皇譲状案(東山御文庫文書 鎌三0ー二三三六九)。
(8)俊光卿記文保元年十月四日条(『改定史料集覧』第二四冊所収)。
(9)一連の事件については三浦前掲書四0四~八ページに詳しい。なお西園寺家については、龍前掲書、三浦前掲書など参照。また近年のものとして森茂暁「鎌倉期の公武交渉関係文書について」(『金沢文庫研究』二七三 一九八四年)がある。
(10)中院一品記建武五年七月二十日条(『大日本史料』六編四巻八九七ページ)
(11)もちろん朝廷内部での問題も考慮しなければならない。中院家歴代当主のうち通頼は後深草院評定衆、通重は富仁親王(後の花園天皇)の東宮大夫となり、持明院統との関係を保つ一方、一族中には後宇多院の護持僧であった東寺長者禅助がおり大覚寺統とも良好な関係を結んでいたと推測される
(12)花園天皇宸記元弘三年十二月二十八日条。
 
第四章 後醍醐天皇による国司制度改革の意義
 本章では、前章までの検討を踏まえて後醍醐政権における国司制度改革について考察する。最初に知行国制と後醍醐政権下の国司制度との共通点を見たい。
 まず近臣の国守補任があげられる。佐藤氏の検討によれば、若狭・丹波・播磨などの要地の国司は後醍醐天皇のブレーンや寵臣で占められるという(1)。これは治天の君が近臣を国主に任命したのと同一であると言ってよい。いまひとつは命令施行ルートである。建武政権の命令施行ルートが綸旨ー国宣であった事実は周知のものである。前述のとおり鎌倉時代の知行国制において、かかる命令施行ルートはすでに存在している。よって両者は継承関係ある、と見なければならない。その上で建武政権の命令施行ルートの特徴を述べるならば、国宣の機能する範囲が拡大したこと、すなわち国衙領内のみでなく荘園を含めた国全体を対象としていることである。
 以上の二点について、知行国制と建武政権下の国司制度は共通性を有する。換言すれば「国司」の名称が「国主」であるか「国守」であるかの違いを除けば、継承関係にあると言ってよいであろう。この点を踏まえた上で次に国司制度改革に関する佐藤進一氏の学説を検討しよう。
 佐藤氏は、建武の新政下において確認される次の三つの事実をもって、これを後醍醐天皇による国司制度改革と称している(2)。三つの事実とは①知行国の没収あるいは国主の改替、②官位相当制を無視した国守補任、③短期間での目まぐるしい国守交替、である。氏は、これら三つの事実をもって「知行国制という形をとって平安末以来次第に馴致・強化されてきた国務の私領化を否定することこそ建武新政における国司制度改革の狙いであった」と評価された。本稿の検討によって得られた結果を踏まえつつ、佐藤説の根拠となる三つの点を再検討してみたい。
 まず①について。後醍醐天皇による没収が明らかな知行国としては、持明院統分国播磨・中院家上野・西園寺家伊予がある(3)。行論において明らかにしたように、これら国々はそれぞれ治天の君権力の没収権の及ばない領域であった。しかるに幕府の滅亡はかかる領域の存在を否定する結果となった。後醍醐天皇が「不可相伝」として中院家より上野を没収したという事実は周知のものであるが、ここで否定された「相伝」とは、治天の君権力の没収権の及ばない「相伝」を指すと考えられる。いまや後醍醐天皇には、その給国・没収行為を阻むものはいない。理念的には、彼は皇統分裂以前の治天の君のように、欲しいままに知行国没収を行いえたのである。したがって、没収・改替をもって鎌倉時代の知行国制の否定とはできないであろう。
 ③についても同様のことが言える。③の事実より佐藤氏は国守任期を無視した随時任免が可能となった点に注目されるが、このようなあり様は、むしろ治天の君による国主補任と共通する。③の事実は建武政権の混乱ぶりを示すものではあるが、これによって従来の治天の君以上に後醍醐天皇は、国司(国守・国主)任免権を強めたと言える。この点に建武政権下での特異性が見いだされよう。いずれにせよ、①・③の事実は、改革と言うより復活強化というべき性格のものである。これと比較して②は画期的な改革と位置づけられる。
 ②については若干の説明を要する。本来国守の官位は従五位から従六位相当を原則とする。しかるに建武政権下では、三位以上の公卿の国守補任が複数確認される。例えば内大臣(正二位)洞院公賢が若狭守となっているのが、その顕著な例である。これが官位相当制を無視した国守補任と称される事実である。佐藤氏は「名義上の国守(名国守)を表に立てて、実が別人が国守としての収益を取得する知行国の制度は、このような官位相当制を前提として生まれた」と官位相当制と知行国制の関係を規定した上で、建武政権の官位相当制を無視した国守補任を、間接的な知行国制破壊策と位置づけたのである。
 ここで氏の言われる「知行国の制度」とは、本稿が用いる“政治制度としての知行国制”ではなく、「国主ー国守」の知行国の形式の意味で用いられている。では“政治制度としての知行国制”と官位相当制の関係はいかに規定されるのか。この知行国制の内容を今一度確認すると、それは「『治天の君』が廷臣あるいは女院などに、国衙よりの収益を与えるため国務を宛て行うしくみ」というものである。ここでの廷臣があらゆる官位にわたることは言うまでもない。かつて白河院政段階において、院の近臣が受領層であった時ならば、彼らに国務を宛て行うことは官位相当制とはなんら矛盾しなかったはずである。なぜならば国守補任で宛て行いが果たされるから。しかし院政が展開し院近臣が公卿層となるに及んで、官位相当制の存在は国務宛て行いのための桎梏となる。そこで国守を立てて別人が実際の国務をとる知行国の形式が活用された言えよう。もし官位相当制なるしくみが存在しないとすれば、治天の君は彼が給国しようとする人物をその官位に拘わらず国守に補任したであろう。すなわち“政治制度としての知行国制”にとって、官位相当制は確かに前提ではあってもそれは決してプラスとなる前提ではなく、マイナスむしろ桎梏と言えるものであった。
 ところで、「国主ー国守」という知行国の形式は重大な問題を含んでいた。それは「名国司」の無制限の増加による官職体系秩序の解体である。弘長三年の公家新制には、知行国主による「名国司」申任について「或擧家僕、不撰品秩、或依任料、不嫌凡卑、自今以後、撰其仁、可擧之、又一任之中、莫改任之」と命じている(4)。後嵯峨院政段階において、従来「国守」に補任されえない筈の階層が補任されるようになっていた。換言すれば官職体系内部での「国守」の価値下落が進行しつつあったのである。本新制では、さらに国守の任期四年を全うさせるよう命じていることから、短期間での国守交替が一般的となっていたと推測される(5)。短期間での国守交替は必然的に大量の「名国司」経歴者を産み出す。国守の官職体系内部での価値下落はこれによって一層拍車がかかったと見てよいだろう(6)。
 治天の君を頂点とする知行国制のもとで、知行国の形式が内包するこのような矛盾を根本的に解決するための方法は二つしかない。すなわち「国守」という官職そのものを消滅させるか、官位相当制を無視した国守補任を行うかである。後醍醐天皇の選択は後者であった。
 後醍醐天皇による国司制度改革の最大の焦点は、まさに②にこそ求めるべきである。それは表面的には知行国の内包する「名国司」問題の解決策であったが、巨視的に見るならば次のように評価されよう。彼以前の治天の君はすでに自己を中心とする新たな国司制度を確立したが、その際彼らは、知行国の形式を維持することで官位相当制と妥協した。そこに確認される「国主ー国守」の二重構造は、富田正弘氏の指摘された治天の君/天皇(太政官制)という二重構造の反映そのものと言えよう(7)。ここに治天の君権力の限界が見いだされる。一方、後醍醐天皇はかかる妥協を拒否し、従来の国司制度における二重構造の解消、一元化を計ろうとした。つまり国司制度における治天の君/天皇の二重構造を解消することこそ後醍醐の国司制度改革の意義であり、それは知行国制の延長線上に位置するのである。
 【註】
(1)佐藤『南北朝の動乱』中央公論社 一九六五年(中公文庫版三一~三四ページ)。平凡社『世界歴史事典』第二二巻史料編一九五~二0二ページ(一九五五年)の「建武政府国司守護表」(菊池武雄氏稿)も参照。後醍醐政権下での国司補任状況については、吉井功兒「建武政権期の新田義貞」(『ヒストリア』一二八 一九九0年)が、義貞を中心に新しい知見を述べている。
(2)以下の佐藤氏の議論については、前掲「はじめに」註(1)佐藤書一八七~一九一ページによる。
(3)なお伊予については、正中年間後醍醐天皇の分国であったことを、近年五味文彦氏が指摘されており(五味『中世のことばと絵』三0~三二ページ〈中公新書 一九九0年〉)、元弘の変後、西園寺家に返付されたものが再度没収された可能性が高い。
(4)「公家新制」(鎌一二ー八九七七)
(5)前掲した嘉元二年七月八日付の後深草上皇処分状案において、分国播磨の経営について「但、一廻之間、不可被改吏務」とあることも参考となる(第三章註(7))。
(6)「名国司」の問題については、在地よりの要求を検討せねばならないが、紙幅の関係上後考を期す。なお在地社会と官職秩序との関係については、薗部寿樹「中世村落における宮座頭役と身分」(『日本史研究』三二五 一九八九年)を参照のこと。
(7)富田正弘「室町殿と天皇」(『日本史研究』三一九 一九八九年)。
 

むすび

 考察を終えるにあたって、今一度内容をまとめておく。
 ①承久の乱以降の治天の君は知行国給国・没収の権限を有しており、治天の君が廷臣・女院らに国務を宛て行うという政治制度としての知行国制は、院政期以来継続して存在した。知行国の長期相伝は、原則として治天の君の保証の下に果たされるのであって、上級権力を排した知行国の相伝私領化を一般的とする議論は成立しえない。
 ②国主は、治天の君ー国主ー国衙という重層的支配機構に位置づけられる。かかるあり様は太政官制的国司制度における受領(国守)の場合と同一である。知行国制での国主はまさしく「国司」なのであって、知行国制=院政的国司制度と言うことができよう。
 ③十三世紀末からの皇統分裂状態は、治天の君権力の分裂を意味する。かかる状況は、皇統間の治天の君交替に伴う国主交替という事態を生みだした。その一方で非治天の君系の天皇家は、自らの分国あるいは近臣の知行国を確保のため治天の君権力の排除を意図する。彼らは幕府への依存によって、それを果たすのである。かくして治天の君の給国権は制限されることとなった。
 ④鎌倉幕府滅亡によって、後醍醐天皇は③の状態を克服し、給国権の恣意的行使を可能とした。建武政権の国司制度は、鎌倉時代の知行国制を継承発展させたものであって、これを知行国制の否定と見ることはできない。この国司制度改革において、否定されたものは「国主ー国守」という知行国の形式であり、これによって名国司増加による官職秩序の解体を防ぐと共に、「国主ー国守」が示す治天の君/天皇の二重構造を克服せんとしたのであった。
 本稿では、公家政権における知行国制論という立場を取ったため、幕府知行国の問題については言及しえなかった。この問題について若干の見通しを述べておきたい。鎌倉時代を通して鎌倉幕府知行国であったのは、相模・武蔵・駿河・越後である(越後は承久の乱以後)(1)。これらの諸国においては、幕府成立当初に朝廷よりの安堵が認められるものの、承久の乱以後にはかかる安堵は見いだされない。また武蔵の場合、その国務は仁治元年以降北条得宗家による相伝所職と化す(私領化)。形式上国主は将軍であり、この相伝を知行国のそれと同一視はできないものの、幕府知行国は治天の君権力の及ばないものであったと推測される。これは公家・寺社と異なる幕府の性格を端的に示していると言えよう。
 全国範囲での国主の個別的検証、あるいは国主による国衙支配の実態などについて、なお論じ尽くせなかった点も多いが、それらは今後の課題としてひとまず擱筆したい。
 【註】
(1)吉川弘文館『国史大辞典』「関東御分国」項、佐藤進一『増補鎌倉幕府守護制度の研究』「相模」その他(東京大学出版会 一九七一年)など。
 
追記
 本稿は、一九九〇年一一月東北中世史研究会例会において発表したものをまとめたものである。当日、多くのご教示をくださった諸氏に感謝いたします。
 なお本稿脱稿後、鎌倉後期における国衙領の問題を扱われた稲葉伸道氏の「鎌倉後期の『国衙興行』『国衙勘落』」(『名古屋大学文学部研究論集』史学三七 一九九一年三月)を得た。知行国制について、試験と異なる評価を下されているが、今回は言及し得なかった。機会を改めて検討したい。
『国史談話会雑誌』第32号 1991.9 1~28p