科学研究費補助金(学術創成研究費) 目録学の構築と古典学の再生」研究グループ主催
 2008年秋季第1期学術講演会 第4回 公開講座【古典を読む−歴史と文学−】「いま明かされる古代]]U」
  2008年11月29日(土) 於金鵄会館

大化改新論と律令制研究 [講演要旨]

大隅清陽(山梨大学 教育人間科学部 社会科教育講座 准教授)


 西暦645年の大化改新が、以後の律令国家建設の起点となり、701〜702年にかけて施行される大宝律令に結実するとの認識は、学校教育の現場や一般向けの概説書等を通じて、今日、通説的な位置を占めているといってよいであろう。こうした認識は、学問的には、戦前の坂本太郎による研究に端を発するが、今日の研究段階においては、実は自明の前提とは考えられなくなっている。今回の講座では、戦後における大化改新の研究史を回顧しつつ、そこに内在するさまざまな問題と、今後の古代史研究の方向性について考察した。
 『日本書紀』に見える大化改新詔が、近江令により修飾されている可能性を主張した津田左右吉に対し、坂本太郎は、改新詔を当時のままとし、近江令、飛鳥浄御原律令を経て大宝律令へと至る律令制度形成の起点とした。第二次大戦後、津田の業績の再評価が進むなか、井上光貞の問題提起によって、いわゆる「郡評論争」が展開し、1960年代末の藤原宮木簡の出土によって決着をみたことはよく知られている。その一方、1950年代に青木和夫が近江令否定論を提起したことにより、律令制形成の画期として天武・持統朝が注目されるようになり、坂本学説の相対化が進んだ。
 1960年代後半には、いわゆる大化改新否定論が展開され、原秀三郎は、改新詔1条に見える公民制の施行は天智朝以後であるとして、改新詔自体の存在を否定した。また門脇禎二は、645年6月の蘇我本宗家滅亡事件は単なる政変であって後の政治改革の起点ではなく、同年8月の東国国司派遣も造籍や校田は行っておらず、舒明・皇極朝にも前例のある旧制度にすぎないとした。その後、1977年の鎌田元一の論文「評の成立と評造」は、7世紀における立評が孝徳朝に全国一斉に行われたことを明らかにした。この見解は、今日から見ると、改新否定論を見直す契機となりうるものであったが、鎌田自身は、自説と改新否定論との接合をはかり、立評と公民制成立の問題を切り離して、670年の庚午年籍は領域的編戸による里制を伴わず、旧部民に対する族制的な編戸(五十戸制)が部分的に施行されたにすぎず、国−評−里による律令制的な公民支配は、690年の庚寅年籍にいたって成立するとしたのである。
 しかし、2002年に飛鳥石神遺跡から出土した木簡から、庚午年籍以前の天智朝初年に、旧部民に限らない全公民を対象とする五十戸が存在した可能性が指摘されるようになったことは、こうした見方に修正を迫ることになった。2004年の吉川真司の論文「律令体制の形成」は、五十戸(=里)制は、大化元(645)年の人民・土地調査を前提に、孝徳朝の天下立評段階で既に成立していたとし、白雉3(652)年戸籍や近江令も実在したとして、改新否定論と近江令否定論を、ともに否定することを試みている。
 吉川の見解は、「体系的な民衆支配があるところには体系的(中国的)な律令法がある」との認識を前提としているが、講師の大隅はその点に疑問を感じている。井上光貞の指摘以来、近江令以後の日本令の藍本は、全て651年成立の唐永徽令であることが通説となっているが、645年の改新時には永徽令は存在しない以上、改新当初の国制や政策は、南北朝から隋代までの中国や朝鮮半島のそれの影響下にあったと考えざるをえないからである。
 講師は最近、日本律令制(「広義の律令制」と仮称)を、魏晋南北朝から隋代にかけての律令制を朝鮮半島経由で継受した部分(「プレ律令制」と仮称)と、日本令の編纂過程で唐令の体系に準拠して記述された部分(「狭義の律令制」と仮称)の二層構造としてとらえることを提唱している。「プレ律令制」の起点は、門脇禎二の東国国司論の評価の部分のみを、大化前代的な旧制度ではなく、律令制を準備した新しいものとして逆転させると、少なくとも皇極・舒明朝まで遡る可能性があり、またその下限は、天武・持統朝の国制と同時代の新羅国制との共通性を強調する李成市の見解を敷衍すれば、持統朝まで降る可能性がある。
 1997年に中国・寧波で発見された北宋天聖令によって、新たな段階を迎えている唐令復原研究も、この問題と無関係ではない。天聖令から復原された唐令の姿は、従来から想定されてきた以上に養老令に近似していることが多く、日本令の編纂過程における大宝令の意義を、改めて検討する必要が生じているからである。講師の考えによれば、唐令を篇目ごとに第1条から順番に検討し、それに対応する日本令の条文を確定してゆくような逐条的・体系的な継受は大宝令が最初であり、その編纂は、朝鮮諸国や中国南北朝の国制と強い共通性をもった7世紀までの国制を、唐令の体系に準拠して記述し直す新しい試みであった。大宝令と浄御原令の段階差をこのように強調してゆくと、7世紀までの国制は、ある意味で全て「プレ律令制」になりかねず、律令制形成史自体の見直しが必要となってくる。
 改新詔を当時のものと考えた坂本太郎は、詔に後の大宝・養老令と同内容の規定が盛り込まれている以上、日本令のモデルも唐令であって、改新は当初から唐制導入が目的であったと考えていた。直線的・一国史的な発展史観ともいえるこの枠組み自体は、改新否定論や近江令否定論にも継承され、律令制形成の起点としての大化改新を否定することは、坂本説を前提として、その年代観を修正するにすぎなかった面もある。しかし、7世紀国制(浄御原令)と大宝令との明らかな段階差は、直線的な発展史観の克服を要請し、7世紀国制と朝鮮・南北朝国制との強い関連性は、主として唐と日本のみを対象としてきた従来の一国史的な枠組みの再検討を要請する。この意味で、「大化改新論」と「律令制研究」という二つの研究課題は、新たな段階を迎えつつあると考えられよう。

<参考文献>
野村忠夫『研究史 大化改新』(吉川弘文館 1973年)
鎌田元一『律令公民制の研究』(塙書房 2001年)
吉川真司「律令体制の形成」『日本史講座 第1巻』(東京大学出版会 2004年)
大隅清陽「大化改新論の現在」『日本歴史』500号(吉川弘文館 2006年)
大隅清陽「大宝律令の歴史的位相」大津透編『日唐律令制比較研究の新段階』(山川出版社 2008年)