京都市歴史資料館所蔵燈心文庫所蔵文書の東大寺文書

2011年4月更新

 京都市歴史資料館所蔵燈心文庫は、故林屋辰三郎氏の蒐集文書である。
 特に重要文化財「兵庫北関入船納帳」が有名である(林屋辰三郎編『兵庫北関入船納帳』中央公論美術出版、1981年)。兵庫北関など兵庫県下の摂津・播磨・丹波などの東大寺領に関する史料は、『兵庫県史』史料編中世5に翻刻紹介されている。
 このほか、京都市立歴史資料館図録『寄託品特別展 燈心文庫の史料』でも紹介がある。同図録は3冊あり、そのうち、『寄託品特別展 燈心文庫の史料Ⅱ 公家・武家・寺家』(平成3年5月刊)、『寄託品特別展 燈心文庫の史料Ⅲ 文書の流転と保護』(平成4年5月刊)に東大寺文書がある。
 また「五教章纂釈」の紙背文書がある。これは、「四天王寺等仏縁聖教抄」紙背文書とともに、その一部が林屋辰三郎氏によって翻刻・紹介されている。『季刊さろん日本文化』第1~20号(1981~89年、日本文化の会編)を参照されたい。林屋紹介によれば、「五教章纂釈」には、東大寺知行国肥前のことなどが見える。鎌倉後期のものと考えられる。宛所に「東大寺大勧進」「東大寺真言院方丈」など見えており、おそらくは戒壇院あたりに伝来したものではなかろうか。

未紹介文書の概要

 燈心文庫については上記の参考文献に過半紹介されている。ここでは、それら以外の、未紹介文書について簡単に触れておく。

 かなりの部分を占めるのは、鎌倉~室町期の東大寺諸法会の出仕請定である。簡単な目録を以下にあげておく。配列は今回の撮影順である。

和暦 文書名 差出(*は永村眞1989作成の年預五師表を補うもの)
寛喜三年五月日 天下御祈法花最勝等十講講師聴衆請定
弘安□〔五〕年三月六日 二月堂三ヶ日毎日千巻観音経転読請定 年預五師実承
正応四年十一月日 御受戒廿口僧請定 年預五師賢俊
永仁三年三月日 八幡宮大般若供養瓶花造進交名 年預五師尊顕
正安二年三月日 八幡宮大般若供養瓶花造進交名 年預五師実専
正安二年三月日 八幡宮大般若供養瓶花造進交名 年預五師尊顕
正安三年三月日 八幡宮大般若供養瓶花造進交名 年預五師賢俊
乾元二年三月日 八幡宮大般若供養瓶花造進交名 年預五師宗算
元徳三年六月二十二日 八幡宮夏中仁王講衆法華堂方請定
〔元徳三年〕 八幡宮夏中仁王講衆法華堂方請定
建武元年十二月日 大仏殿修正後夜導師請定 年預五師慶顕
暦応元年九月日 神詫大般経供養七僧請定 年預五師頼昭
嘉慶元年九月日 手掻(転害)会七僧請定 年預五師賢春*
応永十二年十二月日 本世親講先達請定 年預賢海*
応永十五年十二月日 大仏殿修正造花頭差定 年預五師清覚*
応永十五年十二月日 大仏殿修正燈油頭人差定 年預五師清覚*
応永十六年十一月日 転害会七僧請定 年預代行遍
応永二十一年十一月日 手掻(転害)会七僧請定 年預代行遍*
文正元年六月日 八幡宮理趣三昧衆交名
文明十四年九月日 手掻(転害)会七僧請定 年預五師秀範
〔寛正二年七月~十二月〕 学生供出仕交名
寛喜三年五月日 最勝王経転読衆請定
文永六年四月二十九日 戒壇院最勝殿上棟御祈仁王経講読僧請定 年預五師瞻尊
〔弘安元年五月日〕 如説仁王講請定 年預五師実承
弘安元年五月日 如説大仁王会請定 年預五師実承
正応二年六月日 千花会請定 別当法務前大僧正・上座法眼・寺主大法師・都維那法師
永仁四年三月日 西塔事始祈祷仁王経転読請定 年預五師賢俊
永仁四年正月日 大仏殿修正請定 年預五師尊顕
正安元年五月日 大仏殿大般若経転読請定 年預五師実専
正安四年正月日 梵網会請定 別当前法務前大僧正・上座法眼・寺主大法師・権都維那法師
徳治二年九月日 某会諸衆請定(前欠) 別当前大僧正・上座法橋・寺主大法師・権都維那法師
元弘二年卯月日 八幡宮大仏殿二月堂等寺祈請定
建武五年九月日 神詫大般若供養題名僧請定 年預五師頼昭
貞治二年五月十日 八幡宮尊勝陀羅尼五十講請定(前欠) 年預五師宗兼
応安三年八月日 寺門安全祭礼無為祈祷学生供衆請定 年預五師賢祐
応永十六年正月日 大仏殿修正西方請定 年預五師清覚*
応永十六年正月日 大仏殿修正東方請定 年預五師清覚*
応永十七年正月日 大仏殿修正東方請定 年預代行遍
応永三十四年正月日 大仏殿修正西方請定 年預代行遍*
建長元年十一月二十五日 戒壇院講堂御仏供養請定 年預五師賢寛
徳治二年正月日 大仏殿修正西方請定 年預五師円信
元亨二年五月日 華厳会西床色衆請定 別当僧正・上座法橋・寺主大法師・権都維那法師
元弘二年正月日 大仏殿修正請定 年預五師円英*
元徳二年正月日 大仏殿修正請定 年預五師清寛
康安二年二月三日 大仏殿祈祷信(真)読大般若衆請定 年預隆深
貞治二年閏正月十四日 寺門安全祈祷尊勝陀羅尼衆請定
貞治三年六月日 解除会仁王般若経転読衆請定 年預五師実専
応永二十六年六月十八日 臨時祈祷仁王般若経読誦衆請定 年預五師定勢
永享四年三月日 八幡宮仁王講衆請定 年預五師賢海
永享五年六月日 解除会仁王般若経転読衆請定 年預五師幸重
永享五年九月三十日 八幡宮京都御祈祷仁王講衆請定 年預五師幸重
文和三年三月日より同年四月日 八幡宮経供養色衆請定 年預五師頼昭
応永十七年十二月日 大仏殿修正造華頭役差定 年預五師賢海
応永十七年十二月日 大仏殿修正初夜導師請定
応永十七年十二月日 大仏殿修正後夜導師請定
応永十八年正月日 大仏殿修正東方請定 年預五師賢海
応永十八年正月日 大仏殿修正西方請定 年預五師賢海
応永十六年十二月日 大仏殿修正燈油頭人差定 年預代行遍
〔参考文献〕永村眞『中世東大寺の組織と経営』塙書房、1989年

 請定以外の文書は以下の通り。

 建暦二年五月二日鴨部頼基請文(年預五師律師御房宛)は、父故小鴨入道證西より伝来した領地が、関東より没収されたこと、東大寺鎮守八幡宮修造を条件に鴨部頼基に返付されるよう、衆議の挙状を賜りたい旨を依頼している。

 寛喜三年五月十三日大仏殿法華・最勝王経転読等巻数案(土代)は、年預五師法師祐承の発給したもの。宣旨によって、聖朝安穏・天長地久・国土安寧・五穀成就の祈祷として、法華・最勝王・仁王各経の転読・口論を実施したことの報告である。副状である五月十三日年預五師書状案(土代)と書き継ぎ案文である。

 (文保元年)五月三日後伏見院院宣案と(文保元年)五月七日後伏見院院宣案は、1紙の書き継ぎ案文でともに関東申次西園寺氏宛と考えられる。大勧進雑掌良範の要求により、悪党による「三ケ関所目錢半分濫妨」「周防国荘税押領」の取り締まりを、武家六波羅に伝えるよう命じたものである。

 年未詳某寺衆徒等起請文(後欠)は、大安寺寺務職相論に関わって作成されたもの。大安寺別当が「他寺」に付けられたことをに強く抗議し、閉門逐電することを誓っている。また鬱訴成就までは、「維摩会供奉、公家仙洞最勝講、法勝寺法成寺季御読経、大仁王会」の催促に従わず、また「五獅子如意」を渡さないと誓っている。「五獅子如意」は興福寺維摩会に際して、東大寺から渡されることになっていた。このほか、「被懸 政所・三方貫主并二親師匠等、雖有制誡、不可随其命」という表現は、東大寺衆徒起請文にあること、また東大寺と興福寺は大安寺をめぐって争論していること(弘安四年五月日東大寺衆徒解案、東大寺文書未成巻文書、鎌倉遺文14322号)などからみて、東大寺衆徒の起請文と判断される。

 (元弘四年頃)元興寺極楽坊談議事書は、東大寺領豊浦本荘土民辰男・寺僧延賢房など住人による、元興寺極楽坊領北豊浦庄への襲撃・焼き討ちを受けて、犯人の処罰を求めたものである。東大寺領豊浦本荘は、確認されない。あるいは地域が重なる東喜殿荘と見るべきであろうか。

 建武五年四月二十九日宣□奉書(前欠)は、内容が不明だが、「可令披露惣寺給候」とあるのは、東大寺惣寺への披露とみるべきだろう。

 永禄二年五月日某法会出仕催促状(前欠)は、十七日辰鐘までに東大寺八幡宮南御倉まで参勤するように通告するもの。

 慶安元年十月晦日櫟本助右衛門請状(金地院様)は、東大寺領であった櫟本村内部での田地相論に関するもの。

 調査に際して、歴史資料館の宇野日出生氏には格別のご配慮を賜った。記して謝したい。